安全とはいったい、なんなのだろう?
最近、そんなことを考えることが多くなった。
夜勤明けの土曜日の朝、朝起きた時にインターネットを見ると、私の元同級生がインターネットで株主総会に参加したり、車や二輪車を買って乗ったり、買った家の写真をアップしている。ある年齢を越えると怒濤の消費ラッシュが始まるようで、かつての友人たちも次々に大人の消費活動を決めている。
一方、私はといえば、消費どころか若者の様に親元に寄生して、自分一人の身ですら養えない状況を、かれこれ数年も余儀なくされている。私にとって、自分が若者であるという現状は、耐えがたい屈辱である。ニュースを見ると「消費離れが不景気の原因だ」「日本の不況の戦犯は意識の低い国民だ」などと直接的な批判を向けられることがある。「景気回復のために減税して消費を活性化さする」とアナウンサーが読み上げるのを聞いて、「ああ、不景気の象徴ってのは、ロクな買い物もしない、俺みたいな野郎のことか」と打ちのめされることもある。
しかし、世間は安全だ。
伝染病のニュースが流れることはあっても、ほとんどの人は「明日、病気で死ぬかもしれない」などとは考えていないし、日本人のほとんどが「この世の終わりかもしれない」とおびえているわけでもない。安全という言葉の意味は「危害や損害を受ける恐れがないこと」、すなわち「危険のない生活が続いていくこと」だそうで、多くの人が今日と明日で何ひとつ変わらない生活を続けられれば、それは「安全な社会」ということになる。
ならば、私から見た「安全な社会」というのはロクなものじゃない。
出張のない平日には、朝早くに電車か自転車に乗って、それから9時間~13時間ぐらい働いて、夜に家に帰ってきて、ネットサーフィンして、日付の変わってしばらくした頃に寝て、早朝頃に目覚めて、ネットサーフィンして、また仕事先に行く。この繰り返し。
休日は早朝に起きてスマホを時々見ながらゲームを楽しみ、食事を時々挟みながら夜まで遊び、風呂入って寝る。
自宅は近畿、月給は40万円強なので生活はなんとかなる。だが、本当は実家などで暮らしたくも今の仕事をしたくもない。両親や会社とはソリが合わないし、電車がないとまともに生活できないような土地柄も嫌いだ。ここにいると、まるで子ども扱いされているような気分になってくる。できるなら東京とかへ引っ越してでも新興ベンチャー企業に転職したい。しかし、今の生活状況ではかなわない。大の大人が、自分の生活する手段すら自分で決められない。しかも、この情けない状況すらいつまで続くか分からない。両親が年老いて働けなくなれば、生活の保障はないのだ。
「もっと恵まれていない人なんていくらでもいる」と、世間は言うが、その足がかりはいったいどこにあるのか。一部の人間以外は不幸を強いられるかのように言われる現代社会では、まともに扱われる人は一部の仕事の人ばかり。私が近所で付き合っている人は元引きこもり、元オタク、外国人と幸福な日本人とはほど遠いものばかりだ。日本の政治家はより豊かな社会を作ろうなどと言うが、我々が欲しいのは幸福な生活であって、成長などという搾取の機会ではない。
そして何よりもキツイのは、そうした私たちの苦境を、世間がまったく理解してくれないことだ。「生活が大変」という愚痴にはあっさりと首を縦に振る世間が、「私は不幸だ」という愚痴には「それはお前が悪い」と嘲笑を浴びせる。何をしていいか分からないのに、何かをしなければならないというプレッシャーばかり与えられるが、もがいたからといって事態が好転する可能性は低い。そんな状況で希望を持って生きられる人間などいない。
幸福に生活できない私たち日本人の多数派の多くは、これからも屈辱を味わいながら生きていくことになるだろう。一方、幸福に暮らせる日本人の少数派の多くは、我々を見下し嘲笑しながら、これからもぬくぬくと生きていくのだろう。なるほど、これが「安全な社会」か、と嫌みのひとつも言いたくなってくる。