- 新羅の三国統一以後まともになった交流が切られた統一新羅と日本. 『三国史記』を見れば, 日本は統一新羅の実情を把握するために西紀 698年, 使臣を派遣する.
酵素王(孝昭王) 7年, 3月に日本国使臣がのぼったので, 王がスングリェゾン(崇礼殿)に呼んで接見こんにちはだった. (三月, 日本国使至, 王引見於崇礼殿.)
- 訪問以後統一新羅の先進文化と発展の姿に驚愕した日本はこれを学ぶために西紀 703年大規模使節団派遣を決心, 実行に移すが...
成徳王(聖徳王) 2年, 日本国使臣がのぼったが, 皆 204人だった. (日本国使至, 〓二百四人.)
- しかし… 統一新羅の水準をギョンシンラサ(遣新羅使) 派遣だけで追い付くにはあまりにも先進的なのを悟った日本. 結局西紀 731年新羅侵攻を通じて強制で奪おうと思うが...
成徳王(聖徳王) 30年, 日本国兵船 300尺が海を渡って私たちの東変更を襲ったので王が長寿をさせて軍事を出してこれを大きくなるように破った. (日本国兵船三百?, 越海襲我東辺, 王命将出兵, 大破之.)
- まともに上陸もできなくてこなごなに壊れた日本, 結局容赦を謝るために西紀 742年に使臣を派遣するが‥
景徳王(景徳王) 元年, 冬 10月に日本国(日本国) 使臣がのぼったが受け入れなかった. (元年冬十月, 日本国使至, 不納.)
- 完全に無視された日本, しかし自尊心はあって虚勢を張りながらまた謝ろうと思うが..
景徳王(景徳王) 12年, 秋 8月に日本国使臣がのぼったが, 傲慢で礼儀がなかったので王が彼らを接見しないで遂に帰った. (十二年秋八月, 日本国使至, 慢而無礼, 王不見之, 乃迴.)
- 再び無視された可哀相な日本. 結局西紀 804年, 統一新羅の属国になることに決心, 朝貢を捧げる.
愛蔵王(哀荘王) 5年夏 5月に日本国が使臣を送って黄金 300量を捧げた. (五年夏五月, 日本国遣使, 進黄金三百両.)
- 早い殊勝にここは統一新羅はいよいよ日本を容赦と属国として認める. 西紀 806年属国に下校する新羅.
愛蔵王(哀荘王) 7年, 春 3月に日本国使臣が来たので兆ウォン前(朝元殿)に呼んで接見こんにちはだった. 教書を下げて言った. 『寺を新たに作ることを禁ずるが, ただ修理することは承諾する. また刺繍した絹を仏教行事に使うことと金と銀で作った器の使用を禁ずる. 適切に担当官庁にとってこれを広く知らせて施行するようにしなさい.』 (七年春三月, 日本国使至, 引見朝元殿. 下教禁新創仏寺, 唯許修葺. 又禁以錦繍為仏事, 金銀為器用, 宜令所司, 普告施行.)
- 査察を修理することさえ "宗主国" 新羅の許諾がなければ敢えてできなかった日本. 以後 "属国" 日本に対する宗主国新羅の愛は続いて… 新羅の両親のような愛に感動した日本は西紀 882年, 報いる.
憲康王(憲康王) 8年, 夏 4月に日本国王が使臣を送って黄金 300量と夜光珠[明珠] 10個を捧げた. (八年夏四月, 日本国王遣使, 進黄金三百両・明珠一十箇.)
- 以後韓半島の情勢は後三国時代に入って, 統一新羅は崩れて王健の高麗が建国される. 悲しくて惜しくも高麗と日本の関係を見当をつけることができる資料はすごく少なくて, 第3者の資料に寄り掛かるしかない. これを確認することができる中国側の資料を見よう.
Wagokuは日本国だ. Wagokuという元々名前を恥ずかしがったが, 極東にあると言って自らが日本だと呼ぶ. 高麗の属国だ.
- グァックヤックホ(郭若虚), 桃花見聞誌(図?見聞誌)
王健が新羅と百済を撃破したらここに Wagoku・タムブ(耽浮)・ファンオだと(驩於羅)・チォルルック(鉄勒) など東夷の多くの国が皆恐ろしがって高麗に帰属した.
- 自治痛感(資治通鑑), チン(晉) 天福(天福) 元年(元年)