黒人と日本人

1920年代から本格化した日本人の米国移民について、黒人は好意的に受け入れた。
日本人ビジネスマンは、当時カリフォルニアの黒人発行地方紙によく広告を載せてくれた。
例えば「大阪シルク工業社」「ミカドランドリー」など、複数の日本人企業が広告を載せた。
併せて、現地の日系地方紙は、黒人の人権を擁護する一方で、黒人のリンチ(私刑)を批判する記事をよく掲載した。
肌の色で人種の優劣を問うことが当たり前とされていた人種差別の時代、ロサンゼルスに位置する日系病院では、二人の黒人医師が働いていた。
これと関連して「カリフォルニアイーグル」紙はこう書いた。
<ほとんどの病院が黒人医師に門戸を固く閉じているが、日系の病院はすべての人種に医師の門戸を開放した。これは嬉しいことである。患者の立場では、同じ人種の医師から診療を受けられる安心という利点もある。>
このようにして、黒人を差別しないという日本人のイメージは、米国現地で広く知られるようになった。
白人社会が有色人種に及ぼした影響を研究するためだった。
デュボイスのこの時の経験は、「ピッツバーグクリア」紙にコラムとして連載された。
中国上海でのことだった。
デュボイスは、まさに目の前で4歳の白人の子供が、中国人の大人三人に対して、威張った態度で、「今すぐ道をよけろ」と命令する光景を目撃した。
すると中国人の大人3人は、振り返って見て、白人の子供の姿を確認し、慌てて道をよけた。
デュボイスは、こういったシーンを見て、大きく落胆した。
このような場面は、アメリカの南部でよく目にするのと同じ姿だった。
当時、世界有数の大都市の上海が、白人の影響圏に入っていたので、このような姿になったのだ。
デュボイスは次に日本を訪問した。
当初、中国と大差ないだろうと思っていた彼は、日本では全く違う経験をすることになった。
日本の帝国ホテルでのことだった。
デュボイスはフロントでチェックアウト(ホテルでのコスト計算)を行っていた。
そこに、典型的なアメリカ白人女性が来て、いつもそうであるような当たり前の態度で、チェックアウトを進行中のデュボイスの前の席に割り込んだ。
今日なら失礼な行動だが、当時はあまりにも当たり前の常識だった。
しかしホテルのフロントのスタッフは、割り込んだ白人女性にまともに関心を与えず、デュボイスのチェックアウトの手続きをそのまま丁寧に進行した。
そして、手順がすべて終わった後、スタッフはデュボイスに向かって再び丁寧に挨拶をして仕事を終わらせた。
それからそのスタッフは、その威張った白人女性に向かい、何事もなかったような態度で、初めてチェックアウトの手続きを進めはじめた。
そこでデュボイスは、当時白人が支配していたほとんどの世界とは全く違う新しい世界がまさに日本だということを感じた。
「祖国の米国も私を冷遇するが、日本人は本気で黒人の私に丁寧に接してくれる」という考えを持ち、以降デュボイスは日本の愛好家になって、特に日本を指して「有色人種による有色人種の有色人種のための国」と言及した。
米国の黒人ジャズ演奏家として有名なアート・ブラッキー(ドラム演奏者)が言った言葉だ。
1961年、アートブ・ラッキー・ジャズグループ一行は、日本の地に初めて到着した。
日本の空港到着時に、アート・ブラッキー一行は、自分たちの音楽が既に日本の国営放送を通じて日本全域に放映されたというニュースを聞いて、大きく驚いて、「本当か?嘘ではないか?」と半信半疑だった。
そのような放送は、米国でもなかったことだったからである。
空港に夜10時に着くと、アート・ブラッキー一行を歓迎するため、多くの日本人が花束などを用意して群れをなして待機していた。
アート・ブラッキーは「誰か有名な人が同じ飛行機に乗っていたのだろうか」と思った。
しかし、その歓迎の人波は、実際には自分たちのためのものであるということを知って、アート・ブラッキーは思わず涙を流してしまった。
そして、日本人が近づいてきた。
「ミスター・ブラッキー、お願いが一つあります」「何ですか?」「私と一緒に写真を一枚撮っていただけないでしょうか?」「何でしょうか?本当ですか?」「もちろんです。是非お願いいたします」
「私は黒人なのに…私と一緒に写真を撮っても本当に大丈夫ですか?」
「何の関係もありません。是非お願いします」
人気のあるジャズのスターだったが、自分の祖国の米国では、アート・ブラッキーはひどい人種差別を受けていた。
ところが、国籍も人種も全く違うも、自分たちの音楽をシンプルに好きになり、肌の色で人を差別しない日本の地でのこのような経験は、彼にとって一種の衝撃だった。
アート・ブラッキーは日本公演を終えて出国する前、このような話をした。
「私は今まで世界の多くの国に行ったが、日本ほど私の胸の中に強い印象を残した国はない。私たちの演奏を聞く態度はもちろん、アフリカを除いて、日本だけが唯一、私たちを人間として歓迎してくれた。日本はあるがままの人間として私たちを迎えてくれた。」
アート・ブラッキーはそれ以来熱狂的な日本の愛好家になって、日本女性と結婚して、1990年に亡くなるまで頻繁に日本を訪問した。
バンダービルド
引用ソース
https://www.chogabje.com/toron/toron22/view.asp?idx=&id=135584&table=TNTRCGJ⊂_table=TNTR01CGJ&cPage=1