古代朝鮮は日本より優れているニダァ!とウィキをペタペタ貼っているとあるIDの
昨晩の投稿に違和感を感じた。
あれ、ウィキ好きの癖にウィキからまるごと説明を持ってきていない。なぜ?
違和感があったので、画像検索で調べてみた。
ARC浮世絵ポータルデータベースによると
幕末-明治の浮世絵画家の月岡芳年の作で「教導立志基」の伊企儺と分かる。
http://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_9/view/id/3394400/page/6
彼の説明
新羅将軍が敗戦した日本将軍のよろいを脱がせて天皇に “私の尻をかみなさい!”と叫ぶように言い付けた事件 (562年)
(参照で当時将軍は新羅人の命令を拒否して, かえって自分を殺しなさいと言って新羅の王は私の尻をかみなさい! と叫んだ. 出身は日本人ではなく 百済で大和で帰化した将軍でとても勇猛 w)
ウィキの説明を確認する
日本将軍との記載は無い。従軍したとのみ。
百済で大和で帰化した将軍の記述も無い。百済からの渡来人の血を引くとされるとだけ。
あれ、嫁さんの名前は大葉子じゃん。甘美媛は上司の嫁さんです。
将軍を連呼する事で甘美媛と夫婦だと誤認させて調伊企儺をさらに貶めようとしたんだな。
ウィキを直接貼り付けられない理由は任那日本府再興目的の討伐軍、これだな。
つまり、弥生時代の日本から朝鮮半島への進出の記述を隠す、
甘美媛の旦那と誤認させる様に悪意を持って資料の抽出切り貼り、
説明のねつ造を行った訳だ。
調伊企儺
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
https://ja.wikipedia.org/wiki/調伊企儺
「教導立志基」より『伊企儺』
大蘇芳年筆
調 伊企儺(つき の いきな、生年不詳 - 欽明天皇23年(562年)7月)は、日本の6世紀中頃の武将。姓は吉士(きし)で調吉士伊企儺(つきのきしいきな)と称する。大葉子の夫[1][2]。
経歴
『日本書紀』の記述によると、百済からの渡来人の血を引くとされる。また勇猛であったともされる[3]。欽明天皇23年(562年)に任那日本府の再興を目的として編成された、紀男麻呂を大将軍、河辺瓊缶(かわべの にへ)を副将とする新羅征討軍に従軍した。瓊缶は戦法に疎く、降伏の証しと知らずに白旗を掲げて進軍したため、兵の混乱を伴って敗れ新羅の捕虜となった。勇猛な性格の伊企儺は瓊缶が捕らえられてからも新羅の降服勧告に従わず抵抗していたが、新羅の謀略にはまって夫とともに出征していた妻の大葉子共々囚われの身となった[1][2][4][5]。
捕虜となった伊企儺は褌(はかま)を脱がされて日本に向けて尻を出させる屈辱的な扱いを受け、更に新羅の将からその状態で「日本(やまと)の将(いくさのきみ)、我がしりを くらへ」と言う様に強要されたが、これには服せず「新羅の王(こきし)、我がしりを くらへ」と叫び続けたので、拷問の末に殺された[1][2]。伊企儺の遺児である舅子(おじこ)もまた、父の亡骸を抱いて死んだという[2][6]。夫が殺されたことを知った大葉子は夫の死を悼んで、日本を偲んだ歌を謡った[5][7]。
ただし、この説話は後世に付されたという見方もある[2]。