全羅道(栄山江流域)に前方後円墳が多く見つかるわけだが、特に前方後円墳だけでなく百済式石室もあるわけで、委式と百済式の併存だった。
面白いのは主力だった前方後円墳が始まる前は百済式がなかったこと。木棺や甕棺のようなどこにでもあった墓形式だ。
委が百済に割譲した4県(私は全羅道と比定している)の直後から前方後円墳と百済式石棺が流行りだしたことが年代測定で確認できている。
これ(前方後円墳と百済式石室)は支配国百済と長年の同盟関係のあった委の関係から当然と思える。
そして時代が過ぎると前方後円墳は日本本土でも全羅道でもなくなるわけだ。全羅道では百済式だけが見つかっている。
疑問は全羅道以外では、委と長い友好関係にあり軍事的には委の保護国となる旧弁韓地域に前方後円墳が見つからないこと。
これは旧弁韓地区の各部族国家は委と密接な友好関係を保ちながらも支配関係はなかったことを意味している。まぁ保護国という位置づけさ。
宗主国の中国が保護国朝鮮の国内統治に干渉せず、住民の交易も許さなかった事を思い出せば容易に納得できる国際環境だ。外交と軍事は許さないが、国内統治は自由にさせる関係と同じ。
で、前疑問の回答を示そう。
百済に4県割譲後に初めて委は苦境にある百済救援の目的で割譲4県に将軍を派遣したのではないかな。
だがこの認識はbooq君によって「低能児の妄想」と言われてしまった。
そういわれると確かに将軍クラスの派遣では歴史書に記載があるわけで、4県割譲でも大騒ぎをした日本の事から見ても、「将軍クラスの派遣」は違うと考えてよい。
そうなると派遣したのは幹部要員ではないかな。彼らなら歴史書に残すことも必要ないし、そもそも4県割譲という大決断が大きいので派遣者の事など記述しないわけだ。
委から幹部要員を派遣された栄山江流域では長年の同盟国の幹部要員なので大事に葬った。本国で流行している祭祀方法(前方後円墳)にしたわけだ。」