高句麗に関する最古の記述は、『漢書』「地理志」に
「玄菟・楽浪郡は武帝の時においた(前107年)。みな朝鮮・濊貊・句驪の蛮夷の地である」とあるものだ。
その後、チュモンの姓の「高」がついて、隋唐の時代には「句」がねぐられて「高麗」と記述される。
さて「句」はなんなのかだが、同じく「句」がつく「句呉」(春秋戦国時代)と共通点をさぐってみよう。
句呉も第19代の王の時に「句」がネグられて単なる「呉」に改名された。
これから考えると「句」は国の建国に関わっており、国が十分に認知されたら必要がなくなったと考えられる。
では高句麗と呉の国の建国の共通点はなにか。
それは、外来の王の元に小国がまとまって建国したということだ。
呉の場合には、周の王族の太伯を王として向かい入れて建国した。
高句麗の場合には、扶余の王族のチュモンを向かい入れて建国した。
(出身の国とは)ひとくぎりをつけて任務にあたるという字の意味と合っている。
ただ、チュモンが扶余出身であることには異説もある。
ぼくは、句麗(kuriyo) は、蚩尤の民族の総称のひとつである九黎(呉音でkurei,kuri)と関係しているのではないかと憶測している。
朱蒙という名前は蚩尤の色である赤を引き継いでおり、別名の鄒は蚩尤の遺民の名前である。