菜畑遺跡


縄文時代晩期後半、谷底平野には湿原が広がっており、背後の丘陵には照葉樹林が育っていた。縄文時代晩期後半に入ると谷底平野の斜面下部や低地の縁辺で、陸稲的な状況でイネの栽培が始まった。縄文時代晩期終末に入ると雑草の種子は大半が水田雑草で占められる。
従来の縄文時代晩期末の水田跡、紀元前930年頃(放射性炭素14の較正年代)
遺構は16層から成っており、水田の遺構が確認されたのは縄文時代晩期後半の12層からである。それより上層にも弥生時代中期までの水田遺構が検出された。水田遺構は18平方メートル余りで小さな4枚の田で、当時は直播きで栽培されたと推測されている。
花粉分析の結果、イネ属の花粉は夜臼式土器(柏崎式土器)以前から出現し、第12層の上部で突発的に増加する。このような突発的増加は人間が搬入したものと考えられる。一方、種子は第12層以下ではアリノトウグザ水湿性植物の種子が多く出た。