Isabella Bird Bishop - Korea and Her Neighbours

「正確に言えば韓国に道路は存在しない。旅人が馬または徒歩で進むペースはいずれの場合も一時間に三マイルで、道はとにかく悪い。
旅人が馬または徒歩で進むペースはいずれの場合も一時間に三マイルで、道はとにかく悪い。人工の道は少なく、あっても夏には土ぼこりが厚くて冬にはぬかるみ、均〈なら〉してない場合は、でこぼこの地面と突きでた岩の上をわだちが通っている。たいがいの場合、道といってもけものや人間の通行でどうやら識別可能な程度についた通路にすぎない。しかも深いぬかるみを避けて歩くしかなく、ぬかるみは殆ど底なしである。橋のかかっていない川も多く、橋の大半は通行部分が木の小枝と芝生だけでできており、七月はじめの雨で流されてしまう。そして一〇月なかばになるまで修復されない。地方によっては、川にさしかかったら浅瀬を渡るか渡し舟に乗るかしなければならず、これには必ず危険と遅れがともなう。(p.169)
麻浦近くではなにもかも砂地を渡らなければならない。下肥を郊外へ運ぶ荷牛を満載した渡し船に出会いながら漢江を渡り、荒れて勾配がきつく、汚くてぬるぬるした河岸に降りると、そこからすぐに、狭くて不潔でぬかるんで、でこぼこした麻浦の通りに入った。
路地の多くは荷物を積んだ牛同士がすれ違えず、荷牛と人間ならかろうじてすれ違える程度の幅しかなく、おまけにその幅は家々から出た個体及び液体の汚物を受ける穴か溝で狭められている。
悪臭ふんぷんのその穴や溝の横に好んで集まるのが、土ぼこりにまみれた半裸の子供たち、かすみ目の大きな犬で、犬は汚物の中で転げまわったり、日向でまばたきしたりしている。
橋の架かっていない川も多く、橋の大半は通行部分が木の小枝と芝土だけでできており、山間部では、道とは大方が渓流の川床に丸石をばらまいた以外のなにものでもなく、7月初めの雨で流されてしまう。道の酷さが朝鮮の発展の大きな障害の一つになっている。幅は一六二ヤード水深一六フィートのペギャン江を私たちは飛び切り工夫に富んだ造りの渡し船で越えたが、渡し船は、この川にかかった長い橋が壊れ、復旧に充当されるはずの資金は地方官僚が横領してしまったためやむなく必要になっている。(173ページ)
Claude Charles Dallet - HISTOIRE DE L"EGLISE DE COREE

商取引におけるもう一つの障害は、交通路のみじめな状態である。航行可能な河川は非常に少なく、ただ幾つかの河川だけが船を通すが、それも制限された区域の航行が許されているだけである。
一方、この国は、山岳や峡谷が多いのに、道路を作る技術はほとんど知られていない。したがって、ほとんどすべての運搬が、牛か馬、もしくは人の背によって行われている。
橋について私は、二種類のものを知っています。一つは、小川の所どころに大きな石を投げ込んで作ったものです。これがもっとも一般的なものです。もうひとつの種類は、川に杭を打ちこんで作ったものです。これは、上に板のようなものをかぶせて土でおおってあり、しばしば穴があいているが、それでもいちおう橋の形をしています。夏にはよくあることですが、水かさが増すと、川の氾濫によって、すべての橋は流されるか水に漬かるかしてしまいます。そして、これがまた、旅人に途中で水浴びをする楽しみになるのです。
朝鮮全土に道路網が張り巡らされた

『総督府年報 1941』「第12章 土木」の「第1節 土木行政の遠隔」および「第2節 道路改修」
朝鮮に於いては従来殆ど道路として見るべきものはなく、人文の普及・経済の発展に資するが如きは到底期待できないところである。そこで大正4年(1915年)道路規則を制定し、道路を一等(有効幅7メートル以上)・二等(有効幅5.5メートル以上)・三等(有効幅4メートル以上)・等外の四種として、朝鮮全土に亘る道路網を確定した。その後20年が経過して、時勢に順応出来なくなったので、1938年12月に朝鮮道路令を制定し、路線の認定・管理・付近地の制限及費用負担を定めて、道路行政の根本を確立した。そして道路を国道・地方道・府道・邑道の4種に分け、国道は朝鮮総督府、地方道は道知事、府道は府長などの管理(保全・補修などと費用負担を含む)と定めた。
1939年末現在に於いて、国道は92路線で延長1万2274キロメートルであり、全朝鮮の主要道路を形成した。地方道は650路線で1万8375キロメートルになった。費用は総督府の予算が組まれて、支払われた。
1910年から1939年までの29年間に道路の改善・修理と建設が行われ、全朝鮮に総延長3万キロメートルが構築された。
THE NEW KOREA「第2章 朝鮮の描写と歴史」「鉄道」

鉄道建設は、ソウルと仁川の間の約25マイル(約40キロメートル)の路線だった。この路線の敷設権は1898年、朝鮮政府によりアメリカ人に保証されていた。しかし、路線の建設は、日本の会社が買い取り、そのまま完成させて、1902年に開通させた。
次に建設すべき路線はソウルと釜山との間の路線だった。路線建設と運営の免許は1898年に日本の財閥に与えられ、1901年に建設が始まり、1904年に完成し、1905年1月1日に開業した。全長268マイル(431キロメートル)だった。
その後、1905年には636マイル(1023キロメートル)まで延長され、全鉄道路線を買い取り、政府の規制と管理下に置いた。1901年には朝鮮には鉄道が全く無かったが、1925年には2092キロメートルまで開通して、年間1750万人(当時の朝鮮の全人口に相当)の乗客を乗せる迄に成った。
「総督府年報1941」
1939年には4089キロメートルの営業距離になっている。
総路線長:1939年で4089キロメートル
累計投資額:8億6千万円余り(現在価値約17兆2000億円)
停車場数:599駅
従業員総数:42,436人(内朝鮮人18,000余人)
運運賃:3等0.0155(310)円/キロメートル、2等0.028(560)円/キロメートル、1等0.044(880)円/キロメートル。(括弧内は現在価値に換算した運賃)
運輸成績:1910年比で、旅客人員29.5倍、収入30.0倍、貨物トン数17.6倍、貨物収入25倍。
京釜線(京釜本線と3支線を含む4線):638.1キロメートル
京義線(京義本線と6支線を含む7線):610.3キロメートル
湖南線(湖南本線と1支線を含む2線):285.8キロメートル
咸鏡線(咸鏡本線と5支線を含む6線):554.5キロメートル
京慶線(2線):179.0キロメートル
平元線(2線):153.9キロメートル
満浦線(満浦本線と2支線を含む3線):336.8キロメートル
慶金南部線:110.1キロメートル
鎮海線: 20.6キロメートル
恵山線:141.7キロメートル
白茂線:136.8キロメートル
委託管理線(3線):329.2キロメートル