三国史記’ 高句麗栄養王1 8 年 (607)には “かつて[初] 数(隋) 羊蹄(煬帝)がギェミン(啓民)の帳幕にお出ましした時
高句麗使臣がギェミンの家所にあった”と言う記録が出る. ここでギェミンは突厥(突厥)のギェミン加えた(可汗・皇帝)を意味するのに,
突厥はトルクの音域(音訳)として現在トルコの電信だ. したがってこれは数羊蹄が北方トルク帝国を訪問したらおりしも
高句麗四神図あったという話だ.
こんな内容は ‘水棲(隋書)’ 羊蹄本紀(本紀) 大業(大業) 3年(607) 組にも積まれている事実だ.
この時羊蹄は高句麗使臣に “帰るのね王に適切に早く来て朝見(朝見)するようにしなさい”と,
そのようにしなければギェミンとともに攻撃すると脅かす. 羊蹄は高句麗とトルクの通交(通交)に大きい衝撃を受けたのだ.
高句麗とトルクはひとときキタイと旺歪などの支配権を置いて葛藤を経験したりしたがスナラが中原を統一すると同盟関係を結んで
共同対応したのだ. 栄養王は在位 9年(598) 旺歪(靺鞨)軍事 1万名余を従えて夭逝(遼西)を先制攻撃して,
羊蹄の父親問題(文帝)の 30万大軍を全滅させた張本人なので羊蹄の入朝(入朝) 要求は見栄だった.
羊蹄は何年後高句麗を侵攻してからかえって王朝が亡びてしまった.
‘朱書(周書)’ 二役(異域) 突厥(突厥) 熱戦は “トルクはたいてい匈奴の別種だ”とおもしろい詩調伝説を伝える.
戦争で敗れて一子供だけ住んだが裡里が食わした. これを中隣り国王が子供を殺して裡里も殺そうと思ったが裡里は
北山で逃げて少年の血管である十人の息子を生んだ. これらは金山(金山・アルタイ山) 南側に暮しながら鉄工(鉄工)になる.
金山がドム(兜?・かぶと) みたいで, 俗語に二無価トルク(突厥)利己のためトルクと呼ばれた.
これはオオカミの濡れる食べて寝たというローマ詩調ロムルスと似たり寄ったりだ.
トルクは 13世紀にはオスマントルク帝国を建設するのに,
現在トルコの国史教科書は高句麗をトルクの兄弟国だと説明すると言う.
来年 3月が韓国とトルコ修交 50周年だというのに, 栄養王 1 8年を基点にする場合来年は修交 1400年になる.