捕虜虐めで有名だった朝鮮人!
<朝鮮人・台湾人の戦争犯罪人>
「B・C級戦犯」の中には、旧植民地出身の朝鮮人・台湾人がいた。その数は、朝鮮人が148人、台湾人が173名だった。
連合国が、日本の戦争犯罪の中でも"捕虜虐待"を特に重視していたこと(ポツダム宣言の第10項)、日本軍が、東南アジアの各地に設置した捕虜収容所の監視員に朝鮮人・台湾人の軍属を充てたこと、
連合国各国が朝鮮人・台湾人を、「敵国に使用された臣民」と見なし、日本人として裁いたこと、
上官の命令に基づく行為でも責任を免除されないとしたことが、
多くの朝鮮人・台湾人の戦犯を生み出した要因となった。
泰緬鉄道建設の例に見られるように、日本政府が「ジュネーヴ条約」の準用を連合国各国に約束しながら、それに基づいた処遇を適正に行わなかった為、条約に反した命令・処遇の実行責任が、末端の軍属にも問われたのである。
朝鮮人戦犯148人のうち、軍人は3人だった。1人は洪思翊中将であり、2人は志願兵だった。
この他、通訳だった朝鮮人16人が中華民国の国民政府によって裁かれ、うち8人が死刑となった。
残る129人全員が、"捕虜収容所の監視員"として徴用され、タイ・ジャワ・マレーの捕虜収容所に配属された軍属である。
尚、敵国の婦女子をはじめとする民間人を抑留したジャワ軍抑留所の監視にも朝鮮人軍属があたったため、オランダ法廷で戦犯となっている。
台湾人軍属は、ボルネオ捕虜収容所に配属された。オーストラリア法廷で多くの台湾人が戦犯として裁かれており、うち7人が死刑、84人が有期禁錮となった。
ちなみに朝鮮人・台湾人の戦犯は、日本人が「内地送還」になる際、一緒に日本へ送還され、巣鴨プリズンに収容される事となった。
<BC級戦犯>
B級戦犯(ビーきゅうせんぱん)およびC級戦犯(シーきゅうせんぱん)とは、第二次世界大戦の戦勝国である連合国によって布告された国際軍事裁判所条例及び極東国際軍事裁判条例における
戦争犯罪類型B項「通例の戦争犯罪」、
C項「人道に対する罪」に該当する戦争犯罪または戦争犯罪人とされる罪状に問われた一般の兵士ら。
A級と同様に、B、Cは戦争犯罪の類型(分類)である。
<戦犯収容所>
戦犯容疑者たちは、収容所で私的暴行を受けたと証言する者が多く、暴行で死亡した者がいたという証言もある。
<裁判>
法務大臣官房司法法制調査部『戦争犯罪裁判概史要』によれば、起訴件数は2,244件、5,700名が起訴されたとなっている。ただし、この数字には、ソビエト連邦と中華人民共和国での数字が含まれていない。
軍事法廷という形式上、裁判は一審制であったが、通常の軍律裁判とは違い弁護人が付けられた。
特に中国、ソ連、オランダによる法廷では、杜撰な伝聞調査、虚偽の証言、通訳の不備、裁判執行者の報復感情などが災いし、
不当な扱いを受けたり、無実の罪を背負わされる事例も多数あったと言われる。
特に、この主張は被疑者を含め、日本側の関係者を中心に見られる。
(例として、栄養失調の捕虜にごぼうを食べさせた。もしくは肩凝り、腰痛の捕虜に灸を据えた収容所関係者が捕虜虐待の罪に問われ有罪とされた、などが挙げられる。ただし、これらの事実が公判で虐待として指摘されたことは確かであるが、これ以外にも虐待の事実があったので有罪の証拠として採用されたかは不明である)。
一方、このような問題を踏まえつつ、弁護人が付けられている点、裁判内容、判決内容などを考察し、一般的な軍律裁判と比較して、正確な裁判が行われていたのではないかとする研究も発表されている。
<処罰>
A級戦犯約200名が、巣鴨拘置所に逮捕監禁されたのと同時に「B・C級戦犯」約5,600人が各地で逮捕投獄された。
横浜、上海、シンガポール、ラバウル、マニラ、マヌス等々南方各地の50数カ所の牢獄に抑留され、約1,000名が軍事裁判の結果、死刑に処された。
国内で戦後逮捕された者は家族に「ちょっと出掛けて来る」と言い残して、まさか自分が戦犯で裁かれようとは夢にも思わなかった者が多い。
死刑判決を受けた戦犯の多くは遺書・遺髪等を遺すことが許されず、遺骨も秘密裏に焼却・埋葬された。
戦犯達は隠し持った鉛筆あるいは自分の血で紙切れやトイレットペーパーに密かに遺書を書き、教誨師などに託して遺族に届けてもらったが、それも一部の者だけであった。