現代が、三菱車の下請け仕事を行なう前の事です。
ホンダは既にF1に出場して、優勝していました。
F1の歴史を何も知らない朝鮮人に、ホンダの歴史を教えますね。
ホンダF1参戦の歴史
第一期 やるなら頂点を目指す。信念のF1チャレンジ
1964-1968
モーターサイクルレーシングで培った技術に支えられ、「やればできる」という信念が社員全員にいきわたっていた。そして、1963年、最初のプロトタイプのF1マシンRA270ができ上がった。非常に短期間であったが、その製作作業は猛烈に、かつ手際よく進んだ。
エ ンジンのダイナモテスト、実走行におけるあらゆる項目のテスト、そしてまったく新しいレース用エンジンとマシンの開発という、3つのプロジェクトが同時進 行で進められた。そして64年8月2日、ニュルブルクリンクで開催された西ドイツGPにアイボリーホワイトに赤い日の丸というナショナルカラーに塗られた RA271が登場した。デビューレースは、最後尾スタートから9位まで浮上するものの、12周目にクラッシュしてリタイアとなった。しかし、レギュレー ションにより完走扱いとなり、デビューレースは13位として記録された。
初年度の3戦で苦心のうちに学んだことを活かし、Hondaのエンジニアはオフシーズンに懸命の研究開発を続け、四輪レースでの経験の浅さを何とかカバーしようと努力を重ねた。そして、65年10月24日、1.5リッターF1最後のレース第10戦メキシコGPにて、リッチー・ギンサーが駆るRA272が初優勝を果たす。
クルマの開発は、新しいことへの挑戦も大切だ。しかし、技術の原則にのっとって手堅く作り上げることもそれ以上に大切であることを学んだ年であった。

リッチー・ギンザー1965
■通算2勝を挙げて第1期の活動を終了
1966 年は3.0リッターF1の初年度であり、RA273はエンジン出力では他社に引けを取らないまでも、全てが大型化、重量化してしまい、競争力はなかった。 翌67年は、ジョン・サーティース率いるチーム・サーティースと提携し、車体はローラ社の協力を得てRA300を開発。9月10日の第9戦イタリアGPに おいてデビューウインを飾る。Honda通算2度目の優勝であった。
68年は、水冷エンジンのRA301と空冷エンジンのRA302の2種類のF1マシンを同時に新規開発するという離れわざを行ったものの、64年以来積み重ねてきたF1のノウハウが、結果的には生かしきれない年となった。
69 年に向けては、早めに開発のスタートを切ったが、69年に発売予定の小型乗用車の開発に多くのエネルギーが必要になったため、F1活動の休止が決定した。 環境問題や排ガス規制、エネルギー危機などといった問題を、自動車メーカーとして成長しながら真っ先に解決するには、厳しく訓練されたエンジニアとその レーシングスピリットが何よりも大切だったからである。
6年間にわたるF1レース活動におけるチャレンジを経て、Hondaは乗用車メー カーとして大きな成長を遂げた。独自開発によるF1活動の中で修練されてきた技術の多くは、市販車開発に有益に活かされたものの、その後15年にわたって F1の世界からは遠ざかることとなった。
http://www.honda.co.jp/F1/spcontents2006/history/01/
(・∀・) 朝鮮人は、ホンダがF1で何をしてきたのか分かりますか?
単なるレースではありません。
熾烈な技術開発競争だったのです。
韓国の自動車産業が今でも日本企業に追いつけない原因は、技術開発という基本が韓国企業に無いからです。

1964年当時の南朝鮮は、日本に物乞いをするために必死になっていた最中です。
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