高麗時代 <三国史記>で鬱陵島に関する記録,,,
新羅 512年ハスルだと(今の江陵)の君主である引っ越し部が于山国(鬱陵島)を征服.
于山国を武陵島だと呼んで, 独島は傘島だと呼んだ.
独島は于山国部属島である.
その後に朝鮮時代に使われた <世宗実録の時里だ>に独島が朝鮮の領土なのを記録.
¥"傘と武陵二つの島は蔚珍県の東海にあって, 二つの島はあまり遠く離れていなくて清い日には島を見られる¥"と記述して武陵を傘の部属島なのを立証.
1900年, 大韓帝国は鬱陵島と独島を地方行政区域上独立された軍で昇格させた後管轄すると恐怖.
1945年 日本が戦争で敗れながら連合国によって韓半島とその付属島嶼(独島含み)を韓国に返還になった.
韓半島を含んだ鬱陵島と独島, 済州島は 日本が韓国に返さなければならない領土だと記録.
日本の主張は唯一に,
独島は公道で韓国で捨てられて実效的支配をしなかった島なのに
1905年乙巳條約を一以後独島を 日本 地で編入させたから 日本 領土だです.
これに対立して彼らが言うことないようにする等しい条件は,
朝鮮時代漁夫安竜福先生が 日本で渡って鬱陵島と独島が朝鮮の地なのを確認させてくれて, 日本も認める外交文書を受けて来ました.
鬱陵島と独島で漁夫をした 日本人にやっぱり同じな地域で漁業をした安竜福連中は拉致あうようになったし安竜福は 日本の太守に領土の正当性を主張して ¥"鬱陵島と独島は朝鮮の地だ¥" という内容の外交文書を受けました.
その後 日本が鬱陵島,独島を侵犯した時 日本の謝りを受けて来ました.
独島の名称は昔から傘も, 参峰も, 行くのも, 石刀などと呼ばれて来たし <東国輿地勝覧>,<信証東国輿地勝覧>, <満期搖りかご> など多くの古文献と指導に私たち領土なのが記録されています.
1618年 日本である五はShinkichiとムラカと理盃が幕府から鬱陵島都して兔許を受けて鬱陵島で漁業活動をしたと 日本 外務省ホームページに記録されているのにここで図解兔許と言う(のは)自国の領土ではない他の国で漁業をする時発行してくれる兔許です.
結局 1618年から 日本政府も独島を韓国領土で認めたのです.
日本の歴史書でも 18世紀 日本の史学者Okiシマが使った <死んでからも>, <ウンズシチォングハブギ>, <通航一覧>,
<ズックドドヘユレギバルソゴング>などでも独島がわれらの領土と言う(のは)内容があります.
以外に,,,
まだ韓国と 日本内古文書にも独島が韓国領土なのがずっと発見されています.
正確に独島を表示して韓国領土なのを線で描かれた文書がずっと出ています.
ラスク書簡に関して 1953. 12. 09 アメリカ国務長官ダラスの書簡
Rusk書簡は, それはサンフランシスコ条約にサインした多くの当事者の中で一つの立場(入場)であるだけだ.
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