伊能忠敬(1745-1818)の生家は漁師でしたが、長じて下総佐原の造り酒屋を継ぎ、財をなしました。50歳で隠居して、家督を子供に譲ったあと江戸に上り、幕府の天文方暦局に入って学問に没頭し、幼い頃からの夢であった天文学の研究にも携わりました。彼は当初、暦局がある浅草と自分の家がある深川から北極星を観測して、緯度の差が0.1度であることを求め、浅草と深川の間の距離が2kmあったことから地球の円周を計算しました。ところがその値は誤差が大きくて信頼できないと、天文方の上司に一笑に付されてしまいました。そして「せめて、江戸と蝦夷くらいに離れた場所で観測しなければ正確な値が得られないであろう」と言われました。そこで忠敬は日本地図を作成するための測量をしながら、江戸から蝦夷地まで行くことを思いたち、56歳から測量の旅を始めました。それから蝦夷まで行って観測を続けて緯度1度が111kmであることを求め、これから地球の大きさを39,960kmと計算しました。現在知られている40,000kmに対しての誤差は、僅かに1/1000という驚異的な結果でした。
忠敬は71歳で、ほぼ地図を完成させましたが、これが「大日本沿海輿地全図」であり、その後昭和の時代まで100年に亘って使用された、いわゆる「伊能図」です。しかもこの図は彩色された美しいものでした。これを完成させるまでに忠敬が歩いた長さは、奇しくも地球1周分でありました。幼い頃の夢を生涯持ち続け、日本地図に結実させた熱意と努力は誠に偉大であったと思います。