東郷茂徳
東郷 茂徳(とうごう しげのり、1882年(明治15年)12月10日 - 1950年(昭和25年)7月23日)は日本の外交官、政治家。太平洋戦争開戦時及び終戦時の日本の外務大臣。
欧亜局長や駐ドイツ大使及び駐ソ連大使を歴任、東條内閣で外務大臣兼拓務大臣として入閣して日米交渉にあたるが、日米開戦を回避できなかった。鈴木貫太郎内閣で外務大臣兼大東亜大臣として入閣、終戦工作に尽力した。にもかかわらず戦後、開戦時の外相だったがために戦争責任を問われ、A級戦犯として極東国際軍事裁判で禁錮20年の判決を受け、巣鴨拘置所に服役中に病没した。
東郷は剛直で責任感が強く、平和主義者である一方で現実的な視野を併せ持った合理主義者だったが、正念場において内外情勢の急転に巻き込まれて苦慮するケースが多かったと言える。
東郷茂徳は豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に島津義弘が拉致、連行した朝鮮人陶工の子孫である。陶工達が集められた「苗代川」(現在の日置市東市来町美山)と呼ばれる地域では幕末まで朝鮮語が使われていたという。薩摩藩は苗代川衆を保護、優遇し藩内の身分は士分とした。父・朴寿勝は優れた陶工で、横浜や神戸にも積極的に出かけ、外国人にも焼き物を売り込む実業家としての手腕にも長けていた。なお元帥海軍大将の東郷平八郎とは血縁関係は無い。
戦前、戦中の外務大臣が、慶長の役で連行された
朝鮮人陶工の末裔だったとは知らなかった。
今でも、朝鮮人陶工を宗家とする窯は沢山残っているんだなぁ。