遺物・遺跡通じて追跡して見た韓民族の根
ドイツTV ZDFのドキュメンタリーシリーズ ‘スフィンクス, 歴史の秘密’ 中 ‘忘れてしまった掛けがね探し’ 便は 375年ゲルマン民族の大移動を触発してローマ帝国を滅亡させたアジア遊牧民族 フン族を集中的に追跡した.
がドキュメンタリーは フン族の源流がアジア催東端, すなわち韓国人である可能性があると言った. 実際新羅及び伽揶人と フン族の遺物, 遺跡などを比べて見ると偏豆(扁頭, 一名ナブザックモリ)と金冠頭飾りなどさまざまな共通点が発見される.
新羅が三国を統一する時唐を引き入れたという点は私たちのすぎ去った事で一番惜しい書き入れ時の中で一つだ. 統一に外勢を介入させた悪い先例を残したうえに, 高句麗の広大な領土を唐に皆奪われたからだ. それで言葉が良くて統一であって, ‘光良いまんしゅうあんず’に過ぎなかったという皮肉も出る.
アジア東北部一円で高句麗が莫強した中国に対立して数百年間領土を確張して威勢をふるったからだろう. 韓国の人々は滅亡した大国, 高句麗に強い魅力を感じる. 高句麗は地理的与件が不利だったにもひととき韓民族史上一番広大な領土を確保した. 広開土大王(375〜413) 在位当時高句麗領土は西の方では腰下, 北では開院, 東では玉箸とはい, そして南側では漢江流域に至った. 歴史学者たちは一般的に広開土大王と長寿王(413〜491) 時代に高句麗が古朝鮮が占めた領土をほとんど皆取り戻したことで推正する.
現代の科学文明はヨーロッパで始まったと言っても過言ではない. B.C. 500年頃ギリシアに引き続きローマが政治的, 軍事的に ‘世界の中心’になった以後, 世界歴史はヨーロッパ中心に流れて来た. ローマがヨーロッパを支配した時代にいくつかのアジア民族がヨーロッパに進出したりしたが, ローマを完全に征腹するには失敗した.
しかしローマを滅亡させた勢力は外でないアジア民族である フン族(Huns). 西紀 375年, 騎馬民族である フン族がボルガ川を渡って来てゲルマン族の一分岐点である同ゴートを攻撃したし, 同ゴートは西ゴートを攻撃した. ここに西ゴートはローマ帝国の領土に入って行って保護を要請した.
ゲルマン族がローマ領土で住むようになってから 100年後の 476年, 西ローマ帝国は結局ゲルマン族の首長(首長) オドアケルによって滅亡する. 以後ゲルマン族が西ヨーロッパとアフリカ北部など多くの地域で割れながらヨーロッパには新しい国境が引かれた. この時成立された国境は大部分現在まで続いて来ている.
フン族は韓民族の一派
ところで最近西ヨーロッパでゲルマン族の移動を触発させてローマ帝国を風前のともしびの運命の中に追いこんだ主人公である フン族が実は韓民族の一派なのが世界各地で発掘された遺物と史料を通じて明かされている.
このような驚くべきな歴史的主張に興味を持つ人も多いが, ‘何か馬鹿馬鹿しい音か’は反応を見せる人も少なくない. フン族と言う(のは)名前自体が私たちに疎い上に, 交通が発達しない西紀 4〜5世紀頃韓半島に住んでいた韓民族がどんなにヨーロッパを攻撃することができたのかは理由からだ.
しかし フン族が韓民族の一派という歴史的主張がすなわち韓民族がヨーロッパを直接攻撃したということを意味しない. フン族は匈奴(匈奴, 北方騎馬民族を通り名する)の一分派で, B.C. 3世紀から西紀 4世紀まで約 700年間中原地域をおいて中国と角逐戦をした.
が過程で匈奴は絶えず送ることを繰り返えした. この時匈奴に属していた韓民族源流の中で一部が西の方に進出しながら フン族で成長したし, また一部類は韓半島南部地域まで進出して現在の韓民族の一部になったというのだ.
このような主張は次のような点を根拠にしている.
フランスなど西ヨーロッパに暮している フン族の後裔たちからモンゴルまだらが発見されている. モンゴルまだらは尾骨高さの尻に現われる色素変色で遺伝学籍でモンゴル系統の民族から現われる身体的特徴だ. モンゴルまだらが韓民族にだけ現われる特徴ではないが, フン族 後裔たちがモンゴルまだらを持って生まれるという点を推し量る時韓民族と フン族は親戚の縁があると言える.
フン族は彼ら特有の芸脈角弓(〓貊角弓)を使った. 芸脈角弓は作ることばかり 5年, まともにうつために弓を煮ることばかり 10年がかかるが, 1分の内に 15発以上うつことができると知られた弓だ. フン族が芸脈角弓を使ったということはイタリア北部地域であるアクィルレイアに位置したクリープだアプレの時教会のフレスコ化が言ってくれる.
が絵には馬に乗った フン族が追撃して来るローマ騎兵を向けて弓を射る場面がある. ところでその姿が高句麗舞踊塚壁画に出る, 馬に乗ったまま滑路動物を狩る高句麗武士とまったく同じだ. 古墳の壁画に出る矢先は斧の日矢先なのに, この矢先は飛びながら回転するから目標物にささる瞬間の衝撃が非常に大きい. フン族もまさにこの斧の日矢先を使った.
慣習的な共通点も発見されている. フン族の骨相が偏豆(扁頭, ナブザックモリ)という事実だ. 学者たちはモンゴル地域からドイツチューリンゲンとオデンバルト, フランスカルバドス地方に至る フン族の移動経路で発見された墳墓から出た フン族の人骨を分析した結果, フン族はこめかみと額が珍しく押されていたし頭まわりに枷みたいなしわがぶんなぐったし, モリトングが長く増えている偏豆だと分かった. ところで伽揶国が創立した慶南金海でも便も頭蓋骨が発見された. また法興王など新羅の王たちも偏豆だったと言う. 崔致遠は新羅の国史ジズングデサの功徳費に法興王が偏豆だと記録した.
古代インドで行われた慣習, あるいはコーカサス北部地域に住む遊牧民たちの風習でも知られた偏豆は韓民族と連関性が大きい. ‘三国志’の ‘ウィジドングイゾン(魏〓夷伝)’には ‘辰韓(辰韓) 人は皆偏豆’という記録がある. また古朝鮮には早くから偏豆を作る風俗があったと言う. 偏豆は中国人とは区別される, 東夷(東夷)族の間に非常に長い間盛んだった風習で見られるのだ. ところで注目するに値する点は フン族には偏豆が発見されるが, 匈奴には発見されないという点だ. したがってヨーロッパを攻撃した フン族は便も習俗を持っている特殊不足で, 韓半島南部の伽揶及び新羅地域と親縁性(親縁性)があると類推することができる.
一方 フン族の移動経路では台・小型の冬服(cup cauldrons)が発見される. 遊牧不足場たちに捧げられた冬服は浄化意識(Purification rite)で肉をお供えで捧げる時使う東帝勇気で大型植木鉢のように見えた. このような冬服は伽揶時代古墳である慶南金海の大成洞と楊東里遺跡でも発見される. 冬服は伽揶国などの源流が北方の騎馬民族という証拠によく挙論されて来た. フン族は冬服を巻く残燈に積んで通ったが, 慶州市労動洞クンリョン塚で出土された騎馬人物像(国宝 91号) 土器にも言葉残燈に冬服を積んで通う姿が発見される. それにこの騎馬人物像の主人公たちも皆偏豆だ.
も フン族の冬服などで発見される文様は韓民族の金冠など頭飾り様式と似たり寄ったりだ. 我が国で出土された金冠には木形象(出(出)字形飾り)と鹿角形象(鹿の角飾り)が多い. これは北方民族たちにも現われる風習で北方民族が韓半島に移動して定着したことを言ってくれている.
北方遊牧民族の典型的な習俗である殉葬(殉葬) また伽揶地域の古墳を通じて立証されている. 特に金冠伽揶遺跡な大成洞古墳群 1胡粉では牛馬(牛馬)の頭を枕にして郭の上に上げておいたモックグァック(木槨)が発見されたが, おこる フン族を含んだ北方遊牧民族の動物犠牲行為と完全に一致している.
フン族が木に赤い布切れをつけて悪鬼が近付くことができないようにしてくれと言って祈ったという記録と熊を平和のトーテムで崇拜したという点は我が民族が村語句に木像やソッデを立てて念願を祈って熊をトーテムにした点と非常に似たり寄ったりだ. 大多数遊牧民族たちは熊ではない他の動物を崇拜の対象とする. トーテム対象で一番一般的な馴鹿とかわうそなどは今までもモンゴル地域で崇拜の対象で思われる.
西の方の フン族, 東の韓民族
それなら古代韓民族の源流はどんな過程を通じてアジア大陸の フン族と韓半島南部の伽揶及び新羅人で別れるようになっただろうか. これは錦西皇帝の時から中国歴史に本格的に登場する匈奴の興亡盛衰と連携される.
匈奴は秦の国, そしてその後を引き継いだ一国と中原の覇権をおいて長期間にかけて血闘をした. そうするうちにB.C. 57年東と西に両分されてお互いに戦争をする. 西匈奴の鮮干(匈奴の王で ‘天の息子’を意味する)である負けるか(?支)が同匈奴のホハンヤに敗れると一族を導いてウラル山脈越しシルダリアガング中流に到着する. これが匈奴の第1次西天(西遷)だ. 負けるかはギョンゴン(ツガングとタルラスガングの間)を首都にする ‘雅正(牙庭)’と言う(のは)国を建てた. 西ヨーロッパはこの時を匈奴帝国出現の起源にしている.
一方中国に後漢(後漢)が立ち入りながらセガ不利さを感じたナムヒュングノ−は 48年ゴビ砂漠以南の 8個集団を導いて光武制(BC 6年〜AD 57年)を尋ねて投降した. 光武制はナムヒュングノ−に初めから内モンゴル領土を与えて投降しないブックヒュングノ−を牽制するようにした. そして 73年に至って漢拏というナムヒュングノ−と連合してブックヒュングノ−に決定的打撃を加えた. 敗北の苦杯をなめたブックヒュングノ−はアジアの北マックブック(漠北)に移動するのに, これが匈奴の第2次西天だ. ブックヒュングノ−は西域帝国を掌握した後その勢力を閨閤しながら一国との対決をはかる.
しかし漢拏という話題(和帝, 89〜105) 元年の 89年にもナムヒュングノ−を閨閤してブックヒュングノ−に決定的打撃を加えた. 致命傷を負って四分五裂されたブックヒュングノ−は大部分同好(東胡)で分離した士(鮮卑)に隷属した. しかし一部ブックヒュングノ−は天産山脈北にずっと用紙押さえしてペルがや盆地を通ってバルハシホとアラルして間のガングゴ(康居) 地に至った. これが匈奴の第3次西天だ.
匈奴と フン族を連結させるまた他の連結掛けがねは一国王朝が崩壊される頃に登場するナムヒュングノ−だ. 304年当時山墅の太原に席を取っていた柔軟(劉淵, ?〜310)恩津(晉)国ヒェゼによってナムヒュングノ−の王に冊封される. しかし柔軟は過去先祖の中に一国の王女があったことを根拠で自分が一国の後裔と立てて自らを皇帝に称した. 彼は 308年太原で北朝鮮(北漢, すなわち 前趙)を立てる. 318年ソックルック(石勒, 274〜333)は予兆を廃して候鳥(後趙)で知られた新しい匈奴国家を立てたし, 349年ソックミン(石閔)が候鳥の政権を取った. ソックミンは匈奴に恨みが多い韓人(漢人)らをけしかけて大大的な匈奴討伐に出るようにした後おおよそ 20余万名の匈奴が殺害されることを座視する.
匈奴としてはこれが決定的敗北だった. 中国に童話された匈奴と遊牧生活をした匈奴が連合したにも敗れると, 生き残った匈奴たちは新しい生の基盤を捜して西の方に逃げた. これが匈奴の第4次西天で, これらはもう 1〜3次にわたって西天した匈奴と合流(または圧迫)する. 弱り目に崇り目で 370年頃から残酷な寒波がだしぬけに襲撃すると匈奴はより西の方での移動を断行, 375年西ヨーロッパを攻撃するのに至る.
一方韓半島で フン族との親縁性が一番著しい地域は伽揶と新羅地方なのに, 中国との戦争渦中に フン族の支配集団の中で一部が冬天(東遷)して韓半島に定着した可能性が非常に大きい. ここで フン族の支配集団と言う(のは)遊牧民の受領(首領)が属した不足を言う.
学者たちは匈奴・同好・士・オファンなど北方騎馬民族たちの興亡が伽揶国の建立時期と似たり寄ったりだという点に注目する. ‘三国志’の ‘ウィジドングイゾン’によれば韓半島中南部地域には遅くても 1〜3世紀まで馬韓, 辰韓, 弁韓という三韓が存在していた. 3世紀中葉以後馬韓は百済で, 辰韓は新羅に統合されたし, 弁韓は 3世紀以後伽揶と言う(のは)名称を持つようになる. これは 3世紀末〜4世紀初に弁韓が伽揶社会に転換されたことを意味したりするが, 伽揶と言う(のは)国が新羅や百済と違い内部に多様な多くの国々を包括していることを見せてくれたりする. 学者に従っては伽揶の建立時期がB.C. 2世紀から紀元後 3世紀中葉までおおよそ 5世紀の差を見せるなど論難が多い.
学者たちは慶尚道の伽揶古墳で典型的な北方騎馬民族の遺物が発見されるというの自体が北方騎馬民族が韓半島に定着した証と主張する. 特に金冠伽揶は匈奴が直接韓半島に入って来て建てたという説もある. このようないくつかの点で推し量る時匈奴の中に含まれた韓民族の一派が西天して フン族で成長したし, また他の一派が同天下になって行くとなどで成長したという主張が説得力を得る.
結婚条件でローマの半分要求
一番広い対局を建設した歴史的人物を指折りなさいといえばチングギズ間とアレクサンダー大王, そしてアティルだと(Attila, 395〜453)が挙げられる. 世界 3大帝国を建設したアティルという高句麗広開土大王より 20年遅れた, フン族が西ヨーロッパを侵攻してから 20年がすぎた 395年にムンズクワングの次男で生まれた. アティルラの生涯はローマの歴史がプリスコスとヨルダネスによって比較的よく知られている.
ローマは フン族に供え物を与えて和親(和親)しながらゲルマン族を警戒した. これによって当時外交慣例どおりアティルという 410年頃から西ローマ皇帝ホノ−リオスが首都にしたラヴェンナ宮廷で育った.
434年王位あとがまだった叔父ルガーが死亡すると, フン族の伝統によってアティルという兄さんブルレダとともに王位に上がった. 新しい王として自分たちの力を対外的に誇示する機会を狙ったこれらは, 同ローマが フン族に送らなければならない供え物の納期をいつも破ると 435年同ローマで進撃した. ここに同ローマは供え物を二倍であげることに約束してアティルラと平和協定を結んだ. 引き続きアティルという西ローマから西ゴートに対する警さつ権を渡される. これで フン族はローマ帝国を追い抜いて事実上ヨーロッパの敗者(覇者)になったのだ.
443年ブルレに死亡するとアティルという フン族の単一リーダーになった. アティルラが支配した薫製国の統治権は南へはバルカン半島, 北ではバルト海の中, 洞ではウラル山脈, そしてお互いは現在のフランス地に至る実に広闊な領土に及んだ. 治下の種族だけでも 45個種族に達した.
この時アティルラを国際的戦争に跳びこむように女性一人が登場した. 西ローマ皇帝バルレンティニアヌス 3歳の妹であるホノ−リアがまさにその女人. ホノ−リアは 450年弟(妹)を皇帝席で押し出そうとする陰謀を企んでばれて同ローマの修道院に追放された. するとホノ−リアは幼い時からよく分かって過ごしたアティルラに自分の金の指輪を送って救援を要請した. 当時指輪を送ることは求婚を意味した. アティルというここにバルレンティニアヌス 3歳にローマ帝国の半分を結婚持参金で要求した. しかしバルレンティニアヌス 3歳はアティルラの要請を断ってホノ−リアを他の男と結婚させた.
西ローマに裏切られたと思ったアティルという 451年, 現在のベルギーとフランスのメッツ, ランス, オルレアンなどに至るガリア地域を攻撃した. アティルラの軍隊は破竹の勢いで西ローマ中心まで進撃した. すると西ローマはアティルラの友達と同時に ‘最後のローマ人’と呼ばれるアエティウスを総司令官で任命, フン族と敵対関係にあるゲルマン族たちを閨閤してアティルラに対抗した.
451年 6月20日, フランストルアシ(市)では世界 15大戦闘の中で一つで数えられる ‘サロン大戦闘’が起った. それぞれ 20万名にのぼる大軍が参戦して 15万名の戦死者を生んだ大規模戦闘だった. しかし勝負は付かなかった.
アティルというサロン大戦闘後パンノ−ニア(現在のハンガリー)で撤収してから翌年の 452年また西ローマを侵攻した. 今度はイタリア半島が標的になった. アティルというアクィルレで占領を始まりに巴豆, ベロだね, 皮痺など北がタリア全域を荒した. 当時 フン族の攻撃を避けて海岸地域で避難したローマ人たちが ‘ベイネティアム(Veni etiam, 私もここへ来た)’と叫んだが, ヴェネチアと言う(のは)地名がまさにこの言葉で由来したと言う.
いつわりでむなしい滅亡, ヨーロッパの憎しみ
しかしアティルラと フン族の終末はあまりにもいつわりでむなしかった. 453年, アティルというイルデ−コ(あるいはヒルデ−コ)だと呼ばれるゲルマン諸侯の娘と結婚したが, 結婚式翌日朝冷ややかな死骸で発見された. ゲルマン族の有名な代書斜眼 ‘ニベルルングゲンの歌’にはクリームヒルトと言う(のは)名前と呼ばれるイルデ−コが自分の家族が フン族に殺害されたことに恨みを抱いて眠ったアティルラを殺害したことに描写された. しかし学者たちはアティルラが結婚式日飲みすぎで窒息したとか後継者問題を巡った暗闘に殺害されたことで推正している.
力強いリーダーであるアティルラが死ぬと彼の息子であるデンギジクが フン族のリーダーになった. しかし多くの不足で構成された薫製国は分裂し始めたし, 469年同ローマに恥辱的な敗北に喫した後歴史で消えた.
同ローマに敗れた フン族の大多数はカスピ海北部で帰郷した. しかし一部は遊牧生活をあきらめてロシア南側とクリーム地域に定着した. またいくつかの不足たちはフランスとスイス地域に位置づいた. この時 フン族の一部がバルラニアに居残ってから後日マザルインドルと合わせハンガリー民族を構成したことに推定される. 今もトランシルバニア(現ルーマニア)のセケルリゾックは自分たちが フン族 アティルラの子孫だと信じている. ドラキュラ伯爵伝説が伝わって下るルーマニアではアティルラを力強い力を持ったドラキュラ伯爵の援助に思っている.
アティルというおびただしいカリスマを持った, 世界歴史上何人にならない支配者中の一人だ. 子供達は彼の名前で連想する力強さと情熱, そして巨大な力に魅力を感じる. アティルラが破壊と掠奪だけ事としなかったという事実が神秘感を加えてくれたりする. アティルという巧みな交渉を通じて相手から多くの情報を得る外交的手腕も発揮した. 当時世界最高の文明国家であるローマを相手でサドルに座ったまま自分の主張を貫徹させたし, ホノ−リアとの結婚持参金で西ローマの半分をつけなさいという対談性も見えた.
しかしアティルという同時にヨーロピアンたちからしんらつな非難を浴びている人物中の一つだ. ヨーロッパの小説, 演劇, オペラなどで残忍な暴君で出る常だとの. ダンテは ‘新曲’ 中地獄の方第12曲で地獄で苦しんでいるアティルラを描いた.
1968年 1月23日原産沖合でアメリカ艦船プエブルロホが拿捕された時アティルというもう一度世人の口に上った. 北朝鮮に拿捕されたプエブルロホ船長リオドボチォは北朝鮮側に “アティルだと以来一番賢明ではない行動”と言いながら謝罪した. このようにアティルラが西洋人たちから残酷な非難の対象になるわけはアジア人である彼がドイツ, フランス, イタリアなどヨーロッパの心臓部を踏み躪るなど彼らの自尊心を踏み付けたからだ.
しかし今まで フン族と韓民族はお互いにどうこうな関係がないことのように思って来た. おこる フン族の源流が匈奴(モンゴル係-トルクギェ)だと言っても, フン族の支配集団は西洋係トルク民族だと推正したからだ.
しかし歴史学者たちは匈奴がモンゴルとツングース, その他北方民族のホンハブチェだが匈奴の言語特性を研究した結果彼らの政治的支配集団はトルク系列だと推正する. シラトリうそ旗印を含めた学者たちは匈奴がトルクではないモンゴル系列だと主張しながらも匈奴がトルク系列の特徴を持ったというやけどする同調する.
フン族はアジア係民族
の上で時計方向で伽揶・新羅古墳と類似の北方民族のクルガン, フン族の冬服, 金海大成洞で出土された冬服, フン族の便も.
トルクインは漢字では突厥(突厥)で表記して西戎(西戎)に属する. トルクは 6世紀中葉モンゴル係遊牧民の影響力から脱した後 1493年コンスタンティノープルのビザンチン帝国を滅亡させてオスマントルク大帝国(現在のトルコ)を成した.
ギリシアの歴史が弔詩モールスは フン族を称えて ‘形態ない石ころである顔を持った’と ‘色が暗くて, 目代わりに暗い穴が二つ出ていて, 鼻は平たくて, 頬に傷がある’と記録した. ここで ‘目代わりに暗い穴が二つ出ていて(目が小さいという意味) 鼻がペチャンコだ’と言うのは東洋人の顔を表現したことに違いない.
クレルモントの司教時ドニー有珠アポルリナリスも フン族にひどい拒否感を見せて ‘身体的でも精神的でも彼らは嫌悪感を与える. 彼らの鼻は模様がなくて平たくて, ほお骨は飛び出した. 二つの目にはまぶたがやや小く開かれていて光線が辛うじて入って行くほどだが, 突き通して見るこの目はずっと遠い所を見られる’と書いた. この説明も西洋人ではない東洋人の顔であるわけだ.
一番注目するに値する資料はギリシアであるプリスコスが描いたアティルラの姿だ. プリスコスは 449年同ローマ使節団の一員でアティルラの宮廷に泊まって彼と何回対面した. プリスコスは現在一部分だけ残っている ‘ビザンチウム社’ 7冊でアティルラを典型的な フン族の姿で描いた. 彼はアティルラを ‘柄が小さくて胸が広くて頭が大きかった’と説明しながら ‘目は細く破れたし鼻は平たかったしほお骨が飛び出したし髪の毛が少ないあごひげを持っていた’と言った.
司馬遷も匈奴を典型的な東洋人の姿で描いた.
‘身体は小さいけれどがんがんした方で, 頭はとても大きくて丸くて, 顔面は広くてほお骨が飛び出した. 髪の毛は全部刈ってやっと脳天にだけ残っている. 眉毛は濃くて瞳は燃えるように強烈で目は裂けたようだ.’
一方匈奴の子孫であるフワル(後越)の太子手陣(孫珍)が韓人(漢人)の市中(侍中)である催薬(崔約)と言う(のは)者に負けない治療法を質問したエピソードは, モンゴル人と中国人の外貌が区別されることを見せてくれる.
手陣が “目をどんなに水に浸るようにできるのか”と質問すると催薬は “あなたの目はぽこんと入って行ってすぐ水に浸ることができる”と答えた. この言葉を聞いて頭に来た手陣は催薬金持ちを殺害したと言う. このエピソードによれば匈奴である手陣は韓人と違い目はぽこんと入って行って鼻は高かった.
このように匈奴に対して司馬遷は東洋人で, 催薬は西洋人で描いたが, 多くの不足たちが広大な領土を持った匈奴がお互いに違う姿をした人々に構成されたということは変な事ではない.
トルクインドルが建設したオスマントルク帝国の子孫トルコ人たちと韓国人は外貌からはっきりと区別される. トルコ人の体格はヨーロピアン, 特に古代ローマ人に比べて決して小さな方ではない. 鼻もヨーロッパである位高い. しかし同ローマ皇帝たちが フン族のリーダーをアルタイ語で ‘強い人’を意味する ‘トルク王子’と呼んだから フン族がすぐトルクゾックだと見当がついた. なおかつ歴史的でもトルクインが結束された種族で浮び上がった時期は フン族がヨーロッパで進出した時より 200〜300年遅い 6世紀からだ.
60万名にのぼる常駐軍を置いた西ローマ帝国は野蛮族であるゲルマン族によって 476年滅亡する. しかしヨーロピアンたちが自尊心傷害することはゲルマン族を追い出した張本人がゲルマン族よりもっと野蛮的な フン族と言う点だ.
しかしヨーロッパの史家 フン族によってまた使われたという事実自体を否定することができないからヨーロッパ歴史学者たちはちょっといかがわしい態度を見せる. フン族がヨーロッパを侵攻して帝国を立てたりしたが フン族のヨーロッパ支配がやっと 100年(375〜469)に過ぎなかったと自慰するのだ.
東・西洋活躍した私たちの先祖
フン族の移動経路で発見された考古学籍遺物及び史料たちを韓民族のそれと連結させて見る時 フン族の支配集団を韓民族だと見られる根拠は十分だ. これは韓民族として非常に重要な意味を持つと思う.
4〜5世紀頃で逆って上がって見よう. 西洋では フン族がローマ帝国を踏み躪ったし, 東洋では高句麗がアジア東北部屋の広大な領域を支配した. 勿論 フン族は高句麗よりは伽揶(弁韓) 及び新羅(辰韓)ともっと近い関係に推定されるが, これら皆は韓民族だ. アティルラを韓民族の先祖と見做す時私たちは 4〜5世紀頃それぞれ西洋と東洋で敗者に君臨した堂々な二人の先祖, アティルラと広開土大王を得るようになることだ