占守島の擱座戦車
本文は、この本研究会の放談会(平成23年3月25日)で報告したレポート「占守島(しゆむしゆとう)の戦いと軍使・長島厚(あつし)大尉」をもとに構成したものである。
本文をまとめるにあたり、長島厚氏より往時の写真をふくむ多くの資料文献を拝借した。長島氏のご厚意に感謝申し上げたい。
■占守島の戦いとは
大東亜戦争を戦った日本は、1945年8月14日、ポツダム宣言を受諾した。翌15日正午、玉音放送がおこなわれ、日本国民は我が国が戦いに敗れたことを知った。
千島列島の最北端に位置する占守島
その3日後の8月18日、ソ連の軍隊は、千島列島北端の占守島に侵攻してきた。占守島を守っていた第91師団は、再び矛を手にして自衛のための戦いをおこなった。日本軍優勢のまま停戦交渉がおこなわれ、8月23日、合意にいたり日本軍は武装解除した。
師団司令部参謀部附(つき)であった長島厚大尉は、ソ連軍との停戦交渉をする軍使となり、その困難な使命を全うした。
スターリンは、占守島を一日で占領し、その勢いで千島列島を奪ってあわよくば北海道まで侵攻するつもりであった。しかし占守島の戦いで日本軍の予想外の反撃にあったため、北海道略取を断念せざるを得なかった。日本は、米ソ両国が占領統治する分断国家となる悲劇を免れたのである。
■長島厚が陸軍士官学校を卒業するまで
長島厚は、大正10(1921)年7月26日、山口県厚狭(あさ)市に生まれた。数年後、厚は父英一の転勤にともない佐賀県武雄市下西山に移り住み、少年時代を過ごした。
旧制武雄中学校に入学した長島厚は、昭和13年12月、5年生で中途退学し、陸軍予科士官学校に入学した。17歳のときである。
年 表(時局と長島厚とのかかわり) 昭和年月 時局の推移 長島厚の経歴 13年12月 陸軍予科士官学校入学 14年5月〜 ノモンハン事件 16年7月 大本営、対ソ戦備の強化を決定 陸軍士官学校卒業陸軍士官学校は、海軍兵学校と同様、希望すれば誰でも入学できるという学校ではなかった。学業に優れかつ品行方正なることを担任や配属将校(註1)などに認められて校長に具申された者のみが受験することのできる、当時の少年たちにとって憧れの学校であった。長島厚少年に士官学校進学を勧めたのは、担任の杉原先生、配属将校の田部少佐、准士官の田中特務曹長たちである。、長島自身も、陸軍士官学校への進学を熱望していた。
念願叶って予科士官学校に入学した長島は、同校卒業と同時に兵科は騎兵、所属は習志野に在る騎兵第15連隊と決まった。
千葉県習志野の陸軍騎兵15連隊の将校団と士官候補生(前列中央は三笠宮殿下。前から2列目の向かって右から2番目は長島厚候補生)写真・長島厚氏提供
陸軍騎兵学校には、今上天皇(昭和天皇)の弟君(ぎみ)であらせられる三笠宮殿下がご在隊であった。
昭和15年4月、神奈川県座間市にある本科士官学校へ進み、ここで初級指揮官としての学業に励んだ。
士官学校本科生の長島がもっとも尊敬していたのは、区隊長(註2)の向井正武大尉である。向井大尉は、士官候補生と起居をともにしながら先輩として指導助言をする立場にあった。
長島より5年先輩の向井区隊長は、陸軍士官学校において優秀な成績をおさめ恩賜(おんし)の銀時計(註3)を与えられたエリートであった。西郷隆盛に傾倒する向井参謀は、人格高潔にして闊達な軍人であった。向井参謀の洗心録は、軍人としてあるべき心構えを士官候補生に説くことを意図したものであるが、同時に向井自身の軍人としての覚悟を識(しる)したものでもあった。多くの士官候補生たちから敬愛されていた向井大尉は、後にニューギニア戦線において名誉の戦死を遂げる。(中佐に昇進)区隊長向井正武の洗心録は、長島厚にとって向井を偲ぶ縁(よすが)になると同時に、自らの人生の指針ともなった。
向井区隊長の洗心録(長島厚氏所蔵)
昭和14(1939)年5月11日、満洲を防衛する日本軍(関東軍)とモンゴルに進出していたソ連軍が激突した。
停戦協定が成立したのは9月1日。日ソ対立の対象となった地域のうちおよそ8割はモンゴル・ソ連側の主張する国境線で、残る2割にあたる南部地域は日本・満洲国側の主張する国境線に近いラインで画定した(ノモンハン事件)。
日本軍の損害は、戦死7720人、戦傷8664人、戦病2363人、合計18979人。戦車損失:30輌、航空機損失:180機。ソ連側の損害は、戦死・行方不明8000人、戦傷・戦病16000人、合計24000人。装甲車輌損失:400輌、航空機損失:350機。
ソ連軍の機甲兵団を主体とする圧倒的な物量にもかかわらず、日本軍は対戦車砲や野砲、火炎瓶でソ連軍の戦車など装甲車輌をよく撃破した。
関東軍はソ連の機甲兵団と戦闘をおこなって、「馬は第一線の戦闘には不向き」という結論を出した。以後、我が国は、一部の例外を除いて装甲車・戦車等の機械化兵団の充実を図るようになっていく。騎兵科の長島厚が士官学校卒業後、戦車連隊に配属される所以は、ここにあった。
陸軍士官学校(本科)時代の長島厚候補生
昭和16年7月2日、御前会議が開かれ、独ソ戦の推移をみながら南方へ進出しつつ、我が軍にとって有利な条件がそろえば北辺の安定を図る、と決定された。その決定に基づいて大本営陸海軍部は、対ソ戦備を強化することになり、極秘のうちに関東軍特別大演習を実施することにした。名目は演習であるが、機を窺ってソ満国境とモンゴルに駐屯するソ連軍を排除しようとする狙いがあった。
日ソ中立条約を推進した松岡外相自身が北進論の急先鋒に立っていた。南進して米英を刺激するよりも、条約破りの常習犯であるソ連を撃つことを主張したのである。
かくて最高機密に属する満州結集の命令が発せられた。計画では、関東軍、朝鮮軍、内地から人員約120万、飛行機約600機の兵力を動員するとしており、7月上旬から中旬にわたって準備され、7月下旬から輸送が始まった。北方への武力行使は、厳冬期に突入する前に終了させる必要があり、作戦は遅くとも9月上旬に開始されなければならなかった。そういう慌ただしい時期であった昭和16年7月、長島は陸軍士官学校を繰り上げ卒業するのである。
(註1)配属将校=軍事知識の付与、軍事教練実施のため、大正14(1925)年公布の陸軍現役将校学校配属令により、全国の中等学校以上の学校に配置された旧日本陸軍の現役将校。
(註2)区隊長=予科士官学校において士官候補生と寝食をともにしながら士官候補生を指導教導する、小学校の担任教師の立場に似た中尉・大尉クラスの青年士官。
(註3)恩賜の銀時計=陸軍士官学校、陸軍騎兵学校において、成績優秀者に対して、天皇からの褒章として銀時計が授与された。天皇(または代理)臨席の卒業式で与えられ、至高の名誉と見なされた。
以下次号