これも韓国の報道ですから歪曲されています。
だからバカな青IDが新聞報道をそのまま信じてしまうわけです。
そう、確かに「任那日本府」の「日本」というものは日本書紀が書かれた今の国名で当時はなかったのですから、両国の学者とも「任那日本府」という名前はなかったと認めています。
でも任那日本府の別名「安羅倭臣館」は韓国学者も認めていますね。
その「安羅倭臣館」の位置付けが韓国学者は「加羅に隷属した安羅倭臣館」としたがっています。あくまでも半島優位思想から離れていないようです。
更に倭人は(加羅の文化を移入する代価として)鉄の作業員として奴隷として送られたと考えています。
一方日本の学者は当地にたくさんいた倭人の自治館であろうと考えているわけです。
そして現地化した倭人がそれが首長クラスなのかは前方後円墳が鍵になりますが、それはしたのリンクでお楽しみ。
日本語:http://www.jkcf.or.jp/history/second/1-08j.pdf
韓国語:http://www.jkcf.or.jp/history/second/1-08k.pdf
下に日韓歴史共同研究の座談会の一部、任那日本府に関する部分を転記しました。
森公章
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- 「任那日本府」というものの問題をどう考えるかということが、やはり一番大きなテーマだと思います。
日本でも「(総督府のような統治機関である)任那日本府」があったことなど、あるいは朝鮮半島南部をこの時期大和王権というものが領土的に領有をしていたと考える人はゼロとはいいませんけれども(研究者の中には)ほとんどいないというのが研究の現状だと思います。
その中でただ一方では倭人の活動という物が現実にあるわけです。 - ・・・・・・・
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- 韓国考古学界の様々な成果により既往の任那日本府説の立場は見直さなければならないということが確認されたという主旨であったように思います。
特にいわゆる韓半島に出撃した任那日本府という説は、今やほとんど0%とはいえないまでも、ほぼ100%近く否定されるという状況に有りますが、倭人の活動事項についてはそれをどうみるかという観点から - ・・・・
- いくつかの観点を今後も体系的に検討する必要があるというお話しをしてくださいました。
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三番目に、いわゆる任那日本府説にかかわる6世紀の韓日関係史の争点が「日本書紀」欽明紀に見える任那日本府という存在が何なのか、という問いです。
- このいわゆる任那日本府の性格について、私は大きく任那支配説系統4種類と外交交易説4種る煮分けて解説しようと思います。
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- (金泰植先生は)倭王武が自称した七国諸軍事の性格は実効上の無いものと見るが、これをどうお考えかという問題と、その次に栄山江流域で発見された前方公後円墳の築造勢力を在地首長と見ておられるのか、倭人系統と見ておられるのか。はっきりと確認しておきたいとおっしゃいました。
- それから任那日本府を安羅倭臣館と改称することについてどう見られているのか、この3つに要約できると思います。
- 森先生、ご意見をお願いします。
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次に6世紀のいわゆる「任那日本府」の実態という問題です。
これに関しては軍事的な性格や政治機関としての性格というのは、ほぼ否定されていると思います。 - 更に「日本」という言葉は7世紀末にできる言葉ですし、その「府」という言葉は役所や機関を示しているから、どうも実態は反映しておりません。
- その「安羅倭臣館」という表現に関しては日本書紀にでてくる在安羅諸倭臣、私はそいういう表現を使っており「任那日本府」という言葉を使わないほうがいいという金泰植先生と同じような意見だと思います。
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- 安羅の下にその在安羅諸倭臣が隷属している(という金泰植先生説)というよりむしろ安羅にいる倭人たちのある程度自立した活動ということで捉えるほうが良いと思っています。
- ですからこれに関してはやはり若干意見が相違していると思います。
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- 金先生、いかがですか。
- 安羅倭臣館については違和感をお持ちで安羅には独自的に倭人がいたであろうという表現をなさいましたが、私はそう考えられないと思います。
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- 在地の倭人というか在地化した倭人ですね。そこの地域に住んでしまえば、その地域の人と変わらなくなるから(倭人も現地人も)なかなか区別がつかない。