
禹長春 一代記
禹長春(ウ・ジャンチュン、우장춘、通名:須永 長春(すなが ながはる)、
1898年4月8日 - 1959年8月10日)は、農学者(農学博士)、育種学者。

韓国農業の父と呼ばれる。
父は乙未事変(朝鮮国王王妃閔妃暗殺事件)に加担した軍人・禹範善(ウ・ボムソン、우범선)。
範善が日本に亡命し日本人女性・酒井ナカと結婚、日本で生まれたのが禹長春である。
出生地については東京赤坂説[1]と広島説がある。育ったのは広島県呉市だが、範善は日本に協力して王妃暗殺に関与したため朝鮮人の中でも裏切り者とされ、1903年、禹が6歳の時にかつて閔妃に仕えていた高永根に呉で暗殺された。
日本に亡命後、農学博士となり後に韓国に渡る。
http://ja.wikipedia.org/wiki/禹長春

木原 均(きはら ひとし、1893年10月21日 - 1986年7月27日)は、日本の遺伝学者。
京都大学名誉教授。元国立遺伝学研究所所長。理学博士(京都帝国大学、1924年)。
コムギの祖先を発見した。近縁の植物のゲノムと遺伝子との関係を知り、ゲノムの遷移や進化の過程を調査するのに用いられる手法を確立したことで有名。また、スイバの研究から種子植物の性染色体も発見した。種なしスイカの開発者でもある。また、日本スキー草創期に発展に尽くした一人で、科学的トレーニングを提唱し、スキー、テニス、野球などをたしなんだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/木原均
白菜品種についてのおさらい

中国東半部地図
結球白菜は植物分類上アブラナ科の Brassica campestris L. という種(しゅ)に含まれています。この種にはハクサイのほかハタケナ・ミズナ・タイサイ・ナタネ・カブなどたくさんの野菜があります。元々は地中海地域から西アジアにかけて野生していたもので、これが東に伝わり、中国北部で野菜としてさまざまに栽培され改良されてきました。結球ハクサイはその中での王様といえるでしょう。
この結球ハクサイは、いつごろどうしてできたのでしょうか? 確かな証拠はありませんが、中国の学者の説によると、7世紀ごろ江蘇省の楊州(ヤンチョウ)で、カブとチンゲンサイが自然交雑して生まれた牛肝菜という菜が先祖だそうです。
牛肝菜は結球しないハクサイでしたが、これが長い年月の間に次第に結球性を持つように改良されて、中国北部・東北部へと広がっていったとされています。当時の中国のハクサイには、結球しないもの、半ば結球するもの、よく結球するものなど、結球性についてさまざまなハクサイがありました。
結球したハクサイが、日本に始めて渡来したのは慶応2年(1866年)だそうです。明治になって当時の清国(しんこく・現在の中国)からハクサイのタネを取り寄せて各地で栽培してみましたが、結球したものができず失敗しました。明治8年(1875年)に開催された東京の博覧会に、清国から3株の結球したハクサイが出品されました。この株が愛知県に持ち込まれ、これから改良されて愛知白菜が生まれました。
その後、明治27~28年の日清戦争(日本と清国との戦争)と明治37~38年の日露戦争(日本と帝政ロシアとの戦争)で、戦場となった中国北部・東北部に赴いた軍人が、ハクサイのタネを日本に持ち帰り、栽培や品種改良を始めました。日本で結球ハクサイが本格的に栽培され始めたのはこの時期からのちのことです。



山東菜 山東白菜 花芯白菜
日本に入ったハクサイの品種は山東省原産のものが多く、不結球の山東菜(さんとうさい)、半結球型の山東白菜(さんとうはくさい)とともに、結球ハクサイとしては芝罘(チーフー)や包頭連(ほうとうれん)と呼ばれる品種が入りました。これらを元に日本で品種改良され、松島白菜や京都白菜などの品種が育成されました。



芝罘白菜 愛知白菜 京都白菜2号
昭和に入って、結球ハクサイを手始めに自家不和合性利用によるアブラナ科野菜のハイブリッド品種(交配種)育成の研究が始まりました。ハイブリッド品種育成というのは、二つの品種を交配し、その雑種第1代に現われる雑種強勢を利用しようとする試みです。
Link →野菜のはてな? 交配種とそうでない品種とはどう違う
この研究は、当時京都府乙訓郡長岡町(現・長岡京市)にあったタキイ種苗株式会社の研究農場で、農場長の禹長春(ウ・ジャンチュン)須永 長春博士らによって行なわれました。この研究の成果から、日本の結球ハクサイの品質と収量は大きく改善され、それまで不安定だった結球性もほぼ完全になりました。現在栽培されている結球ハクサイのほとんどは、交配種つまりハイブリッド品種になっています。
1926年、埼玉県鴻巣試験地(鴻巣市)転任。ナタネの研究を主に行ったが、この頃発見したペチュニア(つくばあさがお)の全八重の作出法(完全八重咲き理論)を元に坂田商会(現サカタのタネ)創業者・坂田武雄がこれを事業化し会社を拡大させた。また1936年には、論文「種の合成」で東京帝国大学より農学博士号を取得。この論文は「禹長春のトライアングル」とも呼ばれ、それまで地上に無かった全く新しい植物を作り出す可能性を裏付けし、世界的にも育種学の古典として今日でも名高い。
1948年、大韓民国の樹立で韓国で禹の呼び寄せ運動が起こった。
李承晩大統領の強い支援も受け、韓国農業科学研究所所長に就任し各地の農村を視察。国民にとって最も重要な大根と白菜の種子作りを始める。まず職員に育種学の重要性を力説。優良な固定品種を作るには、優良な個体を選抜し、人工交配を重ね、優秀な組み合わせを選抜して原々種を作り、この原々種を原種に増殖した後、一般普及種子として大量生産する。日本と韓国の多くの在来種を掛け合わせながらこれを続けるが、ここまでで5年、ここから更に数年かけて品種間交雑を行い、雑種強勢の強く現われる雑種第一代(F1)品種を育成しなければならない。
韓国に渡った翌1950年、朝鮮戦争が勃発。中央園芸技術院(国立試験場)院長に就任した1953年には、最愛の母死すの報を受け、日本帰国を大統領にまで嘆願したが、帰国は叶わなかった。李承晩大統領は禹を帰すと再び韓国に戻らないのでは、と懸念し出国許可を下ろさなかったと伝えられている。また日本語しか話せず、状況は非常に困難であったと思われるが、1957年頃には大根や白菜は自給態勢を整えるまでに持っていった。済州島近辺を蜜柑の大生産地とした。なお大根や白菜、蜜柑の原種は日本の品種が多く含まれている。
韓国国民で禹博士を知らない人はいない。白菜などの種子の自給体制を確立したため「韓国近代農業の父」あるいは「キムチの恩人」として有名だが、種無しスイカの発明者と言われることもある。種無しスイカは日本の遺伝学者・木原均による発明であり、禹が育種学とは何かを分かってもらおうと種無しスイカを作り、人々の前でスイカを切ったところ、種の無いスイカに人々は仰天し「禹先生が種無しスイカを作った」→「発明した」と一人歩きして今日に至るという逸話が残っている。
http://www.ohmynews.com/NWS_Web/view/at_pg.aspx?CNTN_CD=A0001221192
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