韓国の深い闇
スペルウェール号事件
李氏朝鮮の外交記録の『備辺司謄録』孝宗4年12月1日には次のように記されている。「領議政(大臣)曰く『この鹿皮は、役立つものを選んで、別の用途に使えばよい。そして代価は木綿を与え、彼らの冬の材料にすれば便当だろう』。国王曰く『それでよろしい』」。
1653年8月、後世に語り継がれるべき海難事件が起きた。スウィフトはこれを『ガリバー旅行記』を書くさい参考にしたといわれる。事件は台湾から長崎に向かうヤハト船(Yacht,オランダ語で3本マストの帆船)スペルウェール号が台風の遭遇し、済州島に漂着したことから始まった。
乗組員は全員オランダ人で64人だった。積荷は日本への輸出商品で次のようなものだった。
木香 20007斤
明礬 20037斤
鹿皮 30000枚
台湾産鮫皮 19952枚
山羊皮 3078枚
粉砂糖 92000斤(400箱)
暗礁に乗り上げたとき、船は沈没、28人が犠牲となり36人が海岸にうちあげられた。だが、すぐさま朝鮮役人の発見するところとなった。朝鮮人は直ちに船を焼き屑鉄をとり、積荷を奪った。36人は翌年5月ソウルに連行された。冒頭の『備辺司謄録』にある大臣と国王の会談記録はその間の盗品処理の問答である。
また「別の用途」とは、清への朝貢に充てることをさす。清国は李氏朝鮮を属国として扱い、毎年3回朝貢物を取り立てた。その中には宦官・貢女の献納も含まれるなど厳しいもので、またすでに国内の鹿は取り尽くされていた。
漂流オランダ人のリーダーはヘンドリック・ハメルで、のちに『朝鮮幽囚記』を残した。そこの中でハメルはソウルで国王、大官の宴会に呼ばれ、踊り・歌を強要されたと書いている。そして、オランダ人は、朝鮮人の扱いにたまりかね、脱出の機会をうかがうようになった。1655年4月、清国の勅使(チュッサ)がソウルを訪問したとき、2人のオランダ人は勅使(清国官吏)に直訴したのだ。だが、清国官吏は朝鮮国王を難詰したが賄賂をおくられ、何も問うことがなかった。
1656年、朝鮮人はこの二人を刑死させたあと、残りのオランダ人を全羅道に配流することに決めた。それまでの、米と燕麦、布は、わずかな米のみの支給に減額された。
オランダ人は藁編みや乞食をして糊口をしのがねばならなかった。更に1660年から3年連続の飢饉が全羅道をおそった。全羅道配流のとき33人いた一行は、この飢饉が終わるまでに22人に減少した。ハメルは国王や全羅総督に日本への送還を哀願したが聞き入れられなかった。
1666年、一行は16人になっていた。ハメルは他の7人とともに、乞食をしてためた金で船を買い脱出することにした。8月3日夜、全羅道左水営から船出、東南の方向、長崎に向かった。だが、翌日に見慣れぬ島影に到着、二三日逃げるように島を巡ると8月7日発見された。8人は祈るように「長崎・オランダ」を叫んだ。
刀をさした身なりのよい役人と手振りで話しようやく、意が通じたようだった。ハメルは「五島の住民や大官からはあらゆる好意が示されましたが、彼らはそれにたいして何も要求しなかった。私達は何も持ち合わせがありませんでしたので、若干の米を贈ろうとしましたが、彼らは受け取ることを辞退しました」と書いている。
一行は2隻の大きな船にのせられ、9月14日、13年遅れて、目的地長崎に到着、オランダ商館長フォルヘルの歓迎をうけた。だが幕府は残りの抑留されている8人についても、朝鮮から奪い返さねばならないと考えた。
『李朝実録』顕宗7年10月庚午の条。「倭からつかわされた橘成陳(対州藩宗氏の家来)が言ってきた。『10余年前、オランダ人36名が物資を積んで耽羅に漂着した。耽羅の人はそれを全て奪い、全羅道にオランダ人を散らばして置いた。そのうち8人は密かに逃れ、江戸差配の場所に来泊した。(中略)オランダは即ち日本の属郡であって来貢する者である。朝鮮がその貨を奪い、その人を留めることは誠信の道であろうか』」。朝鮮国王は屈服した。こうして在留を希望した一人を除いて7人が長崎に戻された。
その後、生きながらえ日本に戻った15人は、遅くとも1669年度中に故国オランダ、アムステルダムに帰ることができた。オランダ東インド会社は16年分の給与をハメルに支払ったという。
7別宮暖朗 甦れ美しい日本 第037号
http://takeshima.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1244336159
それぞれの文化の違いというものはある。
しかし
文化の質を見るに国、人種の違いはない。
が
歴然とした質の違いにはおかしみを通うり越して。
怒りさえ感じる。(藁