http://qnet.nishinippon.co.jp/travel/busan/news/20090812/20090812_0001.shtml
西日本新聞 2009.8.12

港町の釜山市(韓国南東部)は、日韓併合前からあふれるほど日本人が多かったんだが、市中央部のここ東莢区は例外だった。私が子供のころに住んでいた日本人は、教師と警官のほかは食堂と貸金業の2世帯だけだった。
豊臣秀吉が朝鮮を攻めた壬辰倭乱(文禄・慶長の役)で、日本軍は1592年4月、釜山港に上陸した後、激戦の末に東莢城を陥落させる。それでここでは排日意識が特に強いんだ。
「日本に侵略されたのは、結局は教育の力がなかったからだ」。私が理事長を務める育英会「東莢耆英会」は、元は19世紀半ばに親ぼく会として生まれたが、1963年にはそんな思いを強めた有志が財団法人化した。幼稚園や高校を建て、奨学金事業をしている。一番の目的は先頭で秀吉軍と戦った宋象賢(ソンサンヒョン)公を祭ることだ。
われわれの教育活動は朝鮮と日本の歴史に深く関係している。
当時みんながそうだったように、私自身も小学校に上がってから日本語や日本史、日本の地理を習った。
高校2年からは剣道を習った。トクマツヒロシという宮崎県出身の先生で、家にもよく呼ばれた。私をかわいがってくださり、武士道精神や剣の技術、生活作法をすべて教わった。
「酒に勝たなければ立派な人間にはなれない」と、その年で酒の飲み方もね。
さまざまな話をしたよ。ある日「第1級の秘密だ」として、「日本は太平洋戦争で勝てば、首都を東京から百済(クダラ)の都があった扶余(プヨ)(韓国中西部)に移すのだ」とおっしゃった。
もちろん真偽は分からないが、いずれにせよトクマツ先生は私を信用していたからこそ、そんな「秘密話」をしてくれたのだろう。
朝鮮が日本から解放された45年8月15日、私は刑務所の中にいた。
東莢という土地柄や、独立運動家でキリスト教信者だった父の影響で、私も祖国解放のために活動したからだ。
日本による「内鮮一体化」が進んだ40年、東莢で朝鮮青年独立団という地下組織が8人でつくられ、私も2年後に参加した。高校で化学を専攻した私は、列車爆破に向け爆弾製造担当になったが、43年8月に治安維持法により未然に逮捕された。
刑務所を管理したのは日本人だが、私を何度も拷問したのはカネイという日本名を持つ朝鮮人だった。いすに縛られ、棒で殴られた。「こいつを殺して、自分も死のう」と思った。
資産家でもあった父が財産没収をされたり、ひどい目に遭うこともなく、私も個人的には日本人に悪い記憶はない。しかし、19年に朝鮮全土に広がった「3・1独立運動」では、上海に亡命した臨時朝鮮政府によると7509人(朝鮮総督府の記録では357人)が殺害されるなどした。
秀吉以来のことが二度と起きないように、記憶と記録を継承しなければならない。