この「黒歯常之」は百済の将軍で、後に唐の将軍になった人物。
出自は書いてないが「黒歯」というのが理解できるかな。
魏志倭人伝では日本に行く道中が記されているが、「黒歯国は倭人の国」と明確に書かれているの。
つまり百済の将軍は黒歯出身の倭人なのよ。
百済には支配層に扶余人と倭人が闊歩していたが、その一人なのね。
http://kudara.org/sub/sub02/sub_01_0304.jsp
百済人物
黒歯常之
時代
古代/三国/ 泗沘百済定義
AD630年(?)~AD689年(?)。百済の義慈王代の将軍であると同時に百済復興軍の首長。
任存城を根拠地として復興運動を展開し、一時期城200数余を取り戻すくらいに気勢を誇った。この後、唐の熊津都督として来た扶餘隆に降伏し、唐の将軍として活躍した。
概説
黒歯常之は、百済復興運動を率いた指導者の中の一人である。『三国史記』黒歯常之伝によると、彼は本来百済の西部出身で、達率の官等として風達郡の郡将職 にあったという。 黒歯常之の生没年は、正確ではない。しかし『新唐書』の本紀には、彼が永昌元年(689年)10月に処刑されたとしている。墓誌銘によれば、死亡した年が 60歳であるため、逆算して630年に生まれたものと思われる。 『黒歯常之墓誌銘』には、彼の一族についての記録が出てくるが、「彼の先祖が扶余氏から出て黒歯地域に定着したため、子孫がこの地名から名づけた。」「こ の一族が代々達成を歴任した」「父方の曽祖父の名前は文大、祖父は德顯、父は沙次である、彼らの官等は達率であった。」等の内容である。これを通して、黒 歯常之の一族が百済の扶餘氏、つまり王族の一派であり、代々達率という官等を歴任したことが分かる。660年羅唐連合軍によって泗沘城が陷落し、百済が滅びた。蘇定方は義慈王をはじめとした王族および貴族達を捕捉略奪した。黒歯常之はこれに憤り、任存城 で復興運動を展開するようになった。復興軍は展開初期時200余りの城を取り戻すほどの気勢があり、これに乗じて黒歯常之は福信,道琛と共に扶餘豊を百済 王として擁立し、復興運動をより一層組織的に展開しようとした。しかし百済復興軍は羅唐連合軍の大々的な攻勢と復興軍内部の葛藤で次第に勢力が弱くなっ た。
この頃唐は、戦略を変えて高宗が直接招書を出して懐柔し、義慈王の息子である扶餘豊を 熊津都督に任命して遣わした。結局黒歯常之は、沙咤相如と共に降伏した。 その後、羅唐戦争において唐が新羅に敗れると、唐へ入国し将軍として活躍し、25年間の従軍中討伐および突厥との戦いで、一度も敗北したことはなかった。 今日のチベットに該当する吐蕃は、607年に統一され類例がない程の強盛さがあり、突厥と共に唐に敵対する深刻な勢力であった。黒歯常之はこの討伐におい て幾度も手柄を立てた。そのため、黒歯常之がいる間、突厥は彼を恐れ、敢えて辺境に侵入して来なかったという。これに関し『黒歯常之墓誌銘』には“侵入者 による騒ぎを見事なまで綺麗に解決することができたため、辺境の馬が太り始めた。中国が太平聖代となったため侵入者がいなくなった。兵士を出すと褒め称え られ、凱旋して戻ると、歌が出来たのであった。”と書かれていた。684年徐敬業の謀反を静めたのに続き、686年突厥が辺境を侵して来た時も大きな手柄 を立てた。以後687年には突厥の○○○○○○と○○の軍隊を撃破して、逃げる敵を40里も追撃し壊滅させた。このような功労として彼は、燕国公の爵位と 食邑3千戸を得るようになった。
しかし、687年突厥征服に出兵したのだが、同じ将軍である찬보벽が手柄を独り占めしようとし、一人で無理な進撃を強行し全軍が敗退するという事件が起 こった。찬보벽が処刑されたのに続き、手柄を立てることができなかった黒歯常之もこれに連累される。このことにより酒興などが、何ら落ち度のない黒歯常之 を逮捕する。逮捕された黒歯常之は拷問を受け、689年60歳の時絞刑に処された。 10年後の699年に息子である黒歯俊の努力によって彼の冤罪を晴らされ、邙山に黒歯常之の墓地が移転されることになった。最近中国で黒歯常之と黒歯俊父 子の墓誌石が発見された。 一方、彼の衆女である楽浪郡婦人の黒歯氏の名前は、中国の仏教美術史に伝わり受け継がれている。706年彼女は夫および彼の家族達と力を合わせ、山西省天 龍山の唐代石窟に三世仏像及び諸賢城を彫刻し、707年に完成した。その年の10月に仏像を彫刻した経緯を記した碑石を立てたため、彼女の名前が残ったの である。
参考文献
『三国史記』『旧唐書』『新唐書』「黒歯常之墓誌銘」関連写真
- 黑齒常之墓誌銘(拓本)