従来、日本の学者はこの一文を以下のように読んできた
”新羅・百残は(高句麗の)属民であり朝貢していた。しかるに倭が辛卯年(391年)に[海]を渡って来て百残・■■(加羅(任那)と読む説もある)・新羅を破り、臣民となしてしまった”
だが、韓国の学者は、当時の倭に百残・新羅を支配下に置けるほどの国力は無かったという認識や、また高句麗の碑文に倭の戦績を書く理由が無いという認識から、次のように読むべきだと反論している。
”新羅・百残(百済)は(高句麗の)属民であり、朝貢していたが、倭が辛卯年(391年)に来たので、(高句麗が)海を渡り(倭と結託した)百残を破り、新羅を救い、臣民とした”
好太王碑文の一部韓国の学者の読みは、歴史的事実を客観的に認識するというより、碑文の解釈にナショナリズムを持ち込んでいるようだ。当時の倭が百済や新羅を臣民としたというのは、顕彰碑特有の誇張表現だろうが、倭について次のように記述している箇所もある。●399年、百済は先年の誓いを破って倭と和通した。そこで王は百済を討つため平壌に出むいた。ちょうどそのとき新羅からの使いが「多くの倭人が新羅に侵入し、王を倭の臣下としたので高句麗王の救援をお願いしたい」と願い出た。
●400年、大王は新羅の願いに応じて5万の大軍を派遣して新羅を救援した。新羅の王都を占領していた倭軍が退却したので、これを追って任那・加羅に迫った。ところが安羅軍などが逆をついて、新羅の王都を占領した。
●404年、倭が帯方地方(現在の黄海道地方)に侵入してきたので、これを討って大敗させた。
客観的にみて、こうした記述は、倭が百済を助けて高句麗の南進を阻止しようとしたり、伽揶諸国を助けて新羅に侵入した事実があったことを物語るものであろう。さらに『三国史記』の新羅紀では、「実聖王元年(402年)に倭国と通好す。奈勿王子未斯欣を質となす」とあり、人質となった王子を連れ戻すために朴提上が活躍する逸話が記載されている。当時の倭が、朝鮮半島南部の百済や新羅、伽揶諸国に対して国際関係上優位にあったことは認めてよい。
1972年、李進煕(りじんひ)氏はその著作『広開土王陵碑の研究』の中で好太王碑に関する驚くべき研究を発表された。陸軍参謀本部の密偵・酒匂景信(さこうかげのぶ)は1883年に碑文の一部を削り取るかまたは不明確な箇所に石灰を塗布し改竄したのち、双鉤加墨本(そうこうかぼくぼん)を作り持ちかえり、さらに酒匂の偽造を隠蔽・補強するためさらに1889年から1900年ごろ参謀本部は碑の全面に石灰を塗布したというのである。さらには、そうした改ざんは、我が国の朝鮮半島へ進出を正当化する意図でなされたというのだ。李氏の研究論文は当時センセーショナルな波紋を呼んだ。しかし、
2005年6月になって、酒匂本以前
に作成された墨本が中国で発見さ
れ、その内容は酒匂本と同一である
旨の新聞報道がなされた。さらに20
06年4月には中国社会科学院の徐
建新氏により、1881年に作成され
た現存最古の拓本と酒匂本とが完
全に一致していることが発表さ
れた。
これにより、李進煕氏が主張した旧
日本陸軍による改竄・捏造説が成立
しないことが確定したことになる。