
(日本で輸出するために仁川港に野積みされている米)
土地の収奪説も根拠がないのは同じです. 農地の 4割もなる大量の土地が収奪されたということは事実ではないです. 事実ではないから当時人々からもそういう話を聞くことができません. その点を私は 1923年に使われたシン・チェホ先生の ‘朝鮮革命宣言’から確認します. この宣言文は次のように日帝の収奪を告発する内容で始めています.
強盗日本が私たちの国号をオブイして, 私たちの政権を奪って, 私たちの生存的必要条件をすべて剥奪した. 経済の生命である山林・チォンテック・鉄道・鉱山・漁場内だ小功業原料まですべて奪って一体の生産機能を刀で切られて斧で切って, 土地税・家屋税・人口世・家畜世・百だね(百一税)・地方税・週明け世(酒草税)・肥料世・種子世・営業税・清潔世・所得税… その他各種雑税のますます増加して血液はあるとおりすべてパルアがで(以下省略)
シン・チェホ先生が ‘強盗日本’の各種収奪を責める口調はしんらつなこと言い尽くせないです. ところでその収奪の種目の中米の収奪は勿論, 土地の収奪も見えないです. 土地調査事業が終わってから 5年しかならない時点ですね. 実際に農地の 4割や収奪されたらシン・チェホ先生が彼に対して黙ったわけがないですね. 先生が列挙している収奪のリストは新しい国家権力で入って来た日製が共有資源を開発するとか各種税金を賦課した内容で満たされています. すっかり公権力による功績統治行為の領域です. 先生の主張が果して正しいかは別途の論争の種です. とにかく他人の財産を対価も支払わないで奪うそういう収奪は上に含まれていないです.
日製が朝鮮人の土地を大量収奪したという神話が最初で学術論文の形態に提示されることは 1955年日本東京[東京]大学に留学の中だった李財務によったからです. 李財務は土地調査事業当時総督府が農民たちにとって所有農地を届けるようにした調査方式が実は収奪のためのことだったと主張しました. 当時農民たちは所有権観念が稀薄だったし申告という気難しい行政手続きに慣れなかった. 総督府はこのような農民たちに日切り申告を強要して大量の武臣高地が発生するように誘導した. 開いた後その土地を国有地で沒収して日本移民と東拓会社などに有利に払下げしたということです. このような主張を広げながら李財務が何の実証的根拠を立てたことではなかったです. まあまあだという個人的な信念に根拠した一方的な推論だったです. 李財務の個人的信念は今日の研究水準で見ればホホロブギ相棒がいないです. 朝鮮時代の人々は土地を示して ‘人の命与える’[人之命脈]といいました. 所有権観念が稀薄だったって. どういたしましてですね. また朝鮮時代の私たちのご先祖は 500年間 3年に一回ずつ国家に戸籍を届けなければならなかったです. 申告手続きに慣れなかったなんてそれもはじめから話にならない話でした.
このようにさせられ始めた土地収奪説が教科書に最初に積まれることは 1962年歴史教育研究会という団体が作った中等国史教科書でです. この教科書は日製が土地調査事業を通じて土地を収奪した結果印本人の土地が全国のほとんど半分もなったと言いました. やっぱり何の根拠が提示されたのではなかったです. 引き継いで 1967年閔令堰が書いた教科書に全国国土の 40%が収奪されたという技術が出ますが, そのやっぱり何の根拠がある主張ではなかったです. ところで 1960年代の教科書は検認定制度でした. 多くの人が書いた多くの教科書があったが, すべての教科書がすべてそんなに苦いのではなかったです. そうするうちに 1974年から教科書が国政制度に変わります. あの時から今まで 30年以上閔令堰が作り上げた 40% 収奪説が定説で教科書にのせられました. 前述した食糧収奪説も同じです. 1960年代までの教科書にはそういう記述がなかったです. 国政教科書に変わった後から日製が食糧の半分を積んで運んだという式の荒っぽい敍述が登場しますね.
国政に変わった教科書の敍述の荒れた理由は何でしょうか. 戦場で批判したところですが, 当時は朴正煕大統領が民族の名前に断行した維新の時代でした. 民族主義が大変強気をふるった時期だったです. 史家たちはこのような時代的成り行きに無批判的に順応しました. だけでなくどんな史家はいなかった事実を作り上げることで政治家と大衆の民族主義的欲望に応じたんです. 教科書の敍述が乱暴になったことはこのような時代的梨頃に書でした.

(土地調査事業のために京畿道高揚君で
大地を測量している姿)
教科書と別に日帝の土地収奪に関する学術研究書が出ることは 1982年の事でした. 今日にシン・ヨンハ教授が出刊した 《ゾソントジゾササアップヨング》(知識産業社, 1982)は遅ばせながら日帝の土地収奪を立証した研究だと大きく歓迎を受けました. 当時大学院生だった私もその本を読んで感銘を受けた覚えます. ところでその後自分なりに韓国の土地制度社を研究しながら私は申教授の上の本が真摯な実証の産物ではではなければが分かるようになりました. 先輩教授に対する無礼な言辞であると思っていますが, 大衆の歴史認識に対する非常に功績な問題だと仕方ないですね. 李財務と走った教授は日製の国有地収奪に焦点を合わせました. 日製が民有地を国有地で収奪しようと狂奔した姿を申教授は “一手にはピストルを他の一手には測量期をあげて”と非常にエロチックで描きました. その証拠として申教授は日帝が収奪した国有地の多くの事例を提示しています. そうだが, その皆は 1918年に出刊された土地調査事業の報告書に紹介された紛争事件を申教授が便利なだけ脚色したことに過ぎないですね. 例えば慶南金海のどんな地を置いて慶南道場官は国有地なのを, 民間人たれては民有なのを主張する紛争に対して見てからはそれぞれの主張はこのようでああだという式で中立的に紹介しているだけです. それを申教授は紛争の結果は見ようがみまいがそらぞらしいものと言って全部国有地で判決が私はのように変えて使いました. そんな式ならまともにできた実証だと言えないですね.
シン・ヨンハ教授が上の本を出刊したその年に慶南金海郡庁で土地調査事業当時に作成された文書たちが大量で発見されました. その資料を利用した論文が出始めることは 1985年からです. 私もその過程で一分け前をしたんですが, 結論的に話して総督府は国有地を取り囲んだ紛争の審査で公正だったし, ひいては既存の国有地でも民有である根拠がどの位充足されれば民有地に変えて判定するのにけち臭くなかったです. そのように紛争を経って残った国有地は全国の総 484万情報の土地の中 12.7万情報に過ぎなかったです. それさえ大部分 1924年まで日本移民ではなく朝鮮人軟膏小作農に有利な条件に払下げしてしまいました.