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☆ コリアの日本侵略~李氏朝鮮による応永外寇 ――― 2009/12/07
原著 2009/11/22
太閤豊臣秀吉による文禄の役=天正20=文禄元(1592)~文禄2(1593)と慶長 の役=慶長2(1597)~慶長3(1598)、明治43(1910)年8月22日の日韓併合 から昭和20(1945)年8月15日の朝鮮建国準備委員会結成に至るまでの、 いわゆる「日帝三十六年」----但し、韓国は昭和23(1948)年8月13日、北 鮮は昭和23年9月8日にそれぞれ独立建国----を以って、日本によるコリア 侵略とコリアは称していますが、 以前の小論=高麗襲来─元寇に隠された側面)に於いて、元寇=蒙古襲来=文 永の役=文永11(1274)と弘安の役=弘安4(1281) が、その実、ーーー高麗 が主体となって行われた対日侵略であったーーーと指摘しました。 とはいえ、コリア側から「あれは元=蒙古に脅されて仕方なくしたこと」との 逃げ口上がすぐに出てくるのは想像に難くありません。しかし元寇からおよそ 140年後、明確にコリアが主体となって日本を侵略した出来事があった、と 言ったら果たしてどうなるでしょうか? ーーーという訳で、コリアによる文永の役・弘安の役に次ぐ3度目の対日侵略 について書いてみたいと思います。 コリアによる文永の役・弘安の役に次ぐ3度目の対日侵略とは一体何なのか? これは、その時の元号、室町時代の応永26(1419)年をとって「応永の外寇」 =日本側の別称は「糠岳[ぬかだけ]戦争」と呼ばれており、李氏朝鮮軍が軍船 227隻、1万7千余の軍勢を以って対馬を襲撃してきた、文字通り対日侵略 戦争でした。 因[ちな]みに、朝鮮軍を迎え撃った対馬勢の戦力は、朝鮮軍の凡そ22分の1 の8百余だったにも関わらず、戦死者は僅か20人、それに対して朝鮮側の戦 死者は2500人以上(日本側史料)に及び、 侵略から僅か1ヶ月後、朝鮮軍は対馬側=日本側の和平提案に飛び付き、すご すごと巨済島[コジェド]へと全面撤退、結果は朝鮮側の大敗に終ったのです。 ----島根県が制定した「竹島の日」に対抗する形で「対馬の日」を制定した馬 山市は、鎮海湾を挟んで巨済島の北にある。 さて、この「応永の外寇」について、これが対日侵略であったか否かについて 考えてみましょう。ーーー先ずは当時の日本側の受け止め方についてですが、 朝鮮軍の対馬襲来の報を受けた室町幕府の反応が示唆に富んでいます。 それは、当時、支那大陸に於いて王朝が元から明[みん]に交替していた、にも 関わらず----因みに元は滅亡したのではなくモンゴル平原へと勢力が後退した だけ----、当初はこれが「元寇の再来」ではないかと認識されていた事です。 主体となる大国が元から明へと変わったにも関わらず、元寇の再来とみられた 理由で考えられることは唯一つ。それは先の元寇が、実は私が指摘した通り、 やはり「高麗襲来」だったからに他ならず、 今次の襲来も、主役が高麗から李氏朝鮮に変わっただけで、実態は前回同様に コリアによる侵略と認識されたからです。 次に、「応永の外寇」に対する当時の李氏朝鮮の受け止め方についてですが、 それを如実に表しているのが、応永の外寇の朝鮮側呼称です。=朝鮮では、時 の干支[かんし]から「己亥東征[ギヘトンジョン;きがいとうせい]」と呼んで いますが、 そこに「東征」とあるように、明らかに「東(東南)への遠征」の意味が込めら れており、どう転んでも「防衛戦」の意図を読み取ることはできません。また この「東征」を決めたのは、 王位を世宗大王[セジョンデワン]在位:1418~1450)に譲った後も政治の実権 を握り続けていた先王・太宗[テジョン]在位:1400~1418)ですが、 彼は、当時朝鮮半島沿岸を荒らし回っていた「倭寇[わこう]」討伐とは別に、 「古書によれば対馬は慶尚道に隷属する」 などという、歴史的事実とは異なる主張を大義名分に掲げ、そして侵略を実行 に移しました。しかし、対馬=往古[いにしえ]の「對馬國」が、 『魏志倭人伝』=正確には『魏書の東夷伝倭人条』の時代から、倭国=日本を 構成する一国だったことは明らかであり、「古書によれば対馬は慶尚道に隷属 する」などという主張は、正に「言いがかり」もいいところで、 要は、表向き倭寇討伐を名目に出兵し、あわよくば対馬を占領し自国領に併合 してしまおう、と考えていたであろうことは火を見るよりも明らかな訳です。 因みに対馬への侵略は、同地の有力者が明国へと渡っている最中で、対馬の防 衛体制が手薄だった時期を選んで行われましたがーーーこれはそのまま、韓国 が日本の警備防衛体制の間隙を縫って竹島を襲撃、今に至るまで占領し続けて いる事例と非常に良く似ています。 ----余談ですが、韓国が対馬を自国領とする根拠の一つがなんと!対馬を侵略 した「応永の外寇」なのです。・・・なんとも呆れてものも言えない・・・ このように見てみると、応永の外寇は正に文永の役・弘安の役に次ぐコリアに よる3度目の対日侵略だったのは明白です。 にも関わらず、それから凡そ179年後の「朝鮮征伐」=文禄・慶長の役の総 称。当時の呼称「唐入[からいり])を殊更に取り上げて日本の朝鮮侵略を糾弾 するコリア側の態度は到底フェアとはいえません。言い方を変えれば、 「先に侵略したのは貴国=コリアの側ではないか」 と言える訳です。 戦を仕掛けておきながら大敗し、すごすごと引き上げていったコリアに対し、 さらに鞭打つが如くに「謝罪スルニダ!」「反省スルニダ!」などというつも りはありませんが、 少なくとも、日本がコリアを一方的に侵略し、対するコリアは常に「被害者」 であったなどという歴史観だけは取り下げるべきではないのか?ーーーそう言 いたい訳です。 長い歴史の中で、隣国同士がやった=攻めた、やられた=攻められたがないほ うがむしろ奇蹟と言えるでしょう。英仏然り、独仏然り、そして、支那=中国 と越南(ベトナム)然り。日本とコリアの間にだってそれはあった。 そのことまで否定するつもりはありませんが、一方的にコリアは被害者、日本 は加害者、という固定観念だけでも捨て去ったら如何なものか?ーーーそう、 コリアの為政者、マスコミ、そして国民に、強く求めたいと思います。 ――― 余談つれづれ 「倭寇」というと、その字義から、朝鮮半島や支那大陸の沿岸を荒らし回った 日本人海賊といった印象を持つ方も多々おられると思いますが、実態は違って います。 彼らは単なる海賊ではなく、多分に私貿易・密貿易を行う貿易商人でしたし、 その構成員も、14世紀に活動していた所謂「前期倭寇」は日本人だけでなく 朝鮮人=高麗人・支那人からなる多民族混成、16世紀に活動していた「後期 倭寇」にいたっては、なんとそのほとんどが支那人だったと言われています。 「倭寇図巻」明末清初17世紀(東京大学史料編纂所所蔵) http://chinachips.fc2web.com/photo2/td/wakozukan.jpg ┌-------- 支那大陸沿岸を荒らし回った倭寇を支那人画家が描いたもの。左側が明軍の兵 士で、右側の「月代[さかやき]を剃った日本人」として描かれた集団が倭寇。 しかし、当時の倭寇の殆どが支那人だったことを考えると、日本人に成りすま した支那人だった可能性も拭い切れない。 └-------- そう考えると、日本を意味する「倭」で一括[くく]りにされている「倭寇」と いう呼び方自体が我々日本人からしてみればアンフェアと言えます。 そしてこうも言えます。 応永の外寇が起きた時代、朝鮮半島沿岸で活動していた倭寇は、果たして日本 人単一構成だったのだろうか?と。 当時の倭寇構成員が多民族混成だった点を考えると、倭寇討伐を名目に対馬= 日本を侵略した李氏朝鮮の行動は、明らかに過剰であり、逸脱した行為だった とは言えないでしょうか? 因みに、前期倭寇に参加していた日本人は、元寇=高麗襲来の際、高麗兵によ り虐殺された対馬・壱岐・松浦[まつら]・五島列島の住民が中心だったと言わ れていますし、 清の徐継畭[スージーユ;じょけいよ]の『瀛環志略[えいかんしりゃく]』や、 李氏朝鮮の安鼎福[アンジュンボク;あんていふく]の『東史綱目』には、 「倭寇の原因は対日侵略行為を行った高麗=朝鮮人への報復である」 とさえ書かれているのです。高麗が元寇=高麗襲来を行わなければ、ひょっと したら、その後、日本人倭寇が朝鮮半島沿岸を襲うこともなかったのかも知れ ません。 そう考えると、倭寇による被害は韓国人の自業自得だったとも言えるのです