2017.10.13 22:23更新
“幻の超特急”満鉄「あじあ」号の機関車 瀋陽の博物館で保存

“幻の超特急”と呼ばれた南満州鉄道「あじあ」号を牽引した、蒸気機関車「パシナ」757号(左)と751号。中国・瀋陽に保存されていることがわかった=遼寧省瀋陽市
南満州鉄道(満鉄)が独自に開発・製造したパシナ型蒸気機関車12両のうち、現存する2両が、中国遼寧省瀋陽市の博物館に並んで保存されていることが13日までに、確認された。
パシナ型は1934(昭和9)年から8年余り、“幻の超特急”と呼ばれる「あじあ」号を、直径2メートルの巨大な動輪6個で牽引した。
流線形の美しい車体は満鉄時代の濃紺ではなく、それぞれ水色(751号)と濃い緑色(757号)に塗り替えられていた。
中国誌「鉄道文芸」(電子版)はパシナ型について、最高時速130キロ、新幹線の原型となったなどと詳しく紹介する一方、「日本軍国主義の中国侵略の証拠」としている。
一般の参観は認められておらず、博物館の担当者は、「原則として中国の鉄道関係者にしか公開しない」と話している。








http://www.sankei.com/life/news/171013/lif1710130032-n1.html
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2016.9.18 12:00更新
【満州文化物語(32)】
特急「あじあ」の機関車設計者は「キング・オブ・ロコモ」と呼ばれた男だった…

特急「あじあ」のパシナ型機関車。その巨大さがよくわかる。上段右から3人目が吉野氏(吉野康司氏提供)
ケタ外れのパシナ型
終戦直後、大連へ進駐してきたソ連(当時)や中国の鉄道関係者は『キング・オブ・ロコモ(機関車王)』と呼ばれた男を探していた。世界に衝撃を与えた満鉄の超特急「あじあ」のパシナ型蒸気機関車を設計した中心人物である。
吉野信太郎(のぶたろう)。満鉄工作課機関車係主任、工作課長、大連工場長を歴任し、満鉄が作った機関車十数種に携わった名技術者だ。
そのころすでに病身であり、昭和21(1946)年10月には、肝硬変のため50歳の若さで亡くなってしまう。大連から内地(日本)への引き揚げが始まる直前のことであった。
パシナ型機関車はあらゆる面でケタ外れだった。まずは巨大さ。最高時速130キロの「あじあ」を牽引するには強力なパワーを持つ機関車が必要だ。全長25・7メートル、全高4・8メートル、動輪直径2メートル。満炭満水時の重量は203トン。当時、世界最大級であり、内地の東海道線で特急「燕(つばめ)」を引いていたC51やC53(いずれも動輪直径1メートル75)と比べてひと回り大きい。
2つ目は「流線形」の斬新なスタイルだ。濃い藍色の曲線ラインのカバーを機関車全面に取り付けるもので、約3割空気抵抗が減り、よりスピードアップができる。半面、カバー自体の重量がデメリットになるが、吉野らは他のあらゆる部分を切り詰めることでバランスを図った。
そして、何より驚かされるのは「短期間」である。満鉄重役会議で「あじあ」建造の社議決定がされた昭和8年8月23日から、一番列車が発車した9年11月1日までわずか1年2カ月あまりしかない。設計開始から試運転まではたった7カ月だ。吉野らは「設計と製造を同時進行で行う」離れ業で、世界に轟く名機関車を“自前”で作り上げたのである。
「この列車(あじあ)はアメリカのどこの会社から購入したのか?」
営業運転開始前、「あじあ」に試乗したアメリカの記者団は満鉄側にこんな質問を投げかけた。日本人がこれほど優れた列車を造れるはずがない、という侮蔑が表れていた。
「設計・製造とも自社・自国でやりました。材料も一部を除いて国産品を使っています」
信じられない、といった表情で記者団は、次の質問を放つ。
「(その技術者たちは)アメリカのどこの大学を出たのか?」
この答えは“半分正解”というべきか。吉野ら満鉄の多くの技術者は日本や満州・関東州の学校出身だったが、社内の制度でアメリカで先端技術を学んだ経験があったからである。
国鉄は弾丸列車で対抗
吉野は、大連の南満工業(後に工専)から旅順工科学堂(同工大)を経て、大正7(1918)年に満鉄に入社している。満州における技術者のエリートコースと言っていい。
パシナの設計に取りかかったときは37歳。すでに満鉄の急行「はと」を引くパシコ型蒸気機関車の設計に携わっており、工作課の若きエースだった。
孫の吉野康司(やすし、56)は「自室は機関車の設計図でいっぱい。根っからのエンジニアで自宅の設計や暖房システムまで自分でやった、と聞きましたね」
満鉄の技術者には吉野と同様に南満工専と旅順工大の出身者が多かった。東京、京都帝大などの出身者が多い日本の国鉄(鉄道省)にライバル心を抱いても不思議ではない。
大正4年に旅順工大を卒業し満鉄に入社した高橋恭二は「あじあ」の思い出を同校の同窓会誌に寄せている。《(満鉄急行「はと」の)機関車を自前でつくったが、内地の「燕」の方がちょっとだけ早かった。負けてはいかんということで「あじあ」をつくろうということになったのです》
ところが、「燕」よりも平均速度で15キロも早い「あじあ」がデビューするや、今度は国鉄の技術陣が羨む番となった。狭軌(1067ミリ)でスピードを出しにくい国鉄に比べ、満鉄は国際標準軌(1435ミリ)を採用。潤沢な資金力で先端技術を獲得している…。
「あじあ」に刺激を受けた国鉄は、昭和10年代初めからいわゆる「弾丸列車計画」に着手する。飽和状態にあった東海道・山陽線と並行する標準軌の新線(東京-下関)を建設。朝鮮の釜山まで海底トンネルを掘り、さらには朝鮮・満州・北支までつなぐ。新造する機関車の動輪直径はパシナを上回る2メートル30センチ、蒸気機関車で150キロを目指す壮大なプランである。
名機関車D51から戦後の新幹線まで携わった国鉄の技術者、島秀雄(しま・ひでお=1901~98年、元国鉄技師長)も弾丸列車計画に加わり、視察のため、2度渡満している。5歳上で旧知だった吉野のアドバイスも受けたに違いないが、プライドがそうさせたのか、詳しい記録を残していない。
弾丸列車計画は昭和15年から用地買収やトンネル工事に着手するも、開戦によって計画は頓挫。島の夢は四半世紀後の東海道新幹線開通(39年)を待たねばならなかった。弾丸列車計画の用地やトンネルの一部は新幹線に生かされた。
満鉄の吉野は、パシナの後もディーゼル併用で最高時速140キロの高速機関車「ダブサ」や1500キロ無給水走行可能な「ミカク」などの設計などに関わり続けた。「満鉄特急『あじあ』の誕生」を書いた天野博之(80)は「(吉野は)早く亡くなり、知られることが少なかったが、もっと高く評価されるべき技術者だった」。=敬称略、隔週掲載
(文化部編集委員 喜多由浩)
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■満鉄の特急「あじあ」 大連-新京・ハルビン間を結び、客車は冷暖房完備、食堂車はロシア人ウエートレスがサービスした。日本の教科書や映画にもなり、満州繁栄のシンボルに。戦局悪化で昭和18年2月末、スタートから8年余で運転を終えた。

吉野信太郎氏(吉野康司氏提供)

http://www.sankei.com/premium/news/160918/prm1609180026-n1.html
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ググってみると、10年以上前には別な施設で一般公開されてたようだけど、
今は一般公開していませんか。
( ´・д・)ノ フリーマンチュリア!