2月の第4月曜日(以下、この日と書きます。この日は、日本は、祝日(国民の休日)でした)に、彼女と、上野(ueno)に遊びに行って来た時の物です。
この日は、前日に、我が家に泊まった彼女と、朝寝坊をし、遅い朝食兼昼食を食べてから、我が家(東京都心部の西部の静かで落ち着いた住宅地に位置します)を出ました。この日は、地下鉄で、上野(ueno)に行きました。
上野(ueno)は、東京都心部の北東部に位置する、浅草(asakusa)と並ぶ、東京の下町(東京都心部東部。旧市街)最大級の繁華街です。
上野(ueno)には、上野(ueno)公園があります。上野(ueno)公園は、東京中心部にある公園の中では、最大級の公園の内の一つであり、また、美術館・博物館等の文化施設が集まっています。
この日は、まず、上野(ueno)areaにある湯島(yushima)天神(tenjin)に梅の花を見に訪れました(湯島(yushima)天神(tenjin)は、東京の梅の花の名所(有名な場所)の一つとなっています)。
湯島(yushima)天神(tenjin)に訪れた後は、上野(ueno)公園を散歩しながら、東京都美術館を訪れました。ちなみに、この日は、2人共、歩き易い靴で出掛けました。
東京都美術館は、東京都(日本の47の都道府県(prefecture)の内の一つ。主に、東京中心部(東京23区)と東京の西部郊外・近郊から成る)が運営する、規模の大きな美術館の一つで、上野(ueno)公園にある文化施設の一つです。
江戸(edo)東京博物館は、東京中心部(東京23区)の東部(東京の下町(旧市街))にある、1993年に開館した、東京都(日本の47の都道府県(prefecture)の一つ。主として、東京中心部(東京23区)と、東京の西部郊外・近郊から成る)が運営する、規模の大きな、東京の歴史に関する博物館です。江戸(edo)東京博物館は、現在(2022年から2026年の春まで)、改修工事の為に、閉館中(休館中)です(元々、2025年まで休館の予定であった様ですが、休館の期間が、2026年の春まで延びた様です)。
この時、東京都美術館では、期間が短いですが(2月22日から2月26日までの、5日間限定で開催されていた)、現在休館中の、江戸(edo)東京博物館を収蔵作品の一部を展示する催し(以下、この展覧会(exhibition)と書きます)が、行われていました。
この日、東京都美術館では、この展覧会(exhibition)(入場は無料です)を見て来ました(この日、東京都美術館を訪れた目的は、この展覧会(exhibition)を見る事にありました)。
この展覧会(exhibition)は、一般的な展示と、特集展示である、上野(ueno)の歴史に関する展示の、2部構成で行われていましたが、以下、この投稿では、この展覧会(exhibition)の、上野(ueno)の歴史に関する展示の例について紹介します。
以下、以下の投稿の続きです。
湯島天神他(湯島(yushima)天神(tenjin)に関しては、この投稿を参照して下さい)→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_16/view/id/3924677?&sfl=membername&stx=nnemon2
清水堂・不忍池他(上野(ueno)公園に関しては、この投稿も参照して下さい)→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_16/view/id/3924676?&sfl=membername&stx=nnemon2
東京都美術館 出張江戸博前編(東京都美術館、江戸(edo)東京博物館、この展覧会(exhibition)の、一般的な展示の例に関しては、この投稿を参照して下さい)→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_16/view/id/3924675?&sfl=membername&stx=nnemon2
4月の第一土曜日、夜10時から、テレビの地上波の、テレビ東京で放送された、「新美の巨人たち」は、上野(ueno)公園の歴史に関してだったのですが、彼女と、我が家のテレビで見ましたが、以下の上野(ueno)の歴史に関する説明は、その時に見た、番組の内容も、少し参考にしています→
https://www.tv-tokyo.co.jp/kyojin/backnumber/index.html?trgt=20250405
https://artexhibition.jp/topics/news/20250401-AEJ2617989/
徳川(tokugawa)将軍(shogun)家は、江戸(edo)時代(17世紀から19世紀半ば)において、東京(当時は、江戸(edo)と呼ばれていた)を拠点として、日本全国の地方領主達の長(leader)として、日本を実質的に統治していた家です。
徳川(tokugawa)将軍(shogun)家の中心的な城(castle)は、江戸(edo)城(castle)(東京都心部でも中心的な地域に位置する)でした。
以下、江戸(edo)城(castle)に関する参考の投稿。
江戸城跡(2024年桜)前編→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_11/view/id/3799525/page/28?&sfl=membername&stx=nnemon2
江戸城跡(2024年桜)後編→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_11/view/id/3799524/page/28?&sfl=membername&stx=nnemon2
ちなみに、東京(昔(19世紀中期以前)は、江戸(edo)と呼ばれていた)の、大都市と言うか都市としての歴史は、17世紀からで、東京は、日本の長い歴史の中においては、歴史の短い都市です。
京都(kyoto)は、794年から19世紀半ばまで、長らく日本の首都であった都市であり、日本の、伝統文化の中心都市です。大阪都市圏の堺(sakai)市は、15世紀後期から17世紀初期にかけて、貿易都市として繁栄していました。また、大阪は、16世紀後期から、日本の、商業・物流の中心都市として発展して来ました。
これに対し、東京は、16世紀までは、田舎の、のどかな、農村又は自然地帯で、富士山(fujisan)(標高
3,776m。東京圏に近い場所にある、日本で最も高い山で、その形の美しさから、世界的に名が知られている山)は見えましたが(おそらく、産業革命前で近代的な工場も自動車も存在せず現在よりも空気が澄んでいて、近代的・現代的なビルも存在しなかった、江戸(edo)時代においては、東京から、現在よりも、富士山(fujisan)が、遥かに(ずっと)、良く見えたと思います。現在は、ビルが建ち並び過ぎている事等から、東京から、富士山(fujisan)を見る事は、中々、難しい)、基本的に、名所・観光地は、存在しませんでした。
徳川(tokugawa)将軍(shogun)家は、東京を開発するに当たって、長い間、そして、当時、日本の中心地であった、関西(kansai)大都市圏(大阪・京都(kyoto)・神戸(kobe)を中心とした大都市圏。東京圏に次ぐ、日本第二の人口を有する大都市圏。ちなみに、神戸(kobe)は、近代以降(19世紀後期以降)、関西(kansai)大都市圏の海の玄関口(gateway)・貿易都市として発展した都市です)に、憧れやコンプレックス(劣等感)と言った物を持っていたと思います。
滋賀(shiga)県は、関西(kansai)大都市圏(大阪・京都(kyoto)・神戸(kobe)を中心とした大都市圏。東京圏に次ぐ、日本第二の人口を有する大都市圏)の北東端に位置する県です。
滋賀(shiga)県にある湖、琵琶(biwa)湖(面積669.26平方km)は、日本で、最大の湖です(韓国で、最大の湖の、忠州(Chungju)湖(人工の湖)の、約10倍の広さがあります)。
竹生(chikubu)島は、琵琶(biwa)湖に浮かぶ、小さな島です。
弁才天(benzaiten)は、元々、仏教の、女性の神ですが(元々、ヒンドゥー教(Hinduism)の女神(女性の神)である、サラスヴァティー(Saraswati)が仏教に取り込まれた)、神道(Shinto)にも取り込まれ、神道(Shinto)の神の一つともなっています。
竹生(chikubu)島は、何れも、弁才天(benzaiten)を祀る、何れも、歴史が古い、仏教の寺、宝厳(hougon)寺と、神道(Shinto)の神社(shrine)、都久夫須麻(tsukubusuma)神社(shrine)があり、古くから、巡礼地・観光地となって来ました。
竹生(chikubu)島に関しては、以下の投稿(すぐ下でリンクを付けた投稿)を参照して下さい。
竹生島・宝厳寺他→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_11/view/id/3922453?&sfl=membername&stx=nnemon2
不忍(shinobazuno)池は、上野(ueno)にある、天然の池で、現在は、上野(ueno)公園の一部となっています。
前述した、琵琶(biwa)湖は、京都(kyoto)の北東に位置しますが、不忍(shinobazuno)池は、江戸(edo)城(castle)の北東に位置しています。
徳川(tokugawa)将軍(shogun)家は、17世紀前半に、(まだ都市として発展し始めたばかりの)東京(当時は、江戸(edo)と呼ばれていた)に、名所を作る為に、不忍(shinobazuno)池を、琵琶(biwa)湖に見立て、そこに、竹生(chikubu)島に見立てた、人口の島、弁天(benten)島を築き、弁天(benten)島に、弁才天(benzaiten)を祀る、お堂(建物)、弁天(benten)堂を建てました。
当初は、弁天(benten)島までは、橋がなく、弁天(benten)島への参拝は、竹生(chikubu)島同様、船で行われていましたが、それでは不便と言う事で、1672年に、東方向から、弁天(benten)島へ渡る為の、石橋が架けられ(陸路が整備され)、弁天(benten)島まで、歩いて参拝出来る様になりました(現在は、不忍(shinobazuno)池に、東方向、西北方向、西南方向の、3方向から、弁天(benten)島まで渡る事が出来る陸路が整備されています)。
京都(kyoto)の北東方面、滋賀(shiga)県の、琵琶(biwa)湖の近くに、延暦(enryaku)寺と言う、788年に創建された、京都(kyoto)の鬼門(kimon)(北東。日本で、古くから、鬼・魔物が出入りするとされる方角)を護る、歴史の古い、とても規模の大きな(標高848mの一つの山全体が敷地となっており、100の建物がある)、仏教の寺があります(延暦(enryaku)寺は、日本の、主要な観光地の一つとなっています)。
延暦(enryaku)寺→
https://www.hieizan.or.jp/
徳川(tokugawa)将軍(shogun)家(徳川(tokugawa)将軍(shogun)家の当時の当主、徳川
家光(tokugawa
iemitsu))は、京都(kyoto)の鬼門(kimon)を護る、延暦(enryaku)寺に習って、江戸(edo)城(castle)の北東方面に、1625年に、寛永(kanei)寺と言う、規模の大きな、仏教の寺を創建しました。
寛永(kanei)寺は、現在の、上野(ueno)公園の、ほぼ全域を、敷地面積とした、とても、大きな仏教の寺で、江戸(edo)時代(17世紀から19世紀半ば)において、とても繁栄していました。
1832年に描かれた(歌川広重(utagawa hiroshige)の作品)、寛永(kanei)寺の中心的な建物→
https://www.ndl.go.jp/landmarks/details/detail211.html?sights=kaneiji
しかしながら、上野(ueno)が、戊辰(boshin)戦争(下の補足説明を参照)の主要な戦場の一つとなった為、寛永(kanei)寺は、壊滅的な被害を受け、寛永(kanei)寺の建物の、ほとんどが焼失してしまいました。その後、寛永(kanei)寺の敷地は、とても縮小され、現在は、寛永(kanei)寺の敷地は、上野(ueno)公園の周辺を中心に、約3万坪(9万9千平方m強)となっています。
戊辰(boshin)戦争:1868年から1869年にかけて行われた、明治(meiji)時代(1868年から1912年)の新しい日本の中央政府の軍と、旧(かつての)徳川(tokugawa)幕府(bakufu)(江戸(edo)時代(17世紀から19世紀半ば)における、徳川(tokugawa)将軍(shogun)家による、日本の政府)側の侍(samurai)達の軍による戦争(日本国内の内戦)。明治(meiji)時代の新しい日本の中央政府の勝利に終わる。ちなみに、上野(ueno)が、戊辰(boshin)戦争の戦場となった頃は、徳川(tokugawa)将軍(shogun)家自体は、既に、明治(meiji)時代の新しい日本の中央政府に恭順の意を示しており、戊辰(boshin)戦争に関わっていませんでした。
ちなみに、徳川(tokugawa)将軍(shogun)家は、近代においては(19世紀末から第2次世界大戦後、間も無くまでおいては)、貴族階級に組み入れられ(公爵)となり、日本の上流階級としての地位と富は維持しました。
以下(すぐ下でリンクを付けた投稿)、参考の投稿。
江戸城跡・旧徳川邸他→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_11/view/id/3901679/page/6?&sfl=membername&stx=nnemon2
この展覧会(exhibition)の、特集展示である、上野(ueno)の歴史に関する展示の、パンフレット(booklet)。
写真以下22枚。この展覧会(exhibition)の、特集展示である、上野(ueno)の歴史に関する展示の、展示作品例。
写真以下3枚。寛永(kanei)寺を抽象的に描いた、18世紀後期から1850年頃の作品。桜の、花見(hanami)を楽しむ人々が描かれています。ちなみに、上野(ueno)公園は、現在も、東京の桜の花の名所(有名な場所)の一つとなっています。
以下、「」内。参考に、私の前の投稿文より。。。
「桜の花は、おそらく、日本人に、最も親しまれている花であり、菊(皇室(天皇家)の紋章(emblem)となっている花)と共に、日本の実質的な国家となっている花です(日本には、法定上の国花はありませんが、桜の花は、(菊と共に)慣習上の国花として、昔から、国民達に親しまれて来ました)。日本には、所々に、桜の木が植えられており、春には、日本各地で、所々で、桜の花が咲きます。
花見 (hanami)は、野外で、桜の花を見ながら、酒を飲んだり、食事をしたりする事です。
花見(hanami)は、伝統的に、桜の花の時期の、日本人の娯楽となっています。」
写真以下4枚。寛永(kanei)寺の中心的な建物を描いた1868年の作品です。
パンフレット(booklet)より。
こちらも、戊辰(boshin)戦争で焼失する前の、寛永(kanei)寺の一部を描いた作品。
清水(kiyomizu)寺は、京都(kyoto)にある、778年に創建された、歴史の古い、規模の大きな、仏教の寺です。
清水(kiyomizu)寺は、京都(kyoto)の主要な観光地の一つとなっていると共に、日本の主要な観光地の一つともなっています。
現在の、上野(ueno)公園内にある、清水(kiyomizu)観音堂(kannondo)は、現在残っている、数少ない、戊辰(boshin)戦争よりも前に(江戸(edo)時代に)、建てられた、寛永(kanei)寺の建物の一つで、1631年に、清水(kiyomizu)寺の、本堂(hondo)(寺の、メイン(main)の建物)をイメージして建てられた建物です(清水(kiyomizu)寺の、本堂(hondo)(寺の、メイン(main)の建物)に比べたら、遥かに(ずっと)小さいですが)。
清水(kiyomizu)寺の、本堂(hondo)(寺の、メイン(main)の建物)に関しては、以下の投稿(すぐ下でリンクを付けた投稿)を参照して下さい。
清水(kiyomizu)寺→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_16/view/id/3924363?&sfl=membername&stx=nnemon2
名所江戸百景(One Hundred Famous Views of Edo)は、歌川広重(utagawa hiroshige)(下の補足説明を参照)が、1856年から1858年に制作した、東京の、様々な名所を描いた作品です。
歌川広重(utagawa hiroshige):1797年生まれ。1858年に亡くなる。日本の、代表的な、浮世絵(ukiyoe)(日本の伝統的な、大衆画・大衆版画)画家の一人。
参考に、Japonismeとは、19世紀中期から20世紀初頭にかけて(特に、19世紀の後半に)、フランスを中心とした、西洋の国々(ヨーロッパ及び北米)で、浮世絵(ukiyoe)(日本の伝統的な、大衆画・大衆版画)等の日本文化が流行すると共に、当時の(近代の)ヨーロッパを中心とした西洋の芸術・工芸に強い影響を与えた現象の事を言います。
以下(すぐ下でリンクを付けた投稿)、参考の投稿。
Japonisme他→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_11/view/id/3806140/page/2?&sfl=membername&stx=nnemon2

写真は、借り物。名所江戸百景(One Hundred Famous Views of Edo)より、清水(kiyomizu)観音堂(kannondo)。向こうに見えるのは、不忍(shinobazuno)池。

写真は、借り物。名所江戸百景(One Hundred Famous Views of Edo)より、清水(kiyomizu)観音堂(kannondo)の、月の松。向こうに見えるのは、不忍(shinobazuno)池。
清水(kiyomizu)観音堂(kannondo)に関しては、上でもリンクを付けましたが、以下の投稿(すぐ下でリンクを付けた投稿)を参照して下さい。
清水堂・不忍池他→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_16/view/id/3924676?&sfl=membername&stx=nnemon2
パンフレット(booklet)より。不忍(shinobazuno)池の、弁天(benten)島(右側)を描いた、1830年から1844年頃の作品(歌川広重(utagawa hiroshige)の作品)です。右側に、観光客・行楽客向けの、茶屋(飲食店)が建ち並んでいます。
松坂屋(matsuzakaya)は、1611年創業の、名古屋(nagoya)(東京、大阪に次ぐ、日本第三の都市圏人口を有する都市)に本店を有する(名古屋(nagoya)を拠点とする)、日本の、デパートのチェーン(chain)です。松坂屋(matsuzakaya)は、1768年に、東京に進出しました。

写真は、借り物。名所江戸百景(One Hundred Famous Views of Edo)より。上野(ueno)を描いた作品。写真右側は、松坂屋(matsuzakaya)デパートの、上野(ueno)店の、当時の建物。

写真は、借り物。名所江戸百景(One Hundred Famous Views of Edo)より。上野(ueno)を描いた作品。写真右側は、伊勢屋(iseya)と言う、当時、上野(ueno)に存在していた食堂。
写真以下2枚。パンフレット(booklet)より。
琴(日本の伝統楽器)を弾く女性の後ろに、不忍(shinobazuno)池の、弁天(benten)堂が描かれた作品(1893年)。
上野(ueno)を描いた作品(1893年)。
上野(ueno)公園で、1881年に開催された博覧会(exposition)、第2回内国勧業博覧会(ちなみに、1877年に開催された、第1回内国勧業博覧会も、上野(ueno)公園で開催されました)を描いた作品(1881年)。
写真以下2枚。パンフレット(booklet)より。
不忍(shinobazuno)池で、1884年から1892年にかけて開催されていた、競馬を描いた作品(1884年)。花火からは、パラシュート(parachute)が着けられた、紙製の人形が、ゆっくり落ちて来て、来場者の、土産物(お土産)となりました。
1898年に建てられた、上野(ueno)公園の、西郷 隆盛(saigo takamori)(下の補足説明を参照)の銅像を描いた作品(1899年)。西郷 隆盛(saigo takamori)の銅像は、現在に至るまで、人々に親しまれおり、現在に至るまで、上野(ueno)公園及び上野(ueno)の象徴となっているスポット(場所)の一つです。
西郷
隆盛(saigo
takamori):日本の、有名な政治家・軍人。1828年に、鹿児島(kagoshima)県(九州(kyusyu)(日本の南部)の南部に位置する県)の、下級の侍(samurai)の家に生まれる。出世をし、明治(meiji)時代(1868年から1912年)の新しい日本の中央政府の要職(重要な地位)に就きますが、後に、政府と意見が対立し、政府を離職し、生まれ故郷の、鹿児島(kagoshima)に戻り、鹿児島(kagoshima)で、私立の学校を開校しました。その後、西南戦争(1877年に行われた、日本の政府の軍と、政府に不満を持つ、かつての鹿児島(kagoshima)県の侍(samurai)階級の人々を中心とした軍の戦いで、日本の歴史上で、最後の内戦。政府軍の勝利に終わる)で、反政府軍(政府に不満を持つ、かつての鹿児島(kagoshima)県の侍(samurai)階級の人々を中心とした軍)のリーダー(leader)となり(西郷
隆盛(saigo
takamori)自身は、政府との戦争(軍事による戦い)に乗り気でなかった(積極的ではなかった)が、政府に不満を持つ、かつての鹿児島(kagoshima)県の侍(samurai)階級の人々を中心とした人々の暴走を止められなかったと言った感じです)、西郷
隆盛(saigo
takamori)の軍は、最後は、鹿児島(kagoshima)市(鹿児島(kagoshima)県の中心都市)の山に立てこもり、政府の軍と戦いますが、追い詰められて、自殺をし、49歳で亡くなりました。西南戦争により、日本の政府は、西郷
隆盛(saigo takamori)は、反逆者であると言う立場をとっていましたが、西郷 隆盛(saigo
takamori)の人柄等を好む人々も多く、西郷 隆盛(saigo
takamori)は、人々の間の人気が高かった事から、日本の政府は、1889年に、西郷 隆盛(saigo takamori)を大赦し、西郷
隆盛(saigo takamori)は、反逆者であると言う立場を放棄しました。
上野(ueno)公園で、1907年に開催された博覧会(exposition)、東京勧業博覧会を描いた作品(1907年)。
写真以下2枚。パンフレット(booklet)より。
上野(ueno)公園で、1914年に開催された博覧会(exposition)、東京大正(taisho)博覧会を描いた作品(1914年)。
1926年に建てられた、東京都美術館の初代の建物(1970年代前半まで使われていました。2代目(現在)の建物の開館に伴い、取り壊されました)を描いた作品(1931年)。ちなみに、東京都美術館の、2代目の建物(現在の建物)は、1975年に完成した物です。設計は、(後述する)前川 國男(maekawa kunio)が行いました。
東京都美術館及び、東京都美術館の建物に関しては、以下の投稿(すぐ下でリンクを付けた投稿)を参照して下さい。
東京都美術館→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_16/view/id/3922466?&sfl=membername&stx=nnemon2
上野(ueno)公園にある、国立科学博物館(1877年設立)は、日本の、国立の、科学博物館です。科学に関する、非常に多くの資料を収蔵する博物館で、規模が大きく、見応えのある博物館です。
国立科学博物館の現在の建物は、1931年に建てられた、重厚な近代建築の本館(honkan)(日本館)の建物と、(本館(honkan)(日本館)に接する)現代建築の地球館の建物から成ります(現在の地球館の建物が建てられる前にも、国立科学博物館には、展示の為の建物として、本館(honkan)(現在の日本館)に加えて、本館(honkan)(現在の日本館)に隣接した現代建築の建物(1950年代から1970年代にかけて建てられた複数の建物により構成されていた)がありましたが、現在の地球館の建物が建てられる際に、取り壊されました)。
国立科学博物館の本館(honkan)(現在の日本館)の写真(1931年頃)。国立科学博物館の本館(honkan)(現在の日本館)の建物は、上から見ると、(当時、最新技術の塊の乗り物と考えられていた)飛行機の形になっています。
以下(すぐ下でリンクを付けた投稿)、参考の投稿。
日本の飛行機の歴史他1→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_14/view/id/3890065?&sfl=membername&stx=nnemon2
以下、おまけ。
写真は、借り物。1929年に建てられた、松坂屋(matsuzakaya)デパートの、上野(ueno)店の、現在の建物。1930年代頃の写真。この建物は、現在も、建て替えられてはいませんが、大規模な改装がなされている為、現在、外観に当時の面影はありません。

写真は、借り物。1934年の、松坂屋(matsuzakaya)デパートの、水着の広告。左側の女性は、黒田 記代(kuroda kiyo)(1916年生まれ。1930年代中期から1940年代初め頃にかけて、活躍していた、日本の女優。第二次世界大戦後は、活動が、地味となる)。右側の女性は、忍 節子(shinobu setsuko)(1914年生まれ。1930年代中期から1950年代にかけて活躍していた、日本の女優)。黒田 記代(kuroda kiyo)は、当時18歳、忍 節子(shinobu setsuko)は、当時20歳で、2人共、まだ、女優としてデビュー(debut)して間もない頃。
東京文化会館の建物の一部。東京文化会館は、上野(ueno)公園にある、東京を代表するクラシック音楽(classical music)の公演場の一つです。東京文化会館の建物(1961年完成。前川國男(maekawa kunio)が設計)は、前川國男(maekawa kunio)(下の補足説明を参照)の代表作品の一つです。
前川國男(maekawa
kunio):1905年生まれ、1986年に亡くなる。世界的な(世界最高水準の)建築家と言う程では、ありませんが、日本の有名な建築家の一人であり、日本の第二次世界大戦後の復興期(1950年代から1960年代初期)の、現代建築界をリード(lead)した、建築家の一人です。前川國男(maekawa
kunio)は、他の、日本の第二次世界大戦後の復興期(1950年代から1960年代初期)の、現代建築界をリード(lead)した、日本の有名な建築家達と共に、日本の現代建築設計の水準を、世界最高水準に、引き上げる為の基礎を、1950年代に、固めた建築家の一人です。
東京文化会館について詳しくは、以下の投稿(すぐ下でリンクを付けた投稿)を参照して下さい。
東京文化会館→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_16/view/id/3922465?&sfl=membername&stx=nnemon2
以下の投稿(すぐ下でリンクを付けた投稿)に続く。
歴史のある美術館・美術展他→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_16/view/id/3924673?&sfl=membername&stx=nnemon2