V (356`935)i
신라의 왕은 왜인
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新羅の王は倭人
新羅(356〜935)(今の慶尚北道、慶尚南道に有った国。)
日本では慣用的にしらぎと読む。他にはしら、しんらと呼ぶ。
首都は慶州に有った。
三国史記などでは建国年は紀元57年からになっているが、一般的には356年を建国年とする。前身は、弁韓の斯羅(シラ)と言われている。
新羅王の建国伝説は卵生神話であり、卵から産まれたとなっている。卵が瓠の様であったので朴姓を名乗ったと成っている。四代目王昔脱解も卵生神話をとり、倭国東北一千里にある多婆那国の出身とされる。また、建国時に渡来してきた倭人(瓠公)が重臣となり、金氏新羅の祖である金閼智(アルチ)を拾ってきたと言う伝説がある(以上三国史記より)
初代王は朴氏であり、途中から昔氏、13代以降は金氏に変わる。また女王が立ったこともある。
初期の新羅は、中華的ではないため唐代に中華風に名前を改めるときに姓も含めて変えられた可能¥性がある。
唐と共同して,660年に百済を滅ぼし,667年に高句麗を滅ぼし,676年の唐の半島領土の放棄によって、朝鮮半島をほぼ統一する。唐が滅んで(907年)中国の情勢が悪化すると、新羅も政治的安定を失い後三国時代に突入し,935年に高麗に滅ぼされる。
倭国の東北一千里のところにある多婆那国(丹波国?但馬国?)で、その王が女国(不明)の王女を妻に迎えて王妃とし、妊娠してから7年の後に大きな卵を生んだ。王は王妃に向かって、人でありながら卵を生むというのは不吉であり、卵を捨て去るように言った。しかし王妃は卵を捨てることに忍びず、卵を絹に包んで宝物と一緒に箱に入れて海に流した。やがて箱は金官国(のちの任那日本府比定地)に流れ着いたが、その国の人々は怪しんで箱を引き上げようとはしなかった。箱はさらに流れて、辰韓の阿珍浦(慶尚北道慶州市)の浜辺に打ち上げられた。そこで老婆の手で箱が開けられ、中から一人の男の子が出てきた。このとき、新羅の赫居世居西干の39年(紀元前19年)であったという。老婆がその男の子を育てると、成長するにしたがって風格が優れ、知識が人並みならぬものになった。姓名がわからなかったので、箱が流れ着いたときに鵲(カササギ)がそばにいたことから鵲の字を略して「昔」を姓とし、箱を開いて生まれ出てきたことから「脱解」を名とした、という。長じて第2代南解次次雄5年(8年)にその娘を娶り、10年には大輔の位について軍事・国政を委任された。南解次次雄が死去したときに儒理尼師今に王位を譲られかけたが、「賢者は歯の数が多い」という当時の風説を元に餅を噛んで歯型の数を比べ、儒理尼師今に王位を継がせた。儒理尼師今が57年10月に死去したときには、王(儒理尼師今)の遺命に従って脱解が王位についた。
脱解尼師今(だっかい にしきん、生年不詳 - 80年)は、新羅の第4代の王(在位:57年 - 80年)であり姓は昔(ソ¥ク)、名は脱解。吐解尼師今(とかい にしきん、토해 이사금、トヘ・イサグム)とも記される。
つまり、少なくとも新羅の第4代目の王は倭国の王子が海を渡り新羅の王
となったと言うことです(^^♪
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