序文
古代史にめっちゃくわしい古代史専門家であり、現代史ド素人の ジョンお姉さん が安易に専門外に首を突っ込んだことで、
宇宙の法則!!
が発動し、(byロバート・ジャン・リュック・ピカード・シャヴィエル)
ジョンおねえさん が 『土人』 となってしまいましたので、救済のため説明スレを立てました。
まあ、こんなもんだろ~的に まとめた物に過ぎませんが、
これで少しは現代史の流れを理解していただければ幸いです。
ブリッジより機関室。こちらエンタープライズ艦長ジャング・リュック・ピカードだ。
ラフォージ少佐。トラクタービームで ジョンお姉さん を救出することは可能か?
おやすいご用でw
この二つの言葉を親愛なるジョンお姉さんに贈ります
『門外漢はすっこんでろぃ』
『莫迦の考え休むに似たり』
ああ、宇宙って、怖いねぇ
ww
1.国民国家における愛国心とは
近代国家における愛国心とは、アメリカ独立戦争やフランス革命によって国民国家が成立するときに確立されました。
フランス革命が起こったときに、国家という単位が成立することによって市民に自我が生まれ、明確に他者との区別を付けることによって、自分たちをフランス人だと意識する様になりました。
このような意識は国民全体に均等に行き渡り、国家とは自分たちの物であるという意識が生まれ、そこから愛国心が誕生しました。
また国家の利益と自分たちの利益が一致し、国家の利益が自分たちの利益になる限り、国家のシステムに従うことが、自分の生活を守るという意識。すなわち国家への従属が生まれます。
日本の愛国心: 序説的考察 著者: 佐伯啓思 より引用
『国家と市民社会の関係は二重である。近代社会において、両者は概念として分離する。そして事実上、異なった原理や価値を持つようになる。その結果、表面的には両者は対抗的となるのだが、そもそも対抗関係が成り立つためには、その前提としての「相補性」 が無ければ成らないわけである。この相補性において、「国家」 は「市民社会」 を支える。国家は市民の生命、財産などを保護し社会秩序を維持する。他方で、市民は国家に対して絶えず「契約」を履行する。つまり主権者である国家への義務を果たすことになる。』
さらに、国民の間での価値観の共有により、この国家システムへの従属が広く均等に行われることにより、国家という単位での活動がまとまってきます。
こういった国民の意識と、国民が国家システムに隷属しているという土壌があるからこそ、国民から広く兵を募り強固な近代軍隊を作ることが出来る徴兵制の施行が可能になります。
ちなみに近代以前においては、例えば薩摩藩の領民に藩主が自分たちを守っているという意識はありませんし、また領民の間に(広く均等に)藩が自分たちのものだという意識は存在しないので、近代以前に愛国心成る物は存在しません。
また通常、国家に属する国民全員が最初から均等に同じような意識を持っている訳ではありませんので、まず国家による同化政策というものが行われます。なぜなら強い国家を作るには、国民全員が同じ意識を共有する必要があるからです。
フランスや日本においては異民族に対しても同化策が行われ、日本では沖縄や朝鮮、台湾においても同化政策が行われました。日本語教育をし、社会的なインフラを整えることによって、日本によって自分たちの利益が守られているという意識が生まれ、自分たちが所属しているのは日本だという意識が生まれます。
そのような意識があるので、朝鮮では大規模な独立運動は存在しませんでした。台湾では現地土人の反乱などの混乱もありましたが、それを経ながらも地道にインフラ整備を進めていくことで、自分たちは日本という国家に従属しているという意識が生まれ次第に日本に同化していきました。自分たちが超鮮人や台湾人だという意識が芽生えるよりも日本に同化していったのです。台湾人や超鮮人が日本軍に志願し勇敢に戦った事実がよく知られていますが、このようなことが背景にありました。
参考資料.1
www.k-keiichiro.jp/kuni1-3.html より引用。
引用開始
愛国心の核となるのは、国家観である。つまり、国家とは何かである。
近代的国家観というのは、アメリカ独立戦争やフランス革命によって国民国家が成立するときに確立された。それ以前は、国家という概念そのものが確立されていなかったのである。国家という概念が確立されていないのであるから、必然的に愛国心も存在しない。
国家と言う概念が確立される以前は、愛国心ではなく。愛国心に代わって君主という個人か、一族に対する忠誠心だったのである。
愛国心というのは、国民国家が成立することによって付随的に生じた感情である。そして、国民国家が成立したことに準じて生じた感情だと言う事が重大な意義がある。
国民皆兵による近代的徴兵制度は、フランス革命を端緒としているのがその証である。国民皆兵による徴兵制度には二つの意味がある。一つは、国民が国を自らの力で守ると言う事である。もう一つは、国民が武装するという事である。そして、これが愛国心の本質なのである。即ち、国民が自らの力と意志で国を護ると言う事である。国民が武装すると言う事は、政府が国民の意志に反した時、力でもって排除することが、可能である事をも、意味する。
つまり、国民という概念を土台にして国家という概念が確立されて国民国家は成立する。国民があって国家が成立するのが、国民国家である。それ以前は、国民ではなく、領民か、農奴か、臣民である。彼等は、国家を持たない。故に、国家に従属しているわけではなく。領主に隷属しているのである。
人民が主権を持った時、国民という概念は確立する。そして、国民の範囲を特定し、定義するためには、国家が必要とされる。つまり、国民という概念と国家という概念は、不可分に結びついているのである。
そして、国家は、国民の紐帯なのである。国民は、国家の礎石なのである。それが、国民国家である。故に、国民国家程、愛国心を必要とする。国民国家は、主権在民、主権を国民においている国家である。即ち、基本的に民主主義国である。つまり、民主主義国こそ最も愛国心に支えられている国家なのである。なぜならば、国民国家は、国民の国家に対する忠誠心によって維持されているからである。その国家に対する国民の忠誠心こそ愛国心である。
また、同時に、国民には、国民国家の理念を明らかにする義務がある。建国の理念はその国の国民が担うべきものだからである。国民国家の主権は、他国から与えられるものではない。また、他国が与えられものでもない。なぜならば、主権が国民にあるからである。国家理念が他国から与えられたものであれば、その時点で主権は消滅する。主権が国民にあるか否かの証は手続をもって検証する。
故に、正当な手続をもって民意を反映したところに国民国家は成立する。
ただ、国家は、国民国家のみを指すわけではない。体裁さえ整っていれば、外形的に国家として成立することは可能である。しかし、それは真の国民国家ではない。正統的な意味で国民国家というならば、正当的な手続をもって民意を反映している国を言う。
忠誠を誓う対象として国に取って代わる対象としては、世界、人類、神、祖先、民族、人類、地球、主義主張と言った普遍的存在や観念。主人、国王、親といった個人。家、一族、組織、結社と言った共同体。領土や富と言った物的な実体。また、自分などがある。つまり、何等かの権威、権力を象徴する対象であれば国家に代わりうるのである。
これらは、時として国家を代替として利用する場合がある。例えば個人崇拝を国家への忠誠に結び付けて統制の手段とするような事である。
しかし、それは、方便に過ぎない。「朕は国家なの。」と言った国王がいるが、それは個人崇拝を国家に投影したのにすぎない。
その様な忠誠心は、統制のための手段に過ぎない。愛国心のような本来的な国家を基礎とした感情とは異質なものである。
国家への忠誠を求めるならば、国家の定義が前提となる。愛国心を問う時は、国家の定義が大切であり、確認する必要があるのである。
愛国心というのは、全体主義者や独裁主義者、国家主義、超国家主義、国粋主義者、軍国主義、民族主義者のみに許された感情ではない。むしろ、彼等が愛国心を口にする際は、権力による統制を目的としていて真の愛国心を意味しない場合が多い。
愛国心は、感情である。理屈ではない。故に、愛国心は、率直で、直接的で、直観的な感情の迸りである。それは、国家と国民が一体であるからである。つまり、国民国家が、愛国心の基本である。愛国心は、国家に根ざしていなければならない。
この場合の国家は、国民に基礎とした国家、国民国家を指す。国家権力による一方的な支配形態を指しているわけではない。
国民国家以外の国は、国家への忠誠を求める時のみ愛国心を口にし、鼓舞する。しかし、近代国家が国民を土台と概念である以上、民意を反映しない国家は、本来的な意味で国家とは言えない。それは、権力者に対する忠誠を求めているのに過ぎない。それは愛国心とは言わない。それを愛国心と言うことに欺瞞が既にある。
引用終了
参考資料.2
http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20051206/p1より引用
引用開始
フランス共和国のような「愛国心の形」があることも知っておくべきだと思います。
1789年7月のバスティーユ監獄の襲撃に始まったフランス革命では、同年8月に「人権宣言」(人および市民の権利にかかわる宣言)が制定されています。これによって第一身分、第二身分、第三身分の身分制と諸特権が廃止され、自由で平等な市民による「市民社会」が誕生したのです(参照、ブログ記事『「暴動の炎」はフランス共和国への絶望と希望の相克[3]』
http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20051124)。このような市民社会では、国民が同じ法の下に立つべきなので、法律を制定するプロセスへ市民が参加する権利、つまり「参政権」も平等に保障されなければならないのです。このように政治的、法律的に平等な市民の権利が保障されるのが「国民国家」です。これは決して自民党幹事長の武部氏らが主張するような「王や天皇中心の国家」ではあり得ないのです。
このようなプロセスで成立したフランス共和国では、一市民(一人ひとりの国民)が直接的に国家と結びつく社会が理想とされており、このため「中央集権的な政治体制」が正当化されてきました。これを逆に見れば、国家を構成する単位としての地域(地方)が弱体化される傾向が続いてきたということです。この傾向は、近代国家フランスがライバルのイギリスと覇権を争う歴史の中で必然的に強められてきたものでもあります。フランス革命の流れの中で、一時、ナポレオン帝政が正当化されたのも、このような近代国家フランスの成立事情を知れば、ある程度は理解できるはずです。
このようなフランス「共和派」の伝統が頂点を迎えるのが、1875年に成立した「第三共和制」です。この頃のフランスでは全国的に交通網が整備され、近代国家フランスの市場・経済空間もほぼ出来上がっていました。因みに、マネ(Edouard Manet/1832-1883)の名作『草上の食事』が官設サロンで落選したのが1863年であり、いわゆるこれらサロンの落選画家たちがメンバーとなり第一回「匿名芸術家協会展」がナダールの写真館で開催されたのが1874年で、これが「印象派絵画」の始まりとされていること、また、この展覧会に出品されたモネ(Claude Monet/1840-1926)の『印象、日の出』に因んだ出来事から「印象派絵画」の名が成立したことなどは広く知られているとおりです。
このようにして近代国家の形が出来上がったため、フランス政府は次に精神面でフランス人を完成させようとする、いわゆる「国民統合」の仕事にとりかかります。そして、そのための手段として着想されたのが「教育制度」と「徴兵制度」の整備・充実です。1880年代に、フランスでは初等「公」教育に『義務教育、無料教育、宗教性排除』の原則が導入されます。これによってフランス全土で均質の教育が実施されるようになりました。しかし、このことに対しては、主に地方言語の存続問題などに絡んで反発の動きも芽生えていたのです。また、フランスでは革命いらい「徴兵制」が原則となってきましたが、これを徹底させることにしたのです。フランス国民が徴兵制を支持してきた根本には「自分たち(市民自ら)のことは自分(市民自らの力)で対応する」という「市民革命」を起こした市民たちの確固たる革命の精神が存在するのです。これが、いわゆるフランス共和国型の「愛国心」です。
(中略)
このようなフランス革命以後の歴史を歩んだフランス共和国の大きな特徴を一言で述べるとすれば、それは既述のとおり「中央集権的政治体制」であり、その基盤となるのが共和国の理念である「公共空間」の中で市民の平等を実現する「同化」政策です
しかし、今や、この「同化」政策が移民問題や地域言語問題などとの絡みで異民族や地域文化に対する「抑圧」であったり、異教徒に対する「弾圧」と映ったりすることで問題化しており、それが拡大化する傾向にあります。最近の移民ニ、三世の若者たちによる「暴動」もこの流れで起こったものです。そして、「地域主義の復興」については、1980年代から地域文化の多様性を積極的に評価しようとする動きが目立ち始めています。そこで行われているのが「寛容」と「共生」についてのフランス人自身による再定義です。移民ニ、三世の若者たちによる「暴動」についても、植民地時代のフランスを直視し、それを徹底的に反省することから取り組み直そうとする動きが芽生えています。
引用終了
2.近代国民国家の広がり。パワーバランスから見た愛国心
近代国家における愛国心は広く均等に国民に行き渡りましたので、国としてのポテンシャルをフルに引き出すことが可能となり、非常に強力な軍隊を生み出しました。
国民国家の軍隊であるナポレオン率いるフランス軍はロシアに侵攻する際、まずドイツに侵攻しました。すると、フランス人の国民国家の概念に触れたドイツ人に自分たちはドイツ人だという自我が生じ、ナポレオン軍が敗退した後、自分たちの国家を建設することとなります。
このような事例は第二次世界大戦において日本軍が東南アジアに侵攻した際に、同じアジア人である日本人が東南アジアの原住民の自我を目覚めさせ、戦後の独立に繋がったことなどがあります。
また、欧米国民国家の侵攻を受けた東アジアでは、欧米国民国家への対抗上、自分たちも国民国家になることを試みます。なぜなら相手の強力な軍隊に対抗するにはそれしか方法がなかったからです。
しかしこの試みに成功したのは日本だけで、中国においては国民の自我が生まれず国家のシステムに依存する国民体系を作ることが出来なかったこともあり、失敗してしまいました。
イギリスの植民地であったインドでは、独立運動という形でインド人の自我が芽生えます。自分たちがインド人であるという意識が均等にインド人の間に広がることによってイギリス製品不買運動などの大規模な運動が可能になりました。国民国家であるイギリスに対抗するには、インド人達が自分たちの意識を高め独立を果たし自分たちの国民国家を建設する以外に方法はありませんでした。
これらに見て取れるのは、相手が国民国家である限り、対抗上こちらも国民国家になるしかないというパワーバランスです。日本には封建制度を維持しながら国民国家に対抗するという選択肢はありませんでした。
3.軍隊における体罰
徴兵制度が導入された際、日本各地で徴兵令反対の一揆が起こりました。そのため日本の軍隊は非常に体罰に厳しくなりました。禁止していたのは私的制裁であり、イジメです。
日本の軍隊はいじめを厳しく封じ込めるために度々対策を行っていました。ところが日中戦争が激化するにつれ、軍隊内で私的制裁が横行するようになり、戦争末期には誰も守らなくなってしまいました。
大東亜戦争期の日本陸軍における犯罪及び非行に関する一考察
イ 私的制裁対策
私的制裁については、部隊における教育指導上の参考資料として配布された「支那事變ノ經驗ヨリ觀タル軍紀振作對策」の中においても
「・・・内務班(宿舎内)ハ正常ナラサル小言ヲ受クル場所ト化シ或ハ私的制裁其ノ跡ヲ絶タサル等ノ爲特ニ下級者ハ内務ノ起居ヲ厭ヒ遂ニハ逃亡自さつ者ヲ發生スルニ至リシモノ少シトセス」とし、また「特ニ私的制裁ハ其ノ弊害最モ大ニシテ軍紀ヲ紊リ團結ヲ破リ軍隊ニ於ケル犯罪生起ノ重要原因ヲナシアリ對上官犯ニ就テ之ヲ觀ルモ上官ノ處置ヲ恨ミ私刑ヲ受ケテ俄然之ニ反抗セルモノ少カラサルハ此ノ間ノ事ヲ立證スルモノナリ」とされ、部隊内に私的制裁が横行し、それが自さつ及び軍内犯罪の元凶になっていることが十分に認識されていた。
このような私的制裁を防止するための対策として以前から指導及び参考資料の配布等も行われていたが、対英米戦直前の昭和16(1941)年12月7日、陸軍省は「・・・近時特編部隊ノ增加ニ伴ヒ私的制裁激化ノ傾向ヲ看ルハ寔ニ遺憾ニ堪ヘサル所ナリ」としてあらためて陸軍次官名で「私的制裁絶滅ニ關スル件通牒(陸密第3776號)」4を出し、私的制裁の根絶に乗り出した。同通牒では私的制裁は「軍隊ノ團結ヲ破壞シ対上官犯或ハ逃亡離隊等ノ重ナル動機ヲ釀成シ又軍民離間ノ素因トナルコトニ關シテハ敢ヘテ贅言要セザル所・・・」として、それが軍内犯罪の要因たるのみならず、軍民を離間させる素因になっていることを指摘した。そのうえでまた、時局の進展は軍の負荷する任務を益々加重にし、軍隊は兵力増加に伴う兵員素質の低下、その他一切の悪条件を克服して其の団結親和を強化する必要がいよいよ切迫している情勢に鑑みれば、特に下級幹部の内務指導能力の向上、なかんずく「兵員兵室ニ親炙シテ行フ周密ナル監督指導ヲ透徹セシメ信賞必罰ト相俟ツテ」私的制裁の根絶を期さなければならないとした。しかしながら、私的制裁の根絶は、3年後の昭和19(1944)年8月に出された「軍紀風紀上等要注意事例集(別冊第8號)」では「私的制裁ノ根絶ニ關シテハ昨年十二月内地軍參謀長會同席上陸軍次官ヨリ其弊害ヲ指摘ノ上舊來ノ觀念ヲ一新シテ各級幹部ニ對スル教育指導ヲ適切ニシ且刑懲罰ノ実施ヲ嚴正ナラシメ以テ劃期的ニ弊風ヲ刷新スヘク嚴ニ強調セラレタル處ナルカ其後ニ於テモ猶依然トシテ行ハレアリ・・・」とされ、依然厳しい実情にあった。
昭和19年1月以降4月末までの間に内地部隊(朝鮮、台湾含む)において発生した私的制裁は、犯罪として取り扱い又は問題化したものだけでも陸軍軍人軍属に対するもの152件(被制裁者数:288名)、海軍軍人に対するもの5件(被制裁者数:5名)、常人(民間人)に対するもの33件(被制裁者数:190名)で、合計190件(被制裁者数:483名)にのぼるなど私的制裁を根絶することは出来なかったのである。
http://www.nids.go.jp/publication/senshi/pdf/200703/5.pdf
4.全体主義の出現
全体主義の考え方とは、全体の利益を個人の利益より優先して、国民と国家を一体化することであり、国民の私生活などを積極的又は強制的に国家に従属させることで国民を国家に強制的に従属させました。
こうしたやり方は、国民が国家へ従属しているという意識の低い国で採用されました。例えば専制国家であったロシアや国民意識が低かった中国などがそれに当たります。
ロシアの軍事力は、20世紀はじめの時点で陸軍の規模は平時110万人、戦時450万人であり既にヨーロッパ最大に規模でしたが、共産化することによって第二次世界大戦次に至る頃にはアメリカに並ぶ世界最強の軍隊になりました。中国は国民の意識が低く腐敗などが横行していましたが、共産政権が国を統一し全体主義によって私生活に渡る全てを管理することで強力な軍隊を作り上げる事が出来ました。
朝鮮戦争時、中華人民共和国は成立したばぁかりでしたが、それにも関わらず中国共産党軍はアメリカ軍と互角の戦いをする事が出来ました。
全体主義である共産主義は、衣食住、思想に至るまで国民の生活の全て管理しましたので、国民の自然な意識に頼ることなく強制的に国民を国家に従属させることが出来ました。
ファシズムの起源はまずイタリアという一国家でムッソリーニの指導の下で行われたのが始まりです。ファシズムが採用された国は、イタリア、ドイツ、スペイン、日本など民主主義の歴史が100年に満たないような比較的民主主義が根付いていない国が中心でした。
ファシズムの創始者であるムッソリーニは元々共産党員でしたので、ファシズムは共産主義から派生したと言って良いでしょう。
ファシズムは資本家と労働者を国家と一体化することで強力な国家を生み出しました。ちょうど国家と民間が一緒になった軍産複合体のような形をイメージすると理解しやすいでしょう。
具体的に言うと全体主義の体制や運動は、国家が管理するマスメディアによる網羅的なプロパガンダや、しばしば一党制、計画経済、言論の規制や制限、大規模な監視、国家暴力の広範な使用などによって政治権力を維持しました。
ファシズムは国家と国民と社会システムを一つの生き物のように一体化させることを理想としました。
そのため、それを目的とした政治体制の仕組みなどの変革が行われました。それまでの議会制度などは廃止され、権力を独裁的に一つの党に集中させる一党独裁体制が構築されていきました。
要するに国家と国民と社会的インフラの組織を一体化させる目的で全てが作り替えられたのです。
5.全体主義の出現によるパワーバランスの変化
国民国家をそのまま全体主義化したようなファシズムは、国民国家よりも有力であり、効率に優れていたので、活力があり軍隊も遙かに強力でした。
国民を強制的に国家システムの統合するファシズムの出現は、必然的にそれまでの国民国家の相対的な弱体化を意味しましたので、国民国家では我が国もファシズムを取り入れるべきではないかという議論が極めて広範囲にわたって湧き起こりました。
アメリカにおいて第二次世界大戦の前後には、現実に少数のファシズム団体や政党、ファシズムやナチズムを支持する著名人(チャールズ・リンドバーグなど)たちも出現しました。
wiki より抜粋
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%B7%E3%82%BA%E3%83%A0#.E3.83.95.E3.82.A1.E3.82.B7.E3.82.BA.E3.83.A0.E3.81.A8.E6.A4.8D.E6.B0.91.E5.9C.B0.E7.8B.AC.E7.AB.8B.E9.81.8B.E5.8B.95
第二次世界大戦以前の評価
第二次世界大戦以前は、多くの指導者がファシズムやファシストのリーダーに敬意を払った。ウィンストン・チャーチルは、ムッソリーニは共産主義の脅威からイタリアを防衛するための強力な能力を持っていると主張し、また自由主義のための犠牲の価値を主張して、1937年後半までイタリアのファシスト体制を支援した。パン・アフリカ主義のナショナリストであるマーカス・ガーベイはかつて、彼は最初のファシストであると主張し、ムッソリーニやアドルフ・ヒトラーが下層階級を起源に生まれたという事実を尊敬すると宣言した。アメリカ合衆国大統領のフランクリン・ルーズベルトは、第二次エチオピア戦争でイタリアのエチオピアへの侵略を非難する前に、彼がムッソリーニを示して「賞賛に値する紳士と連絡を保っている」と言った。マハトマ・ガンディーは、ムッソリーニとイタリアに平和の価値を広める試みのため、1931年12月にムッソリーニに会いにイタリアに旅行した。ただしこれらの行動には外交的配慮や儀礼的なものも含まれる。
実際に第二次世界大戦において、フランスはドイツにあっという間に敗北しましたし、イギリスもアメリカやソビエトの助けなしでは敗北は必至だったでしょう。
これはファシズムという国家形態がそれ以前の国民国家よりも遙かに強力であったことを示しています。
また、国民国家体制では、ドイツや日本が第二次世界大戦の負け戦で大量のししゃを出しながらもそれに耐え抜いて最後まで戦い抜くことは到底不可能だったでしょう。
国民国家体制では、せんし者が増えると世論の厭戦気分が高まります。全体主義だったからこそ、大量の犠牲者を出しながらも最後まで戦い抜くことが出来たのでしょう。
6.日本での事例
(1)世界恐慌の発生
ちかごろ安倍政権によるリフレ(リフレーション通貨再膨張)政策が話題になっていますが、戦前の日本においてもデフレが問題となっており、当時世界恐慌に端を発した昭和恐慌の発生を押さえ込むため、蔵相であった高橋是清がそれまでの緊縮財政を改め、日銀による国債の引き受けによるリフレ政策を開始し、金本位制からの離脱を決定しました。
世界的に見ると、、アメリカ、イギリス、日本などの国々で金本位制からの離脱の動きがありました。またアメリカではケインズ政策と呼ばれるニューディール政策を行い、公共投資を通じて積極的に金融緩和を行いました。(戦後にFRBによる国債の償還が行われたようです。逆にイギリスは償還を行わず戦後英国病に陥りました)
これらの国では比較的早期に経済が回復し始めましたが、その中でも日本は一番早く対策を取りましたので、いち早く世界恐慌から立ち直り始めました。
逆に最後まで金本位制に拘ったドイツ、フランスの2カ国は不況に陥り、ドイツでは世界恐慌の不況がナチスの台頭を招きました。
(2)支那事変の勃発
世界恐慌からいち早く立ち直り始めた日本でしたが、間の悪いことにそのタイミングで支那事変が起こってしまいました。そのため間抜けな日本人は中国への侵略が経済の回復をもたらしたと勘違いし、世論は日中戦争を熱狂的に支持するようになります。また満州事変に端を発する先頭で日本軍は日露戦争に匹敵する6万人ものししゃを出しており、心情的にもここで戦争を止めるわけにはいきませんでした。
しかし、満州事変は日本軍が意図的に起こしたものではありません。戦争を仕掛けたのは、日本にが資本を投資したことによって、豊かになった満州を奪い取ろうと考えた蒋介石でした。
蒋介石はドイツが第一次大戦に敗れたため失業してしまったドイツの将軍を顧問として雇い、第一次大戦の教訓を元に要塞を建設し日本軍を迎え撃つ準備をしました。精鋭部隊で構成される中国軍兵士の士気は非常に高かったのです。
そうした状況から戦争に勝てると踏んだ蒋介石は、日本に戦争を仕掛けたのですが、戦争を仕掛けられた日本軍は進化した優れた戦略で6万人のししゃを出しながらもこれを打ち破り、中国の沿岸部を全て占領してしまいました。
中国に持久戦を戦う力はありませんので、自軍に勝ち目がないと判ると否や蒋介石はすぐに講和に持ち込もうとしますが、日本軍は6万人ものししゃを出しているので心情的な理由から講和に応ずることが出来ず、特に戦略もないままに泥沼化した日中戦争に引きずり込まれることと成りました。
そしてその結果、泥沼化した戦争に耐えることの出来る社会構造を作るために、極端な精神論主体の愛国教育が行われることとなりました。
また戦争の泥沼化の影響で軍隊内の規律が乱れ、私的制裁などの体罰や軍隊による犯罪が横行するようになりました。
参考資料1
大東亜戦争期の日本陸軍における犯罪及び非行に関する一考察
http://www.nids.go.jp/publication/senshi/pdf/200703/5.pdf
参考資料2
この戦略の基礎となったのが1930年代における中独合作である。1934年からドイツの中国国民党への投資が続いており、ドイツ製の軍需物資が輸出され、ドイツ軍事顧問団の指導により、大陸沿岸と揚子江には砲台が築かれ、第一次世界大戦型の要塞線「ゼークトライン(チャイニーズヒンデンブルクラインとも)」が上海の西方の非武装地帯に上海停戦協定を違反して盧溝橋事件以前から築かれていた。又、継続的に参謀も派遣され、当時ドイツからの軍事顧問として国民党で働いていたファルケンハウゼンの計画にそって、国民党軍は上海租界を攻撃し、日本軍を要塞線にひきつけようとした。
この作戦は、上海に駐留する日本軍を攻撃により挑発して要塞線で出血を強いる事で、日本国内の対中干渉世論を転換させる事が目的であった。第一次世界大戦で得られた軍事的経験に従えばこれはあまり冒険的でない作戦計画であり、だからこそ蒋介石も採用したと思われる。
中国軍はドイツ製の鉄帽、ドイツ製のモーゼルM98歩兵銃、当時世界一といわれたチェコ製の軽機関銃などを装備し、火力では日本軍をはるかに上回り、第36師、第87師、第88師、教導総隊などはドイツ軍事顧問団の訓練を受けていた。1934年(昭和9年)、上海・南京間の陣地構築が始まり、1936年には陣地構築が急ピッチで進んだ。福山と呉県の間(呉福線)、江陰と無錫の間(錫澄線)、呉淞と竜華の間(淞滬線)、呉県から嘉興を通って乍浦鎮の間(呉福延伸線)にトーチカ群が設置された[2]。
ゼークト大将とファルケンハウゼン中将は戦術だけでなく、戦争指導にまでかかわり、対日敵視政策、対日強硬策を蒋介石に進言した。ファルケンハウゼンは中国の敵は日本が第一、共産党を第二と考え、昭和10年(1935年)10月には、漢口と上海にある租界の日本軍を奇襲することを提案し、昭和11年(1936年)4月には、いまこそ対日開戦のチャンスだと進言した[2]。
ja.wikipedia.org/wiki/第二次上海事変
(3)日中戦争におけるアメリカ、イギリスの対応
アングロサクソンの考え方として、一つの突出した勢力を出現させないために分割統治をするという戦略があります。
一つの強い勢力が現れるとその勢力を抑えるために対抗勢力に肩入れし、肩入れした勢力が強く成りすぎるとまたその対抗勢力に肩入れするというやり方です。
ロシアが強くなると日本に肩入れし、日本が強くなると、蒋介石の中国に肩入れし、ソ連が強くなると戦後の日本に肩入れし、戦後の日本が強くなると中国に肩入れし、中国が強くなると日本に肩入れする ←いまココ
このようなアメリカ、イギリスの戦略により、イギリス、アメリカの援助を受けた蒋介石に対して日本は勝つことが出来ず、戦争は長引き泥沼化の様相を呈しました。
(4)精神主義偏重の愛国教育について
ドイツなどの欧米においては全体主義を取り入れるために、社会構造全体を変革し改造しましたが、日本では社会構造はそのままに、主に精神主義主体の洗脳※(注)を行うことで国民と国家の一体化を図りました。
そのため、第二次世界大戦における日本の体制はファシズムではなく、単に軍国主義であるとされることが多いようです。
これは、理屈としては韓国が韓国軍事政権下の国民を管理するために行った反日教育と同じです。
反日の洗脳教育は国民の不満そらしに大変効果的ですが、長く続けていると、特に理由もないのに反日感情が高まり、反日世論が一人歩きをすることに成ります。
それは韓国大統領が竹島に上陸するなどの世論に迎合した動きをもたらし、国益を損なってしまいます。
要するに洗脳教育によって生じた国民感情の高まりが世論を極端な方向に誘導し、そのことによって国益が損なわれるという弊害が生じてくるわけです。
韓国は反日感情のため日本に距離を置こうとしていますが、その動きが中国への接近をもたらし、日韓併合の前の時代の中国の属国になろうととしていますが、それが果たして韓国の国益に一致するのかは怪しいところです。
これは反日教育が結果的に韓国の選択肢を狭めていると言えるでしょう。
韓国の行く末が心配です。
日本においても、(2)の理由により、もともと戦争支持の世論が強かったのですが、泥沼化した日中戦争を戦うために行われた洗脳※(注)教育の影響もあり、世論は熱狂的に戦争を支持しており歯止めがきかない状態でした。
この様に考えると、日本は洗脳※(注)教育が行われた時点で、既に戦争を止めることも、第二次世界大戦への参戦を止めることも不可能であったと言えるでしょう。
これは、日本が戦争を続ける体制を作るために洗脳※(注)教育をし、その洗脳※(注)教育の結果、日本の世論が不自然に歪められることが、熱狂的に戦争を支持し好戦的になるという結果をもたらし負のスパイラルに陥っているという状態です。
洗脳※(注)教育が日本人に理性的に判断する能力を失わせ、敗戦に導いたと言って良いでしょう。
※(注)
私はこの時期に行われた極端な愛国教育をマインドコントロールではなく洗脳と呼びます。
根拠は、
1.マインドコントロールは何らかの論理体系を与えて特定の方向付けや条件付けを行い、ある思考様式を持たせることを言いますが、日本で行われた愛国教育は精神主義主体であり、そのことが『何らかの論理体系』 ではない。
2.日中戦争が泥沼化して以降軍隊や教育機関において体罰が公然と行われる事となりました。私はこれを洗脳の定義の一つである物理的暴力や精神的圧迫と解釈します。
3.極端な精神論偏重が十年以下の短期間で行われたこと。
洗脳の定義についてwikiでは、『既に成長して主義・思想を持つ人間に働き掛けて、特定の主義・思想に(本人の意思に関わり無く強制的に)変更してしまう場合は洗脳に分類される』 と書いています。
また、ドイツが社会構造の変更を伴う方法でやっと国民と国家を統合することが出来たのに、日本が社会構造をそのままに同じ事が出来たのは、洗脳があったからだとしなければ到底説明することが出来ない。
ドイツは全体主義を作り出すために、論理的な構造改革を行いそれを可能にしたが、日本は精神的な洗脳によって全体主義を可能にした。( 勿論それは日本人のユニークな特質があってこそだが )
そうでなければ、明治時代に日露戦争の講和条件で暴動を起こす程度のまとまりしかなかった日本人が、厳しい総力戦で第二次世界大戦の負け戦を最後まで戦えるはずがない。
これが私が導き出した結論です。
7.大東亜戦争(太平洋戦争)の勃発
ルーズベルトは第二次世界大戦に参戦したいという意志を持っていましたが、アメリカの国民世論はヨーロッパの戦争に比較的無関心であり、参戦できるような状態ではありませんでした。
アメリカはこのような状況下ではある一定のパターンで対応します。それは自作自演の事件を仕掛けることで、国民の被害者意識を呼び覚ますというやり方です。
これが効果的なのは、アメリカ人の心理には根本的に自分たちが迫害されているという被害者意識が刻み込まれているからです。
事例としては、リメンバーアラモ、リメンバーメイン、リメンバーパールハーバー、トンキン湾事件と続きます。
参考資料
http://www.asyura2.com/0406/bd37/msg/286.html
http://ayarin.iza.ne.jp/blog/entry/498190/
http://salsita-latin.cocolog-nifty.com/blog/2006/09/911_353d.html より引用
引用開始
そこで思い出したのが、ちょうど1世紀前に起きた米西戦争のきっかけとなった「メイン号事件」です。当時、スペインの植民地キューバではホセ・マルティ先導による独立運動の機運が高まっていて、政情不安になっていました。そこでアメリカはキューバに住む合衆国市民の保護の名目で軍艦メイン号をキューバの港に停泊させていましたが、ある夜、この船が爆発して乗っていた300人近くのアメリカ人がしぼう、これをスペイン軍の仕業と決め付けた、当時yeallowジャーナリズムと呼ばれたウイリアム・ハースト系の新聞が戦意を煽り立て、戦争へ発展、アメリカはスペインに大勝し、キューバと、同じくスペインの植民地だったフィリピンを事実上自国の植民地とし、さらにどさくさに紛れてハワイまで領土にしてカリブ海から太平洋へと莫大な権益を得ました。しかし、冷静に考えてみると、戦力に劣るスペインが自分から戦争を仕掛けるようなことをするはずが無いことから、これはアメリカ政府の陰謀だったのではないかという見方が、依然、強くあります。このとき、マスコミが使ったことばが「リメンバー メイン」でしたが、そういえば、その50年ほど前にはこんなことがありました。当時メキシコの領土だったテキサスにアメリカ人が次々に入植していましたが、彼らは更なる権利を求めてテキサスのメキシコからの独立を企てました。それをサンタナ大統領率いるメキシコの大軍が鎮圧、最後はアラモの砦に立て籠もるデービッド・クロケット・ジュニア率いる200人余りのアメリカ人が玉砕しました。これをきっかけに「リメンバー アラモ」を合言葉に反撃に転じたアメリカ軍がメキシコ軍を撃破、メキシコシティーまで攻略して、その結果、テキサスからカリフォルニアへと続く広大な土地をメキシコから得ることに成功しましたが、あの時、アメリカはアラモに援軍を差し伸べることが出来たのに、そうせず、クロケット達を見ごろしにしたのではないかという見方もあります。
リメンバーといえば、更に思い出されるのは「リメンバーパールハーバー」ですが、あのときもアメリカ軍は日本が真珠湾を奇襲するという暗号を解読していたのに開戦への口実にするために敢えて何もアクションを起こさなかったという説は、事情通の間ではかなり通説になっていますよね。
9.11に付いては、日本や欧米諸国と違い、アラブの世界では初めから陰謀だという意見が多くあったようです。本当に、出来れば信じたくない話ですが、アメリカという国のこれまでの行動パターンを見てみると、(第一次世界大戦へのアメリカ参戦のきっかけとなったUボートによる客船撃沈事件、ベトナム戦争での攻勢拡大のきっかけとなったトンキン湾事件しかり)あながちデマとも言い切れません。充分に検証が必要だと思います。
引用終了
この時日本はアメリカの謀略にまんまと乗せられてしまいました。6-(4)に書いたように、日本の世論は熱狂的に戦争を支持していましたから、それに逆らうことは出来ませんでした。
洗脳された日本人自身が戦争への道を選び、戦争を戦い、玉砕などの極端な行動を行い、戦争を最後まで戦い抜いたのです。それは洗脳されているとはいえ、日本人自身の選択でもありました。
また、このような状況で日本人がよりましな選択肢を検討し選ぶなどということは期待できず、どだい洗脳された状態では無理な話でした。これは洗脳教育の弊害と言えます。
((つづく))
莫迦の考え休むに似たり