닛코(nikko) 산책&음식 4
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JA
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jlemon
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이하, 「이하, 닛코(nikko) 산책&음식 3으로부터의 계속입니다...」라고 하는 문장까지는, 전회까지의 투고와 거의, 같은 문장입니다.
1년 가깝게 전의 일입니다만, 작년의 12월의 중순에, 그녀와 닛코(nikko)에 놀러 갔다 왔을 때의 물건입니다.
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日光(nikko)散歩&食べ物4
以下、「以下、日光(nikko)散歩&食べ物3からの続きです。。。」と言う文までは、前回までの投稿と、ほとんど、同じ文です。
1年近く前の事ですが、去年の12月の中旬に、彼女と、日光(nikko)に遊びに行って来た時の物です。
日光(nikko)(栃木(tochigi)県(東京圏の北端に位置する県)に位置する)は、箱根(hakone)(東京圏(東京圏の南部を占める県である、神奈川(kanagawa)県)の、南西端部に位置する)と並ぶ、東京近郊を代表するリゾート(resort)地・保養地・観光地・避暑地です。
この時の2日目は、日光(nikko)の東照宮(toshogu)を中心としたareaを散歩しました。ちなみに、日光(nikko)の東照宮(toshogu)を中心としたareaは、子供の頃から、ある程度、訪れています。
日光(nikko)の東照宮(toshogu)を中心としたareaは、東京近郊の、代表的な、観光場所の一つとなっています。
日光(nikko)(栃木(tochigi)県(東京圏の北端に位置する県)に位置する)は、近代以降は、リゾート(resort)地・保養地・避暑地として開発され、現在は、箱根(hakone)(東京圏(東京圏の南部を占める県である、神奈川(kanagawa)県)の、南西端部に位置する)と並ぶ、東京近郊を代表するリゾート(resort)地・保養地・観光地・避暑地となっていますが、日光(nikko)は、古くからの、山岳信仰・修験道(syugendo)(仏教の密教と日本古来の山岳宗教が結びついた宗教)の、霊場(神聖な場所)としての歴史を有する場所であり(修験道(syugendo)の、霊場(神聖な場所)としての歴史は、8世紀頃から。。。)、東京圏を代表する、山岳信仰・修験道(syugendo)(仏教の密教と日本古来の山岳宗教が結びついた宗教)の、霊場(神聖な場所)の一つとなっている場所でもあります。
また、日光(nikko)の東照宮(toshogu)を中心としたareaは、江戸(edo)時代(17世紀から19世紀の半ば)の頃から、大衆・庶民(特に、東京圏に暮らす、大衆・庶民)の、人気の観光場所となっており、日光(nikko)には、 堂者引き(doujyabiki)と言う、17世紀からの歴史を有し、現在も続いている、日光(nikko)の東照宮(toshogu)を中心としたareaを案内する、伝統的な、観光guideの、職業があります(17世紀の頃から、日光(nikko)の東照宮(toshogu)等に、参拝をしに来る、地方領主・侍(samurai)・一般の市民・農民(大衆・庶民等)を相手に、現在で言う、観光guideを行っていた。江戸(edo)時代(17世紀から19世紀の半ば)においては、大衆・庶民は、日光(nikko)の東照宮(toshogu)を中心としたareaは、形式上は参拝目的、実質的には、(現代において、日光(nikko)の東照宮(toshogu)を中心としたareaを訪れる人々と同様に)、観光目的で訪れた人々が多かったと思います)。
現代の日本は、非常に、多くの、伝統的な祭りを受け継ぐ一方で、クリスマスも、ハロウィーン(Halloween)も、楽しい、お祭りとして、日本の文化に取り入れています。この様な、宗教に関係がある、外国の行事さえも、あまり抵抗感がなく、自国の文化に取り入れて、自国に合わせた物にしてしまうと言う、日本人の気質は、個人的には、日本古来の宗教である(日本の、縄文(jomon)時代(約16000年前から2300年前)の、自然崇拝・多神教宗教を起源とする)、神道(Shinto)に関係していると思います。
神道(Shinto)は、多神教の宗教であり、八百万の神がいると言われています(八百万は、実際に、神道(Shinto)に、八百万の神がいると言う意味ではなく、非常に数が多い事の、例え。。。)。神道(Shinto)は、少し極端に言えば、キリスト(Jesus Christ)や釈迦(Buddha)でさえも、神道(Shinto)の神の一つとして受け入れる程の包容力を有する宗教です(キリスト教の人達からすれば、信じられない事かもしれませんが。。。)。
この様な、神道(Shinto)の性質は、逆に言えば、伝統的に、その時々における(その時代における)、権力者等が、自分、又は、自分の先祖を、神道(Shinto)の神として、自分、又は、自分の先祖を祀る、神道(Shinto)の神社(shrine)を創建すれば、それは、それで、成立してしてしまうと言う事も意味します。
東照宮(toshogu)は、徳川 家康(tokugawa ieyasu)(下の補足説明を参照)を祀る、神道(Shinto)の、神社(shrine)です(1617年創立)。日本全国には、30の、東照宮(toshogu)があります(wikiを参考にしました)。
徳川 家康(tokugawa ieyasu):1543年生まれ。1616年に亡くなる。地方の、小さな豪族の家に生まれるが、後に、非常に有力な地方領主となる。17世紀初めに、日本全国の地方領主達の長(leader)となり、以後、19世紀半ばまで、江戸(edo)(現在の東京)を拠点に、日本全国の地方領主達の長(leader)として、日本を実質的に統治する事となる、徳川(tokugawa)家(徳川(tokugawa)将軍(shogun)家)の、基礎を作った。
ちなみに、徳川 家康(tokugawa ieyasu)は、日本の歴史上で、最も有名、且つ、最も有力な権力者の一人ですが、徳川 家康(tokugawa ieyasu)を祀る、神社(shrine)である、東照宮(toshogu)の、神社(shrine)の数(日本全国で、30)と言うのは、日本全国の、神道(Shinto)の神社(shrine)の数に比べれば、一人の人間に対する、蚤(flea)、一匹程の存在でしかありませんw。前述の通り、神道(Shinto)には、非常に、多くの神が、存在し、日本全国には、神道(Shinto)の神社(shrine)は、登録されている物だけでも、約8万(約80,000)あります(登録されていない物も、含めると、これよりも、数は、ずっと(遥かに)、多くなると思います)。ちなみに、日本には、仏教の寺も、多く、日本全国で、仏教の寺は、約7万7千(約77,000)あります。アメリカや西ヨーロッパの国々では、どの街でも、少なくとも一つの、キリスト教の教会があると思いますが、それと同様に、日本では、どの街にも、一般的には、少なくとも、1つの、神道(Shinto)の神社(shrine)又は、仏教の寺、もしくは両方が存在します。こうした、神道(Shinto)の神社(shrine)と仏教の寺、(特に、神道(Shinto)の神社(shrine))は、宗教と言うよりも、生活文化として、街の人々の生活の中に自然と溶け込んでいます。もちろん、東京都心部の、私の街にも、神道(Shinto)の神社(shrine)も、仏教の寺も、存在します。
以下、日光(nikko)散歩&食べ物3からの続きです。。。
以下、この時の、2日目(以下、この日と書きます)の続きで、日光(nikko)の東照宮(toshogu)を中心としたareaの散歩の続きです。写真の一部は、逆光の(写真を撮る方向から太陽の光が来た)関係で、白んでしまって(白っぽくなってしまって)、済みません。なお、日光(nikko)の東照宮(toshogu)については、前回、及び、前々回の投稿を、参照して下さい。
日光(nikko)の東照宮(toshogu)、及び、その周辺(日光(nikko)の東照宮(toshogu)を中心としたarea)は、大きな木が、とても多く、最も、大きな水準の木になると、60m程の高さ(ビルで言うと、15階から20階位の高さ)に達します(日光(nikko)の東照宮(toshogu)を中心としたareaの、大きな木の中でも、さらに、比較的、大きな水準の木の高さは、おそらく、韓国の、都市や郊外で、よく見られる、15階建てから22階建て程度の、アパートの、最上階位の高さに達します)。
写真以下28枚。日光(nikko)二荒山(futarasan)神社(shrine)。日光(nikko)の東照宮(toshogu)の周辺にある、767年創建の、歴史の古い、神道の、神社(shrine)で、主として、日光(nikko)の山を、神として祀る、神道(Shinto)の、神社(shrine)です。日光(nikko)二荒山(futarasan)神社(shrine)の、現在の、主要な建物は、主として、17世紀に建てられた物で、中心となる建物である、本殿(honden)・拝殿(haiden)は、1619年に建てられた物です。恋愛の、運(幸運)を上昇させる(参拝すると(訪れると)、恋愛に関する、願いが叶う・素敵な男性に巡り合う(出会う)事が出来る)、神社(shrine)と言う事で、若い女性に、人気が高い、神社(shrine)です。
写真以下2枚。日光(nikko)二荒山(futarasan)神社(shrine)に展示してある、日本刀(nihontou)(日本の、伝統的な、刀(sword))で、14世紀に制作され、日光(nikko)二荒山(futarasan)神社(shrine)に奉納された、太郎丸(taroumaru)と言う名前の、宝刀(名前が付けられる程の、名品の、日本刀(nihontou)(日本の、伝統的な、刀(sword))です。日本刀(nihontou)(日本の、伝統的な、刀(sword))は、世界の、伝統的な、剣・刀(sword)の中で、最も、切れ味の鋭い(よく、切れる・性能が良い)、剣・刀(sword)とも言われています。日本刀(nihontou)(日本の、伝統的な、刀(sword))は、武器としての役割の他に(武器として、性能が良いだけでなく)、古くから、美しい姿に、象徴的な意味が持たされて来ました(wikiより。。。)。
写真以下45枚。輪王(rinnou)寺(ji)大猷院(daiyuuin)。日光(nikko)の東照宮(toshogu)の周辺にある、徳川 家光(tokugawa iemitsu)(下の補足説明参照)の、墓(tomb)です。輪王(rinnou)寺(ji)大猷院(daiyuuin)(徳川 家光(tokugawa iemitsu)の墓(tomb))は、墓(tomb)としては、日光(nikko)の東照宮(toshogu)の境内(敷地内)にある、徳川 家康(tokugawa ieyasu)の墓(tomb)(前回の、投稿参照)よりも、立派です。ただし、日光(nikko)の東照宮(toshogu)の全体を、徳川 家康(tokugawa ieyasu)の墓(tomb)として考える場合には、徳川 家光(tokugawa iemitsu)の墓(tomb)(輪王(rinnou)寺(ji)大猷院(daiyuuin))よりも、徳川 家康(tokugawa ieyasu)の墓(tomb)(日光(nikko)の東照宮(toshogu))の方が、遥かに(ずっと)立派です。
徳川 家光(tokugawa iemitsu):1604年生まれ。1651年に、病気により、46歳で亡くなる。徳川 家康(tokugawa ieyasu)の孫。徳川(tokugawa)家(徳川(tokugawa)将軍(shogun)家)の当主として、1623年から1651年まで、日本全国の地方領主達の長(leader)として、日本を実質的に統治した。
ちなみに、徳川 家光(tokugawa iemitsu)は、1635年から1636年にかけて、日光(nikko)の東照宮(toshogu)の大規模な整備を行い、日光(nikko)の東照宮(toshogu)(前回、及び、前々回の投稿を参照)を、ほぼ、現在の形(ほぼ、現在の姿)に、整えました(日光(nikko)の東照宮(toshogu)の、現在の建物の、ほとんどが、1635年から1636年に、建てられた物であるのは、その為です)。
写真以下45枚。輪王(rinnou)寺(ji)大猷院(daiyuuin)(徳川 家光(tokugawa iemitsu)の墓(tomb))。輪王(rinnou)寺(ji)大猷院(daiyuuin)は、1653年に整備された物で、建物は、1653年建てられた物です(建物は、1653年に整備された、当時からの物です)。
写真右側の門は、この時、保存・修理中でした(この時、保存・修理中である事を知らないで、訪れました、調べてから、訪れれば、良かったです)。
写真以下4枚は、輪王(rinnou)寺(ji)大猷院(daiyuuin)の、パンフレット(leaflet)より。。。
写真左下は、徳川 家光(tokugawa iemitsu)の鎧(armour)で、祖父である、徳川 家康(tokugawa ieyasu)から贈られた物です。写真右下の、天蓋(天井の装飾)は、徳川 家光(tokugawa iemitsu)の、5人いた養女(女性の養子)の一人である、清泰院(seitaiin)が、輪王(rinnouji)寺(ji)大猷院(daiyuuin)に寄進した物です。
この、石造りの建物は、鍋島 勝茂(nabeshima katsushige)(下の補足説明参照)が、寄進した物です。
鍋島 勝茂(nabeshima katsushige):1580年生まれ。1657年に亡くなる。現在の、佐賀(saga)県(九州(kyusyu)(日本の南部)に位置する県の一つ))に該当する地域を、統治していた、地方領主。
ちなみに、江戸(edo)時代(17世紀から19世紀半ばにおいて)、江戸(edo)(現在の東京)を拠点に、日本全国の地方領主達の長(leader)として、日本を実質的に統治していた、徳川(tokugawa)家(徳川(tokugawa)将軍(shogun)家)は、日本の、封建制時代(19世紀中期以前の)の地方領主達と同様に、近代以降は(19世紀後期以降は)、広大な、城(castle)等は、失ったものの、多くの、日本の、封建制時代(19世紀中期以前の)の地方領主達と同様に、貴族階級に組み入れられ、近代社会(19世紀末から第2次世界大戦後、間も無くまで)においても、日本の上流階級としての地位と富は、維持しました(ちなみに、徳川(tokugawa)家(徳川(tokugawa)将軍(shogun)家)は、近代以降は(19世紀後期以降は)、貴族の中で、もっとも高い位である、公爵となりました)。
写真以下。日光(nikko)の市街地を、散歩。日光(nikko)の市街地には、19世紀から1930年代頃に建てられたと思われる、古い建物が、割と多く、残っています。この時、日光(nikko)の市街地で、適当に目に付いた、肉店で、手作りの、ハム(ham)や、ソーセージ(sausage)を買って行ったら、中々、美味しかった記憶があります。
写真以下3枚。向こうに見える、建物は、金谷(kanaya)ホテルの建物です。金谷(kanaya)ホテル(1873年開業)は、日光(nikko)を代表する、歴史のある高級リゾート(resort)ホテルです。
写真以下2枚は、元(かつての)、大名(daimyo)ホテルの建物です。1919年に、高級リゾート(resort)ホテル、大名(daimyo)ホテルとして開業する予定で建てられた建物ですが、資金繰りの悪化により、結局、ホテルは、開業せず、建物は、日本の企業(古河(furukawa)電気工業。おそらく、古河(furukawa)電気工業の、日光(nikko)電気精銅所で働く社員の為の、社員寮として使われた)の所有を経て(途中、一時期(第二次世界大戦後間もなくの頃)、連合国軍(実質的には、アメリカ軍)に接収され、連合国軍(実質的には、アメリカ軍)の将校等の、社交所・保養所として使用されました)、(古河(furukawa)電気工業より)、日光(nikko)市に寄付され、1950年代前半より、日光(nikko)市の、市庁舎として使われる様になりました(現在は、この建物は、日光(nikko)市の市役所の出張所の建物として使われています)。
写真以下15枚。この日の昼食は、日光(nikko)の市街地で、適当に目に付いて入った、おそらく、古い(おそらく、1930年代以前に建てられた)、商店(店舗)、又は、住宅の建物を改装した、日本料理食堂で食べました。この食堂は、この時、初めて利用しました。この食堂は、良い印象の店で、今後、日光(nikko)で、お気に入りの食堂となる可能性のある、食堂です。
写真以下10枚。この食堂で食べた、この日の昼食。
写真以下8枚は、全て、一人、一皿ずつです(写真は、一人分)。
写真以下2枚。デザート(dessert)。
私が食べた、デザート(dessert)。
(彼女が)少し食べてしまってから、撮影しましたが、彼女が食べた、デザート(dessert)。
ちなみに、私は、日光(nikko)に、遊びに行く時は、通常、電車を使って行きます。この時も、電車(東京都心部と、日光(nikko)を結ぶ、特急電車(express))を使って、日光(nikko)に遊びに行きました。
この日の夕食は、日光(nikko)から、東京都心部の、我が家に帰って来て、我が家で、一息ついてから(少し、休んでから)、たまに利用する、私の街の、蕎麦と、うどんの食堂で、軽く済ませました(軽く、食べました)。この日の夕食については、前回の投稿を、参照して下さい。
写真以下2枚。この時、私達が、日光(nikko)で、宿泊した温泉旅館(「日光(nikko)散歩&食べ物1」を、参照して下さい)がくれた、又は、この時、私達が、日光(nikko)で、宿泊した温泉旅館に置いてあった、(日光(nikko)が属する)栃木(tochigi)県(東京圏の、北端に位置する県)の、観光パンフレット(leaflet)・観光案内。
日光(nikko)散歩&食べ物、終わり。。。
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