몇일전에 KJ로 내건 문장을 제공하자.
오사카의 사카이에 갔을 때에 만든 스레.
계에는 세계 제일 크다고 말해지는 닌토쿠 천황모퉁이를 시작으로 하는 거대 고분의 집중지.
그래서, 고대의 역사를 되돌아 보자.
이번 테마는「천황가는 (쿠다라)백제의 자손」라고 하는 한국인이 믿었지만은 있는, 그실태.
한국인이 천황의 조상은 (쿠다라)백제왕이라고 믿고 있는 것이지만, 실은 (쿠다라)백제의 왕족이라고 해도 2개 있다.
하나는 (쿠다라)백제의 무령왕의 자손.
(쿠다라)백제왕개로왕이 제고기를 야마토에 인질로서 보냈지만, 도중에서 태어난 아이가 무령왕.카카라섬에서 태어났으므로 시마왕(사마왕)과 별명이 붙어 있었다.
개로는 그 아이를 (쿠다라)백제에 돌려 보내라고 명했다고 하지만, 40세에 무령왕이 될 때까지의 뚜렷한 기록이 없다.
무녕은 태어난 직후에 (쿠다라)백제로 돌아왔는지, 혹은 아버지와 함께 다이와까지 가서, 아이(속일본기에 말하는 순陁왕)를 낳은 후에 (쿠다라)백제로 돌아왔는지가 확실치 않다.
한국인이 믿는 것은 당연히 후자의 일본에서 자란 아이의 분인 것이다.
또 하나는 당에 져 멸망한 (쿠다라)백제를 재흥 하기 위해서 야마토가 군대를 보냈지만, 백촌강의 싸움으로 당신라 연합군에 깨져 왕족은 고구려에 도망쳤다.
그 때에 일본에도 탈출한 선대의 신하에게 천황이 주었던 것이「(쿠다라)백제왕」라는 이름.
이 혈통은 지금도 (쿠다라)백제 신사의 제주의 집으로서 계속 된다.
(쿠다라)백제라고 하는 성을 가지는 일본인이 도쿄에 살고 있지만, 그 혈통은 이쪽 쪽으로 백촌강의 싸움의 선대의 신하「(쿠다라)백제왕」일 것이다.
그런데, 고지기와 일본서기도 기술이(증거가 없으니까) 이상하다고 지적되면서도 고고학상의 발견으로 기술이 죄다 올바른 일이 증명되고 있으므로, 속일본기도 믿기로 한다.
그렇게 되면, 사마왕(무령왕)인 분을 믿는 것이다.
속일본기로부터 생각하면, 사마왕은 (쿠다라)백제로 돌아와 무령왕이 되었지만, 사마왕인 아이는 순陁왕과 이름을 붙일 수 있어 그 후도 야마토에 머물었다.
무슨대도 계속해 일본인 귀족과 결혼해 귀화 씨족이 되어 귀족계급으로서 계속 되는 것이다.
4대째는「화」라고 하는 성을 천황으로부터 받은 것으로부터 생각하면 그 이전은 여씨라고 하는 성이었던 괄.
그 화씨 6대 손자가 황족 시라카베오의 아내에게 출세해, 시라카베오는 후에 고닌 덴노로 취임하지만, 시라카베오 시대에 낳은 아이가 후의 간무 천황이 된다.
어쨌든 때의 천황으로부터 화라고 하는 매우성을 내려 주시거나 자손은 10대 손자는 황족의 아내가 될 수 있었으니까, 역시 야마토는 (쿠다라)백제를 정말로 동지로서 다루고 있었다, 라고 재확인.
그러고 보면, 당에 진 (쿠다라)백제의 장군「흑엽」씨, 당에 청해져 당의 장군으로도 되었지만, 중국에 남는 무덤에 기록된 이름은 소가라고 하는 성이라고 하는 대발견이 있었다.이것은 고대 일본의 중심 귀족의 성.
재차 말하지만, 야마토는 (쿠다라)백제를 소중히 하고 있었어.
jjangggae를 위해서
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JA
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omosiro
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jjangggaeのために
数日前にKJに掲げた文を提供しよう。
大阪の堺に行ったときに作ったスレ。
堺には世界一大きいといわれる仁徳天皇稜をはじめとする巨大古墳の集中地。
そんなわけで、古代の歴史を振り返ろう。
今回のテーマは「天皇家は百済の子孫」という韓国人が信じたがっている、その実態。
韓国人が天皇の祖先は百済王と信じているわけだが、実は百済の王族といっても2つある。
ひとつは百済の武寧王の子孫。
百済王蓋鹵王が弟昆伎を倭に人質として差し出したが、道中で生まれた子が武寧王。カカラ島で生まれたので嶋王(斯摩王)と別名が付いていた。
蓋鹵はその子を百済に送り返せと命じたそうだが、40歳で武寧王になるまでのはっきりした記録がない。
武寧は生まれた直後に百済に戻ったか、あるいは父と一緒に大和まで行って、子供(続日本記にいう純陁王)を生んだ後に百済に戻ったのかがはっきりしない。
韓国人が信じるのは当然後者の日本で育った子供の方であるわけだ。
もうひとつは唐に負けて滅んだ百済を再興するために倭が軍隊を差し向けたが、白村江の戦いで唐新羅連合軍に破れ、王族は高句麗に逃げた。
その際に日本にも脱出した遺臣に天皇が与えたのが「百済王」という名前。
この血統は今も百済神社の神主の家として続く。
百済という姓を持つ日本人が東京に住んでいるが、その血筋はこちらのほうで白村江の戦いの遺臣「百済王」であろう。
さて、記紀も記述が(証拠がないから)怪しいと指摘されながらも考古学上の発見で記述がことごとく正しいことが証明されているので、続日本記も信じることにする。
となると、斯摩王(武寧王のこと)の方を信じるわけだ。
続日本記から考えれば、斯摩王は百済に戻り武寧王になったが、斯摩王の子は純陁王と名前を付けられ、その後も倭に留まった。
何代も続けて日本人貴族と結婚し帰化氏族となり貴族階級として続くわけだ。
4代目は「和」という姓を天皇からもらったことから考えるとそれ以前は余氏という姓だった筈。
その和氏6代孫が皇族白壁王の妻に出世し、白壁王は後に光仁天皇に就任するのだが、白壁王時代に産んだ子が後の桓武天皇になる。
とにかく時の天皇から和というたいそうな姓を授かったり、子孫は10台孫は皇族の妻になれたのだから、やはり倭は百済を本当に盟友としてあつかっていたんだなぁ、と再確認。
そういえば、唐に敗れた百済の将軍「黒葉」氏、唐に請われて唐の将軍にもなったのだが、中国に残る墓に記された名前は蘇我という姓という大発見があった。これは古代日本の中心貴族の姓。
再度いうけど、倭は百済を大事にしてたんだなぁ。
大阪の堺に行ったときに作ったスレ。
堺には世界一大きいといわれる仁徳天皇稜をはじめとする巨大古墳の集中地。
そんなわけで、古代の歴史を振り返ろう。
今回のテーマは「天皇家は百済の子孫」という韓国人が信じたがっている、その実態。
韓国人が天皇の祖先は百済王と信じているわけだが、実は百済の王族といっても2つある。
ひとつは百済の武寧王の子孫。
百済王蓋鹵王が弟昆伎を倭に人質として差し出したが、道中で生まれた子が武寧王。カカラ島で生まれたので嶋王(斯摩王)と別名が付いていた。
蓋鹵はその子を百済に送り返せと命じたそうだが、40歳で武寧王になるまでのはっきりした記録がない。
武寧は生まれた直後に百済に戻ったか、あるいは父と一緒に大和まで行って、子供(続日本記にいう純陁王)を生んだ後に百済に戻ったのかがはっきりしない。
韓国人が信じるのは当然後者の日本で育った子供の方であるわけだ。
もうひとつは唐に負けて滅んだ百済を再興するために倭が軍隊を差し向けたが、白村江の戦いで唐新羅連合軍に破れ、王族は高句麗に逃げた。
その際に日本にも脱出した遺臣に天皇が与えたのが「百済王」という名前。
この血統は今も百済神社の神主の家として続く。
百済という姓を持つ日本人が東京に住んでいるが、その血筋はこちらのほうで白村江の戦いの遺臣「百済王」であろう。
さて、記紀も記述が(証拠がないから)怪しいと指摘されながらも考古学上の発見で記述がことごとく正しいことが証明されているので、続日本記も信じることにする。
となると、斯摩王(武寧王のこと)の方を信じるわけだ。
続日本記から考えれば、斯摩王は百済に戻り武寧王になったが、斯摩王の子は純陁王と名前を付けられ、その後も倭に留まった。
何代も続けて日本人貴族と結婚し帰化氏族となり貴族階級として続くわけだ。
4代目は「和」という姓を天皇からもらったことから考えるとそれ以前は余氏という姓だった筈。
その和氏6代孫が皇族白壁王の妻に出世し、白壁王は後に光仁天皇に就任するのだが、白壁王時代に産んだ子が後の桓武天皇になる。
とにかく時の天皇から和というたいそうな姓を授かったり、子孫は10台孫は皇族の妻になれたのだから、やはり倭は百済を本当に盟友としてあつかっていたんだなぁ、と再確認。
そういえば、唐に敗れた百済の将軍「黒葉」氏、唐に請われて唐の将軍にもなったのだが、中国に残る墓に記された名前は蘇我という姓という大発見があった。これは古代日本の中心貴族の姓。
再度いうけど、倭は百済を大事にしてたんだなぁ。
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