수서에 의한608년경의 상황
①모두
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수서에 의한608년경의 상황
①모두
隋書による608年頃の状況
①みな俀を以て大国にして珍物多し
日本を大国と認識し、5世紀においても文化先進国だった
②並びにこれを敬い仰ぎ
文化先進国日本を尊敬していた
③使いを通わせていた
先進文化を吸収するため、使者を使わしていた
④倭人が鉄を使用していた
日本では砂鉄しかなかったため、朝鮮南部を日本領土とし鉄鉱石を採取していた
宋 祁(そう き、998年 - 1061年・北宋の史学家)の『新書』には「東南は日本であり、西は百済、北は高句麗で、南の濱は海である」と述べている。
『隋書』 [編集] 本文 [編集]「卷八十一 列傳第四十六 東夷 俀國」に、
「男女多黥臂點面文身 没水捕魚」
男女多く臂(うで・ひじ)に黥(げい)す。黥面文身して、水に没して魚を捕る
とある。これは608年の隋使裴清(裴世清)の一行の見聞や観察を基礎にしたもので、7世紀初頭の倭人社会についての貴重な資料である。また、
「新羅 百濟皆以俀爲大國 多珎物並敬仰之 恒通使往來」
新羅・百濟は、みな俀を以て大国にして珍物多しとなし。並びにこれを敬い仰ぎて、恒に使いを通わせ往来すとあり、百済、新羅が、日本(倭)を尊敬して仰いでいたとし、使いを通わせていた記述が存在する。また、倭人が鉄を使用していたという記述がある。
「大業三年 其王多利思北孤遣使朝貢使者曰 聞海西菩薩天子重興佛法 故遣朝拜 兼沙門數十人來學佛法」
大業三年,其の王多利思北孤,使いを遣わして朝貢す。使者曰く『海西の菩薩天子重ねて仏法を興すと聞く。故に遣わして朝拝せしめ,兼ねて沙門数十人来りて仏法を学ぶ。』と。
俀の王からの使者が来て、隋を訪問した目的を述べたことが記述されている。ここでは「海西の天子は、重ねて(熱心に)仏法を起こしていると聞いた。そのため沙門(僧侶)を送って仏法を学ぶために来たのだ」と述べている。
海西の菩薩天子とは、海の西の方の天子、すなわち、開皇11年(591年)菩薩戒により総持菩薩となった煬帝を指している。そして、この一節の直後に有名な「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」の記述が続いている。
『隋書』東夷傳の倭の条 [編集]「九夷所居、與中夏懸隔、然天性柔順」
倭は・・・九夷の居るとこである。・・・その天性は柔順である。
書や記事について [編集]魏徴(ぎちょう)の7世紀後半撰。二十四史の一つ。
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