仏像をつくる職人、仏師。
国中 公麻呂 (くになか の きみまろ、生年不詳 - 宝亀5年10月3日(774年11月11日))は、奈良時代の仏師。氏姓は国(無姓)のち国中連。名は君麻呂・公万呂とも記される。百済系渡来人である完了(徳率)・国骨富の孫とされる。官位は従四位下・造東大寺次官。
祖父・国骨富は徳率の位にまで昇った百済の高官であったが、天智天皇2年(663年)白村江の戦い後まもなく百済が滅亡したため日本に帰化した。
確実な公麻呂作品は存在しないが、東大寺の大仏、戒壇院四天王、法華堂の諸造や、新薬師寺十二神将が公麻呂作品と推定されている。
七条大宮仏所、六条万里小路仏所を形成した。祖は、定朝の孫とされる院助。
鎌倉時代、新様式と言う点では慶派の作品が目立つが、記録によると貴族の世界では院派、ついで円派の仏師が前代からの基盤を受け継いで活躍した。ただし、旧来の伝統を引いて、仏像に銘記を施す事例が慶派に比べて圧倒的に少なく、仏師個人の作例を追っていくことは出来ない。
14世紀に入ると、真言律宗との関わりが生まれ、律宗が東国に教線を伸ばすのに従い、院派も東国へ進出した。南北朝時代に入ると、室町幕府といち早く結びついた。院吉は、等持院大仏師職と丹波国国分寺地頭職を安堵され、その子院広はそれを継いで広範に活躍した。
彼らの作風は、「唐様」とも言うべき独特の形式美をもつもので、他派や後世に少なからぬ影響を与えた。
中世
近代以降