トラック諸島(現チューク諸島)の各島より選出された力士達。主催のトラック支庁長(中央白服)と一緒に記念撮影。
各島の代表の青年達による、熱い戦いが行われた。
月曜島(チューク諸島・現ウドット島)の教会前で少女達と。
パラオ
コロール公学校卒業式
パラウで経営される料亭「徳乃屋」で元旦を祝う。
日本が30年間統治したパラオ電気を引き、道路を舗装し、工場を作りパラオの近代化に貢献した日本。その日本統治のあとに米国がきた。彼らがやったことは発電所を壊し道路の舗装を剥がすことだった。
「まるで日本の存在をすべて消すための作業に見えた」実際「日本は侵略国で悪い国」だと教えられ、首都コロールと本島を結ぶ橋も米国の発注で韓国企業が建
設した。ところが数年前、その橋の中央がへこんできた。調べてみたら同じ頃ソウルの聖水大橋が落ちて何十人かが死んだ。それが実は同じ企業の施工だとわかった。困ったパラオが日本に助けを求め、日本の総額30億円のODAが決まった。
「また日本がやってくる。もう橋は落ちない」と大喜びだった。
全長400メートルの橋が完成したのは1月。その後5月に下関で開かれた国際捕鯨委員会にパラオが初めて代表を送り、日本の味方になってくれた。50年間統治した米国よりこの国は日本を選んだ。
2002年8月1日号 週刊新潮 P154 「変見自在」
※KBブリッジ
コロール島(Koror I.)とバベルダオップ島を結ぶ橋
韓国の建築会社が製作したが建築当時から「あれはいつか落ちる」と地元の人は危惧していた。1996年9月に崩壊しパラオを大混乱に陥れた。水道管とコ ロール島の半分に供給するための電線が通っていたため国民生活は危機に陥り,ナカムラ大統領は国家非常事態宣言を発する事態となった。
http://www.palau.net/life.html
パラオは1914年から1944年まで日本の支配下にあった。60歳以上のパラオ人の多くは日本語ができる。日本に支配され、日本軍と連合軍との間で激しい戦闘がこの地で行われたにもかかわらず、パラオは日本との友好関係を維持している。
ナカムラ大統領は、「規律と年長者への敬意とを重視する日本人の価値観は、パラオ人の価値観と適合する」と語った。
【コメント】パラオ国大統領の親日的発言を伝えた記事である。「日本に支配されたにもかかわらず」親日的であるというのは、執筆した記者の見解である。ナカムラ大統領の言には日本の統治を非難する響きはない。
なお、「日本とパラオの心を結ぶ会」の手になる英文小冊子(一部英和対訳)『パラオと日本の友好よ永遠なれ』(展転社、1997年)の中で、日本統治時代を知る現地人の次のような話が紹介されている。
「日本時代はオール・グッド(皆よい)でした。日本の皆さんは、我々といっしょに汗を流して働き、勤勉の徳を教えてくださいました。砂糖キビや米の作り方を教えられ、生産することの喜びを知りました。
スペインやドイツの植民地時代とは違って心が通じました。自然に日本人の生活態度を学び、子供たちは親孝行になり、治安がよくて泥棒がいませんでした」
日本はたくさんの移民をこの地に送り、産業、教育、文化の発展に大きな功績を残した。第二次世界大戦後、この地域を占領したアメリカは、日本文化の影響を徹底的に破壊した。南洋神社は取りつぶされた。校庭の二宮金次郎の銅像は引きずり降ろされた。
しかし、パラオ人は、心の中では勤勉の精神を教えてくれた日本人を敬い、日本統治時代を懐かしんでいる。その証拠にパラオ人の8割は、その姓名のどちらかをに、日本式の名前を付けている。(中略)
1994年、パラオはアメリカから独立した。独立にあたり国旗を制定することになり、国民の間から一般公募した結果、日の丸を真似た今のデザインに決まったというわけである。ただし、パラオの国旗の満月は、日の丸の旗の太陽とは違って、中心からすこしズレている。
日本に失礼だからと、わざと中心をはずしたのだそうだ。これはパラオの人たちの慎み深い態度をよく表している。

パラオの国旗は、日の丸は侵略のシンボルではないこと、かつて日本の統治下にあった国で、日本の日の丸を模した国旗がつくられるほど、戦前の日本と日本人はアジアの人たちから尊敬されていたことを教える実物教材である。
ペリリュー神社と米公刊戦史の詩文
ここで特筆しておかねばならないことがあります。ペリリュー島には、それまで現地住民が住んでいました。島民は白人の統治と日本時代を身をもって経験して いるので、大人も子供も、日本軍と一緒に戦う決意を持っていました。しかし日本軍としては、住民を戦火に巻き込んではならないという配慮から、船舶の乏し い中、空襲を避けつつ夜間を利用して全員をパラオ本島に退避させました。
この誠意が通じたのか、戦いが終って帰島した彼ら は、日本人の遺体を見て泣きました。「アメリカ人は、日本人の遺体には見向きもせず、自国兵の遺体だけを整理した。ここに、征服民族の本性を見る」とし て、島民はこぞって日本軍の遺体を葬りました。日本の人達がいつ来てもよいようにと、その後も墓地の清掃に心掛けました。
現在も島民の親日感情は極めて強く、沖山豊美(やまとよみ)という日本名を持つ女史は、日本統治時代をなつかしみ、「愛国行進曲」を間違わずに歌ってみせ日本人と見れば、
「日本という国は何千年来の伝統を持ち、独自の文化を創りあげてきた。その結晶が天皇と教育勅語だ」
という趣旨を、熱っぼく語り、日本人の度胆を抜くそうです。
さらに彼らは、ペリリューを守って玉砕した1万人余の英霊を決して忘れていません。日本から遺骨収拾に行くと、
「戦死者は母なる大地ペリリューに抱かれているのだ。収拾などしないで、静かに眠らせてほしい」と言うそうです。
現在、島の中央部に近い「島民墓地」の一角に、高さ約四メートルの「みたま碑」(三角錐型)が建っています。それを中心に、日本の各団体によって30数基の慰霊碑が肩を寄せあうように建立されました。
そして昭和57年5月には、「青年神職南洋群島慰霊巡拝団」(清流社会長・滑川 裕二(なめかわゆうじ)氏主催)20名が、船坂弘(ふなさかひろし)氏の助力を得て、ペリリュー神社を創建しました。すべて日本から運搬した材料を使い、島民の多大の協力を得て、10日間を費して完成しました。御祭神は天照大神と戦死者1万余名の「護国の英霊」です。現在、神社前の左の掲示板には、ペリ リュー島のイサオ・シゲオ尊長(そんちょう)によってこの趣旨が書かれています。そして右の掲示板には、戦闘の経過が要約され、米国公刊戦史に載っているとして、次の詩的な一文で結ばれています。
「この島を訪れる、もろもろの国の旅人たちよ。あなたが日本の国を通過することあらば伝えてほしい。此の島を死んで守った日本軍守備隊の勇気と祖国を憶うその心根を……」
この詩は、戦終ればかつて敵であった日本軍の忠勇武烈ぶりを、このように讃えております。そしてこの島を訪れる旅人に、その勇戦ぶりを伝えてくれ、と戦死者に代って願っているのです。
私はこの印象的な英文を確認したいと思って、『米公刊戦史・海兵隊史』を捜して貰いましたが、見つかりません。ニミッツの『太平洋海戦史』にも、載っておりません。この文章は一種の詩だから、戦史としては、ふさわしくないとも言えます。それでは、どこに載っているのか。
文献あさりをしていた時、浦茂氏(元・航空幕僚長〉から教えられました。浦氏が昭和59年に渡米し、ニミッツの資料を求めて、アナポリス海軍兵学校を訪れました。
その時、教官からニミッツの詩として教えられた英文は、次のようなものでした。
Tourists from every country who visit this island should be told how courageous and patriotic were the Japanese soldiers who all died defending this island.
遠い南の島に、日本の歌を歌う老人がいた。
「あそこでみんな死んでいったんだ・・・」
沖に浮かぶ島を指差しながら、老人はつぶやいた。
太平洋戦争のとき、その島には日本軍が進駐し陣地が作られた。
老人は村の若者達と共にその作業に参加した。
日本兵とは仲良くなって、日本の歌を一緒に歌ったりしたという。
やがて戦況は日本に不利となり、
いつ米軍が上陸してもおかしくない状況になった。
仲間達と話し合った彼は代表数人と共に
日本の守備隊長のもとを訪れた。自分達も一緒に戦わせて欲しい、と。
それを聞くなり隊長は激高し叫んだという
「帝国軍人が、貴様ら土人と一緒に戦えるか!」
日本人は仲間だと思っていたのに…みせかけだったのか
裏切られた想いで、みな悔し涙を流した…
船に乗って島を去る日 日本兵は誰一人見送りに来ない。
村の若者達は、悄然と船に乗り込んだ。
しかし船が島を離れた瞬間、日本兵全員が浜に走り出てきた。
そして一緒に歌った日本の歌を歌いながら、手を振って彼らを見送った。
先頭には笑顔で手を振るあの隊長が。その瞬間、彼は悟ったという。
あの言葉は、自分達を救うためのものだったのだと・・・。
「パラオの統治者である日本軍」としては、パラオ諸島の小さな島・ペリリュー島の民間人を“圧倒的不利な戦局”に巻き込んではならないと配慮したのだ。
そして船舶も乏しい中、空襲を避けて夜間に船を出し、住民の全員をパラオ本島に避難させたのである。
そして日本軍はパラオを死守するために文字通り死を覚悟して戦った。
日本は圧倒的に不利だった。アメリカに制海権・制空権を掌握されている上に、兵力14倍、航空機200倍以上、戦車100倍、重火砲1000倍という歴然た る戦力差。しかしそれでもアメリカの上陸作戦史上最高の損害比率を出させるほどに抵抗し、全く補給もなく73日間も守り通し、玉砕したのだ。
最期に『サクラ・サクラ』という電文だけを残して。
その戦いの甲斐あって最大激戦地・ペリリュー島での民間人死傷者はゼロだった。
戦争後に島に戻った島民たちは、放置されていた夥しい数の日本兵の
亡骸を泣きながら埋葬した。後にペリリュー島のオキヤマ・トヨミと
ショージ・シゲオが“ペリリュー島の玉砕戦”を、日本の国花・桜に託して
作った『ペ島の桜を讃える歌』は、今でも彼らに愛唱されているという。
そして当時を知るパラオの長老たちは今でも日本をこう呼ぶという。
「内地」