承政院日記他に見る
日韓保護条約(1905年)での
皇帝高宗の役割
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条約締結まで
明治38(西暦1905)年11月15日
伊藤博文が皇帝高宗と謁見
皇帝高宗は最初は形式的な外交権だけは韓国に残して欲しいと要望。
伊藤は断固拒否。
皇帝高宗はすぐさま日本側の協約案を修正して受け入れるという基本的な立場を表明。
外部大臣に日本側と交渉するよう命じる。
明治38(西暦1905)年11月17日
大韓帝国政府 御前会議
皇帝高宗は「交渉妥協」を命じる。
当時の韓国は皇帝専制であり(大韓国国制第二条)、これで韓国の方針は決定される。
この御前会議で大臣達は最初は全員が反対だったが、皇帝の勅諚が下ったために、皇帝と大臣によって修正案の検討が始まり、三点の修正意見が出る。
韓参政大臣と朴外部大臣が受け入れそのものに反対したため、韓国側は対日交渉の基本姿勢は決定できなかった。
明治38(西暦1905)年11月17日夜
伊藤と韓国側大臣との協議が行われる.
絶対反対は参政大臣と度支部大臣の二人だけで、外部大臣は個人的には反対だが勅命があれば賛成と返答。
残りの五人は、情勢からしてやむを得ないと答えた。参政大臣は退席した。
協約案の修正が行われ、高宗皇帝に上奏された。
皇帝高宗はさらに修正を加え、伊藤はそれを受け入れた。
皇帝が裁可したので、最終案が確定し、調印の運びとなった。
URIが交渉妥協を命じたNIDA!
最終案はURI自ら裁可したNIDA!!
文句有るか!?

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反対運動画策
明治38(西暦1905)年11月18日
日韓保護条約調印
調印はされたが、皇帝高宗は条約に不満を持った。
条約を修正して形骸化を図るつもりが、条約締結交渉の中心的役割を果たすべき首班の韓参政大臣と朴外部大臣が日本案の修正要求ではなく、条約締結交渉そのものを拒否してしまった為思う結果にならなかったからだった。
明治38(西暦1905)年11月19日
条約反対運動扇動開始
条約の交渉すら拒否した反対派の韓参政大臣でさえ「条約締結」の事実を認めるにも関わらず、条約が実際に調印された後、皇帝高宗は各地に密使を送り、第2次日韓協約は脅迫によって結ばされたものであるので反対運動に決起せよと煽動した。
明治38(西暦1905)年11月20日
新聞報道により拡大
皇城新聞に「是日也放声大哭」「五件条約請締顛末」が掲載されて以降、条約反対運動が急速に広まった。
皇城新聞はこれらの記事によって発禁処分を受けたが、「五件条約請締顛末」は大韓毎日申報に転載されてさらに運動を広めた。
明治38(西暦1905)年11月23日
条約反対運動本格化
条約反対運動は、当初は条約無効論、条約破棄論、朴外部大臣の処分などの主張に止まっていたが、
やがて皇帝高宗が国家を私物化することに対する批判へ飛び火した。
韓参政大臣と朴外部大臣が邪魔して、
思った通りには運ばなかったNIDA!
裏で反対運動を起こしてやるNIDA!!
URIのやる事に文句が有る賤民が居る?まとめて処分NIDA!!

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反対運動撲滅
明治38(西暦1905)年11月28日
皇帝高宗により反対運動排斥開始
皇帝高宗は伊藤博文に「韓国への日本の融資や帝室財政の強化」を求めた。
伊藤は罷免された韓参政大臣以外の現内閣メンバーを変えないこと、首班には朴外部大臣が適任などを提起した。
皇帝高宗は、これを受け入れた。
その結果、この日、反対運動から指弾の的になっていた朴外部大臣を参政大臣として内閣の首班に、外部協弁尹致昊を署理外部大臣にそれぞれ任じた。
これらの人事は明らかに、条約反対運動と真っ向から対立するものであった。
この日皇帝高宗は、条約反対の上疏を行なう者を捕らえるという「拿陳疏諸臣」の詔を下した。
明治38(西暦1905)年11月30日
条約反対運動抑圧に対して、侍従武官長 閔泳煥が抗議の自決。
明治38(西暦1905)年12月1日
条約反対運動抑圧に対して、宮内府特進官 趙秉世が抗議の自決。
これ以外にも自決が続いた。
この結果、皇帝高宗の責任を追及する声がますます高まった。
明治38(西暦1905)年12月8日
皇帝高宗は学部大臣李完用を臨時署理議政府議政大臣事務に任じる。
明治38(西暦1905)年12月13日
高宗皇帝は学部大臣李完用を臨時外部大臣事務に任じる。
一方で、学校関係者、法官養成所の関係者、軍人等が政治に関与することを禁止。
明治38(西暦1905)年12月16日
官報において、第2次日韓協約を「韓日協商条約」として告示。
反対運動を煽ったお陰で、
URIに大金が入ったNIDA!!
用済みの反対者達は抹殺NIDA!!
保護条約万歳!!

自分で部下を扇動して
自分で部下を撲滅www
超裏切り君主wwwww

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