と言うことで、うるうるする話を一つw
見ると泣いてしまうコピペ貼ってけ・・・・・
1:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/10/28(金) 13:10:45.21 ID:Yxcoe2jN0
ちょっとこういうのもいいかなって思ってみた
貼っていくから頼んだ。
3:1:2011/10/28(金) 13:16:58.27 ID:gFhiTwhy0
ベトナム戦争から家に帰る前夜、青年兵士は自宅に電話した。
「明日帰るんだけど、他に行くところがない友達を連れて帰りたいんだ。
家で一緒に住んでもいいかな?」
息子の帰還報告に狂喜した両親は、勿論!と泣きながら答えた。
「でも、一つだけ言っておきたいことがあるんだ。
彼は地雷を踏んでね、腕と足を失ってしまったんだよ。
でも、僕は彼を家に連れて帰りたいんだ。」
その台詞に、両親は押し黙ってしまった。
「数日ならいいけれど、障害者の世話は大変よ。
家にいる間に、そのお友達が住める所を一緒に探しましょう。
あなたにも私たちにも自分達の人生があるのだから、
そのお友達 の世話に一生縛られるなんて無理よ。」
やっとのことで母親がそれだけ言うと、息子は黙って電話を切った。
翌日、警察から電話があり、青年兵士の両親は
彼がビルの屋上から飛び降りて死んだことを知らされた。
死体と対面した両親は絶句し、泣き崩れた。
5: 忍法帖【Lv=40,xxxPT】 :2011/10/28(金) 13:20:29.77 ID:GPThz/Lai
>>3はなんか悲しなるな
9: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/10/28(金) 13:22:39.44 ID:O0EaNDdH0
>>3はきつい
12: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/10/28(金) 13:25:56.03 ID:aPbNz//UO
>>3とかなんで死んだの?
14: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/10/28(金) 13:27:04.09 ID:O0EaNDdH0
>>12
手足がないのは彼ではなく
10: 1:2011/10/28(金) 13:23:55.01 ID:gFhiTwhy0
237 名前: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします。 投稿日: 2007/10/26(金) 19:06:27.85 ID:Y1O2bH6d0
半年ちょい前の俺へ
そっちは午前4時だな。
部活で疲れてぐっすりだと思うが、頑張って起きろ
今から言う事をやってくれ。頼む、お前の為だから。しくじるなよ。
音をたてないようにしろ、気づかれるから。
まず、1階に降りて台所から包丁を持ってこい。
そしてお前のバカ兄貴の部屋の前に行き
ドアを開けて部屋に駆け込み一撃でぶった切れ。
バカ兄貴が首を吊ろうとしてる、その柔道の帯で作った輪っかをな。
そうしないとバカ兄貴が首吊って死んじまうぞ。
発見した時の光景と母さんの悲鳴はたぶん一生お前の頭から離れなくなる。
前日まで普通に相談に乗ってもらってた兄貴が次の日には死んでんだぞ
いなくなるんだ
あと兄貴に言ってやれ。
「さんざんアンタをバカにしてきたが、学校じゃ自慢しまくるくらい好きなんだよ。」って
頼む。頼むよ。
頼むからこの文を半年前の俺に送らせてくれよ。
頼むよ。お願いします
「おやすみ。また明日な。」
って言ってたじゃねえか
バカ兄貴。
11: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/10/28(金) 13:25:40.18 ID:ymXuu+t+O
>>10
これリアルタイムで見た
13: 1:2011/10/28(金) 13:26:10.62 ID:gFhiTwhy0
98 名前: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします。 投稿日: 2007/10/26(金) 17:52:15.03 ID:Y1O2bH6d0
京都市伏見区桂川河川敷で2月1日、無職片桐康晴被告が、
認知症の母親を殺害して無理心中を図ったとみられる事件の初公判が19日に行われた。
事件内容は認知症の母親の介護で生活苦に陥り、母と相談の上で殺害したというもの。
片桐被告は母を殺害した後、自分も自殺を図ったが発見され一命を取り留めたとの事。
片桐被告は両親と3人暮らしだったが、95年に父が死亡。その頃から、母に認知症の症状が出始め、一人で介護した。
母は05年4月ごろから昼夜が逆転。徘徊で警察に保護されるなど症状が進行した。
片桐被告は休職してデイケアを利用したが介護負担は軽減せず、9月に退職。
生活保護は、失業給付金などを理由に認められなかった。
介護と両立する仕事は見つからず、12月に失業保険の給付がストップ。カードローンの借り出しも限度額に達し、デイケア費やアパート代が払えなくなり、
06年1月31日に心中を決意した。
「最後の親孝行に」
片桐被告はこの日、車椅子の母を連れて京都市内を観光し、2月1日早朝、同市伏見区桂川河川敷の遊歩道で
「もう生きられへん。此処で終わりやで。」などと言うと、母は
「そうか、あかんか。康晴、一緒やで」と答えた。片桐被告が
「すまんな」と謝ると、母は
「こっちに来い」と呼び、片桐被告が母の額にくっつけると、母は
「康晴はわしの子や。わしがやったる」と言った。
この言葉を聞いて、片桐被告は殺害を決意。母の首を絞めて殺し、
自分も包丁で首を切って自殺を図った。
冒頭陳述の間、片桐被告は背筋を伸ばして上を向いていた。肩を震わせ、
眼鏡を外して右腕で涙をぬぐう場面もあった。
裁判では検察官が片桐被告が献身的な介護の末に失職等を経て追い詰められていく過程を供述。
殺害時の2人のやりとりや、
「母の命を奪ったが、もう一度母の子に生まれたい」という供述も紹介。
目を赤くした東尾裁判官が言葉を詰まらせ、刑務官も涙をこらえるようにまばたきするなど、法廷は静まり返った。
16: 1:2011/10/28(金) 13:28:23.98 ID:gFhiTwhy0
小学生のとき、少し足し算、引き算の計算や、会話のテンポが少し遅いA君がいた。
でも、絵が上手な子だった。
彼は、よく空の絵を描いた。
抜けるような色遣いには、子供心に驚嘆した。
担任のN先生は算数の時間、解けないと分かっているのに答えをその子に聞く。
冷や汗をかきながら、指を使って、ええと・ええと・と答えを出そうとする姿を周りの子供は笑う。
N先生は答えが出るまで、しつこく何度も言わせた。
私はN先生が大嫌いだった。
クラスもいつしか代わり、私たちが小学6年生になる前、N先生は違う学校へ転任することになったので、
全校集会で先生のお別れ会をやることになった。
生徒代表でお別れの言葉を言う人が必要になった。
先生に一番世話をやかせたのだから、A君が言え、と言い出したお馬鹿さんがいた。
お別れ会で一人立たされて、どもる姿を期待したのだ。
私は、A君の言葉を忘れない。
「ぼくを、普通の子と一緒に勉強させてくれて、ありがとうございました」
A君の感謝の言葉は10分以上にも及ぶ。
水彩絵の具の色の使い方を教えてくれたこと。
放課後つきっきりでそろばんを勉強させてくれたこと。
その間、おしゃべりをする子供はいませんでした。
N先生がぶるぶる震えながら、嗚咽をくいしばる声が、体育館に響いただけでした。
19: 1:2011/10/28(金) 13:30:33.88 ID:gFhiTwhy0
私の前の上司(課長)は無口、無表情。雑談には加わらず、お酒も飲まず、人付き合いをしない堅物でした。
誠実公平、どんな時でも冷静なので頼もしい上司なのですが、堅過ぎて近寄りにくい雰囲気がありました。
そんな課長の机の上には奥さん、子供四人と写った写真が飾られてて、
「あの朴念仁でも家族は愛してるんだな」と微笑ましく思ったものです。
何年経っても同じ写真が飾ってあったので、理由を聞いてみたら、
「一番かわいかった頃の写真だからね」と照れ笑いを浮かべながら答えてくださいました。
それが私の見た唯一の課長の笑顔でした。
そんな真面目一徹、入社以来無遅刻無欠勤の課長が三日続けて無断欠勤。
家に電話しても誰も出ず、親族の連絡先も分からなかったので、
部長が直接課長のマンションを訪ね、管理人さんにお願いしてドアを開けていただきました。
課長は玄関で倒れていて、既に冷たくなっていました。急性心不全だったそうです。
部長が管理人さんに課長の家族がいつ戻ってくるか聞くと、「○○さんには家族はいないですよ」という返事。
あわてて人事部の資料をほじくり返すと、確かに課長には家族がいません。
課長は10年前に中途入社した人なので、それ以前に家族に逃げられていて、
写真を見て幸せだった時代を懐かしんでいたんだと思い、少し悲しくなりました。
結局、課長の葬儀にも家族も親族も顔を出さず、血縁の人たちの冷たさにもっと悲しくなりました。
後日墓参りに行くと、立派なお墓が立っていました。死んでやっと家族と和解できて、
立派なお墓を立ててもらえたのかと安心して墓石を見てみると、愕然としました。
お墓は古びていて、課長と同じ名字の名前が墓誌にいくつも彫ってありました。
課長以外は全員十数年前の同じ日に亡くなっていました。
家族を一度に亡くしてからの十数年の歳月を、彼はどんな気持ちで過ごしていたんでしょうか?
二度と会えない家族の写真をどんな思いで毎日眺めていたんでしょうか?
人を遠ざけ、自分のことを決して語らなかった課長の姿を思い出し、涙が止まりませんでした。
21: 1:2011/10/28(金) 13:33:00.53 ID:gFhiTwhy0
大学が決まり一人暮らしの前日の日
親父が時計をくれた。
金ピカの趣味の悪そうな時計だった。
「金に困ったら質に入れろ、多少金にはなるだろうから」
そういってた。
二年生のある日、ギャンブルにハマリ家賃が払えなくなった。途方にくれていた時。
ハッと気がつき、親父の時計を質にもって行った。
紛れもない偽者であることが判明した。
すぐに親父電話した。
俺「おい!偽者子供につかませんなよ!」
親父「なっあてになんねーだろ人のゆうことなんざ。困った時にこそ裏切られるんだよ
最後の頼みの綱になー。がはははは!これが俺の教育だよ。」
親父「でいくら必要なんだ?金に困ったんだろ?」
俺「・・・・あきれるわ。十二万貸してください・・・」
親父「明日振り込むから、何があったかは聞かない。金がない理由は親にいえない事が多いわな!」
親父「がはははは!女にでもはまったか?このバカ息子が!!ははは!!」
正直心底むかついたが、親父の声は俺を安心させてくれた。
今思うと、小さい会社だが経営者らしい教育だったのかなと思う。
そんな親父も去年の夏、ガンで死んだ。往年の面影も消え、ガリガリになった親父が
また時計をくれた。まだ箱に入った買ったばかりの時計だった。必死で笑顔を作りながらいった。
親父「金に・・困ったら質にでも・・・入れろや・・!」
オメガのシーマスターだった。くしくもその日は俺の誕生日だった。
俺「親父の時計はあてになんねーから質には入れないよ。」
二人で笑った三日後、親父は死んだ・・・・
親父が死んだ今も、金ピカの時計はメッキもはげたがまだ時を刻んでいる。
23: 1:2011/10/28(金) 13:35:33.37 ID:gFhiTwhy0
中三の頃、母が死んだ
俺が殺したも同然だった・・・
あの日、俺が楽しみにとってあったアイスクリームを、母が弟に食べさせてしまった
学校から帰り、冷凍庫を開け、アイスを探したが見つからなかった
母親に問い詰めると、弟が欲しがったのであげたと言った
その時楽しみにしていた俺は、すごく怒った
母親に怒鳴り散らし、最後に「死ね!」と叫び、夕飯も食べずに部屋に篭った
それから何時間か経った
俺は寝てしまっていたが、父親が部屋に飛び込んできたので目が覚めた
「母さんが轢かれた・・・!」
あの時の親父の顔と言葉を、俺は一生忘れないだろう
俺達が病院に着いたとき、母親はどうしようもない状態だと言われた
医者は最後に傍にいてあげてくださいと言い、部屋を出た
それから少しして、母親は息を引き取った
その後、母親があの時間に外にいた事を父から聞いた
買い物に行くと言って出て行き、その帰りに車に轢かれた事
現場のビニール袋の中には、アイスが一つだけ入っていた事
救急車の中でずっとごめんねと呟いていた事
その時、俺のために母はアイスを買いに行って事故にあったとわかった
通夜と葬式の間中、俺はずっと泣いた
そして、今でもこの時期になると自然に涙が出てくることもある
母さん、ごめんよ
俺が最後に死ねなんて言わなかったらと、今でも悔やみ続けている
35: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/10/28(金) 13:41:42.96 ID:JRDsHzQGO
>>23
ふざけんな
仕事の休憩室で涙ぐんじまったじゃねえか
24: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/10/28(金) 13:36:19.06 ID:gt9VUrdN0
どうして私がいつもダイエットしてる時に(・∀・)ニヤニヤと見つめやがりますか(゚Д゚)ゴルァ!
どうして私が悪いのにケンカになると先に謝りますか(゚Д゚)ゴルァ!
どうしてお小遣減らしたのに文句一つ言いませんか(゚Д゚)ゴルァ!
どうして交代でやる約束した洗濯をし忘れたのに怒りませんか(゚Д゚)ゴルァ!
どうして子供が出来ないのは私のせいなのに謝りますか(゚Д゚)ゴルァ!
どうして自分が体調悪い時は大丈夫だと私を突き放して私が倒れると会社休んでまで看病しますか(゚Д゚)ゴルァ!
どうして妻の私に心配掛けたくなかったからと病気の事を隠しますか(゚Д゚)ゴルァ!
おまけにもって半年とはどう言う事ですか(゚Д゚)ゴルァ!
長期出張だと嘘言って知らない間に手術受けて助からないとはどう言う事ですか(゚Д゚)ゴルァ!
病院で俺の事は忘れていい男見つけろとはどう言う事ですか(゚Д゚)ゴルァ!
こっちの気持ちは無視ですか(゚Д゚)ゴルァ!
正直、あんた以上のお人よしで優しい男なんか居ませんよ(゚Д゚)ゴルァ!
それと私みたいな女嫁にすんのはあんた位ですよ(゚Д゚)ゴルァ!
26: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/10/28(金) 13:37:03.42 ID:znQdQjs/0
50 番組の途中ですが名無しです 投稿日:2006/04/04(火) 23:14:26.71 i8UE+cve0
そういうのすごくよくわかる!寂しい一人暮らしだと、
会社や家族以外の人とのふれあいが結構うれしかったりするんだよね。
俺の場合は、その日一日は本当ついていなくて、会社で他人のミスが自分に
降りかかってきて上司にめちゃくちゃ怒られるわ、いつもの定食屋が混んでて
自分の注文忘れられ、担当のお客には怒られ(超理不尽な理由で!)、
ありえない量のサービス残業押し付けられてもうさんざんな状態で、
帰るころには夜12時を回ってた......
こういうときは気分転換にいつもと違ったルートで帰るといいと思って
寄り道がてら見知らぬラーメン屋に立ち入ったら、
そこで偶然中学のときのクラスメート数人とばったり出会ったのよ。
特に盛り上がった会話はしなかったけど、一人暮らしの寂しい俺にとって
こういう偶然の旧友との出会いって、なんか元気でるんだよね。
おかげでどん底から抜け出せたよ。
52 番組の途中ですが名無しです 投稿日:2006/04/04(火) 23:19:42.96 jfiemV9s0
>>50
ラーメン屋にクラスメート数人って、何人くらいいたの?
56 番組の途中ですが名無しです 投稿日:2006/04/04(火) 23:28:11.46 i8UE+cve0
>>52
よくよく思い出してみると、結構な人数いたかも。
女子とかも、こんな子そういえばいたなーって子もいたな。 懐かしかった。
59 番組の途中ですが名無しです 投稿日:2006/04/04(火) 23:34:12.54 jfiemV9s0
>>56
OK それ同窓会だ
65 番組の途中ですが名無しです 投稿日:2006/04/04(火) 23:39:16.31 i8UE+cve0
>>59
ありがとう 今週中に死ぬ
29: 1:2011/10/28(金) 13:38:06.25 ID:gFhiTwhy0
別にこんなスレたてたのは、
つらいことがあったわけじゃないからな
32: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/10/28(金) 13:40:45.57 ID:S/r3auYA0
>>29
無理すんなよ
31: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/10/28(金) 13:40:02.91 ID:mRjFJ5e+0
不細工カップルが仲良さげに繁華街を歩いてるのを見かける。
俺が学生時代の頃は
(いくら俺が不細工ッつってもあそこまで妥協したくは無いな)
なんて思ってた。
でも俺が今まで妥協だと思ってしなかったことは、
”しなかった”のではなく”できなかった”ことだったのだ。
32ににもなってブスと付き合うこともできない。
もちろん、好き好んでブスと付き合いたいわけではないが…。
なんだか自分の人生がまるごといいわけのように思えてきた。
疲れてるのかな、目がかすんできた。
でも鏡越しに、かすんだ目で鏡越しに見える俺のツラはどうしても
やっぱり、不細工だった。
それだけは現実だった。
34: 1:2011/10/28(金) 13:41:27.47 ID:gFhiTwhy0
私の父は、高校の時野球部の投手として甲子園を目指したそうですが、「地区大会の決勝で9回に逆転されあと一歩のところで甲子園に出ることができなかった」と、小
さい頃良く聞かされていました。
そんな父の影響もあってか、私は小さい頃から野球が大好きで、野球ばかりやっていました。父も良くキャッチボールをしてくれました。
そして私は、小学5年から本格的に野球を始め、高校に入った私は迷わず野球部に入部しました。
ところが、高校入学と時を同じくして、父が病に倒れてしまいました。
その後入退院を繰り返し、高校1年の冬からはずっと病院に入院したきりになってしまいました。
父の体がどんどん細くなっていくのを見るにつれ、なんとなく重大な病気なのかなとは感じました。
父は、病床で私の野球部での活動内容を聞くのを一番楽しみにしてくれていました。
そんな高校2年の秋、私はついに新チームのエースに任命されました。
それを父に報告すると、一言「お前、明日家から俺のグローブ持って来い!」と言われました。
翌日病院にグローブを持っていくと、父はよろよろの体を起こし、私と母を連れて近くの公園の野球場に行くと言いました。
公園に着くと父は、ホームベースに捕手として座り、私にマウンドから投げるように要求しました。
父とのキャッチボールは、小学校以来でした。しかも、マウンドから座った父に向かって投げたことはありませんでした。
病気でやせ細った父を思い、私は手加減してゆるいボールを3球投げました。
すると父は、怒って怒鳴り、立ち上がりました。
「お前は、そんな球でエースになれたのか!?お前の力はそんなものか?」と。
私はその言葉を聞き、元野球部の父の力を信じ、全力で投球することにしました。
父は、細い腕でボールを受けてくれました。ミットは、すごい音がしました。
父の野球の動体視力は、全く衰えていませんでした。
ショートバウンドになった球は、本当の捕手のように、ノンプロテクターの体全体で受け止めてくれました。
30球程の投球練習の後、父は一言吐き捨てるように言いました。「球の回転が悪く、球威もまだまだだな。もう少し努力せんと、甲子園なんか夢のまた夢だぞ」と。
その数週間後、父はもう寝たきりになっていました。
さらに数週間後、父の意識は無くなりました。
そしてある秋の日、父は亡くなりました。病名は父の死後母から告げられました。
ガンでした。
病院を引き払うとき、ベッドの下から一冊のノートを見つけました。
父の日記でした。あるページには、こう書かれていました。
「○月○日 今日、高校に入って初めて弘の球を受けた。弘が産まれた時から、私はこの日を楽しみにしていた。
びっくりした。すごい球だった。自分の高校時代の球よりはるかに速かった。
彼は甲子園に行けるかもしれない。その時まで、俺は生きられるだろうか?できれば球場で、弘の試合を見たいものだ。
もう俺は、二度とボールを握ることは無いだろう。人生の最後に、息子とこんなにすばらしいキャッチボールが出来て、俺は幸せだった。ありがとう」
私はこれを見て、父の想いを知りました。それから、父が果たせなかった甲子園出場を目指して死に物狂いで練習しました。
翌年夏、私は背番号1番を付けて、地区予選決勝のマウンドに立っていました。
決勝の相手は、甲子園の常連校でした。見ていた誰もが、相手チームが大差で勝利するものと思っていたようでした。
ところが、私は奇跡的に好投し、0対0のまま延長戦に入りました。
10回裏の我がチームの攻撃で、2アウトながらも四球のランナーが1塁に出ました。
そのとき打順は、9番バッターの私でした。
相手のピッチャーの球は、140KMを超えていました。打てるはずもありませんでした。
あまりの速さに怯え、目をつぶって打とうとしたとき、亡くなった父の顔が一瞬まぶたに見えたように感じました。
気が付くと、目をつぶって打ったはずの私の打球は、左中間の最深部に飛んでいました。
私は夢中で走りました。相手チームの二塁手が、呆然として膝から崩れるのが見えました。サヨナラ勝ちでした。
チームメイトは、感動で皆泣いていました。
応援に来てくれていた父の当時のチームメイトも、泣いていました。
スタンドの母が両手で持った父の遺影が、静かに笑って、うなずいているように見えました。
甲子園では、結局1勝もできませんでしたが、父のおかげで甲子園に出ることがで
きて、とても楽しく野球が出来ました。
そのときもって帰った甲子園の土は、全て父のお墓に撒きました。
甲子園に出れたのは、父のおかげだったような気がしました。
これから、どんなに辛いことがあっても、父のことを忘れず努力していきたいと思っています。
ありがとう、お父さん!!
130: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/10/28(金) 18:23:25.56 ID:49s4lYQg0
>>34
泣いた
36: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/10/28(金) 13:42:02.04 ID:+R//9QX+0
久しぶりにガイドライン板を見たくなった
~~~ 略 ~~~
これで、1/3ぐらい?
続きを読みたい方はこちらをどうぞw
http://blog.livedoor.jp/kinisoku/archives/3158940.html


やけどに意味なし!w
ヽ(´ー`)ノマンセー