グレイシー柔術の始祖。

(1878年12月18日生まれ - 1941年11月28日没)
前田光世は米国からキューバに赴き、1907年2月に英国に渡った。前田はまずニューカッスルで試合をした。
前田の評判はイギリスにまで聞こえていたから、挑戦者には事欠かなかった。前田光世は、クリニックclinicという英語が当地では「誰の挑戦でも受けて立つノールール・マッチ」という意味に使われることを知った。

前田はニューカッスルで2人のレスラーをチョークで下した。次にグラスゴーで3人と戦って勝った。ピーターソンという体重190ポンド(86kg)のレスラーが「目潰し、金的あり」の試合を挑んできた。地元のギャングが彼の側に5000ポンドを賭けているといううわさだった。前田は腕十字で楽勝した。
前田は次にバーミンガムで戦い、ロンドン郊外のクロイドンでも試合をした。当時はタイムズ紙にレスリングの記事が出ており、前田の活躍も詳しく報じられた。(1901年12月18日に夏目漱石はプロレスの試合を見たが、その結果は翌日のデイリー・テレグラフ紙に詳しく出ていた。当時は一流紙がプロレスを記事にしていた。
クロイドンの劇場主から前田に手紙が来た。当地で定例のオープントーナメントを開催するから、前田センセイにはそのあとでクリニックを開いていただきたい(すなわち、ノールール・マッチで挑戦を受けて欲しい)というのだ。
前田の相手はブランドンというプロボクサーだった。前田はもちろん挑戦を受けて立った。
前田はこれまでボクサーと戦ったことはなかった。ブランドンは強力なパンチを持っているらしい。
当日の夜(何年何月何日かが原文に書いてない。タイムズ紙でも報じられたというのだから、日付を書くべきだ)、劇場には労働者階級を中心とした観客が詰めかけたが、立派な服装の紳士たちも混じっていた。この珍しい異種格闘技戦は、The Timesの報道もあって、イギリス中の注目の的だった。
前田はいつものように短い袖の柔道着姿でリングに上がった。ブランドンはタイツとボクシンググラブを身につけている。細身ではあるが腕や肩の筋肉がすばらしく発達した黒人である。
第1ラウンドが始まった。
前田光世は右自然体に構えた。ブランドンはオーソドックス・スタイルでフットワークを使い左ジャブを出してきた。前田はどうしても寝技に持ち込まねばならない。ブランドンのパンチをかいくぐって諸手刈りに飛び込んだ。
ブランドンは素早いバックステップで避け、四つん這いになった前田に上からパンチを浴びせようとする。前田は顔を上手に防御する。ブランドンの片足を掴んで倒すが、相手はすぐに立ち上がる。両者はリング中央に戻った。そのまま牽制しあって第1ラウンドは終わった。
第2ラウンド
ゴングが鳴って、両者とも慎重に相手の様子をうかがった。不用意な動きは負けにつながる。観客席からブランドンへの声援が飛んだ。
ブランドンは素早い左ジャブを繰り出したが、前田が距離を取っているので届かない。しかし前田としては組まなければ始まらない。間合いを詰めたが、左ジャブを顔に二発受けた。続いてきた鋭い右フックをダッキングで避け、相手の腰に両手を回した。すぐに浮腰で投げる。しかし離れたところに落ちたため、ブランドンは立ち上がって左ジャブを出しつつ右クロスを狙う。二人は左に回りながら互いに様子をうかがった。
6分が経過した。前田は何としても寝技に持ち込まねばならない。ブランドンの左足に軽く足払いを出したが、これはフェイントだった。顔面にジャブを打ってくる左腕を掴んでテイクダウンした。前田は腕十字に入った。ブランドンはしばらくもがいたが、逃れられるわけがない。すぐにタップした。
試合時間は13分27秒だった。(1ラウンドが何分だったかなど、もう少し具体的に書いてくれるとよいのだが)
ボクサーと初めて戦ったこの試合から、前田光世は多くを学んだ。異種格闘技戦を続けるなら、ボクサーのパンチに対応しなければならない。それには自分もある程度の打撃技を身につける必要がある。前田は天神真楊流の当身技を見学したことを思い出し、それを自分流にアレンジすることにした。前田が編み出した方法は、足払いと主に相手の肘への打撃の組み合わせだった。
以後の長いキャリアを通じて、前田光世はボクサーと戦うときはこの戦法によった。ただ、打撃は決め技ではなかった。相手の注意を逸らして隙を見つけ組技に入るためだった。寝かせてしまえば、絞め技や腕十字や腕絡み、さらには足関節技で極めることはたやすかった。
前田にはボクサーのパンチをかわすスピードがあった。
アトランタでは世界一の力持ちと恐れられたブッチャー・ボーイさえも破っている。その後はメキシコやヨーロッパなど世界各地で異種格闘技戦を行い、ブラジルに辿り着く。この間柔道衣着用の試合では1000勝以上し、終に無敗であった。
行き着いた最後の地はブラジルである。治安の悪いブラジルにガスタオン・グレイシーが移民としてやって来た。ガスタオンの子供の1人、カーロス・グレイシーはやんちゃだったため、ガスタオンは前田に「柔術で鍛えてくれ」と依頼した。前田は、柔道改め柔術と護身術を教えた。カーロスは末っ子のエリオと共に稽古に励んだ。エリオは直接前田に柔術を習った訳ではないが、前田の柔術を更に改良し、誰にでも使いこなせる術(すべ)として技術体系を完成させた。これが後の世に言われるグレイシー柔術である。
1930年、コンデ・コマを本名にしてブラジルに帰化した。フランス大使の娘と結婚する。死後70年近く経った今でも、史上最強の柔道家として前田光世を推す評論家は少なくない。