無人島政策1403→1882
※1403年に、太宗は倭寇を警戒し鬱陵島住民に本土へ移住するよう命じていた。(無人島政策の始まり)
鬱陵島の島民までもが倭寇を装って(仮倭という)半島本土を襲うことがあったため、
1417年、李氏朝鮮の太宗はこの対策として、
同島の居住者に本土への移住を命じた。
いわゆる「空島政策」の発令で、その後460年以上に渡って無人島となった。
※李氏朝鮮は長期間、無人島政策をとっていたため人は住んでいなかったが、
1882年、国王高宗は鬱陵島検察使・李奎遠にこの島の調査を指示し空島政策を廃止、その後再び人が住み始めた。
朝鮮政府の方針として、鬱陵島などへの渡海は禁止されている。
465年~479年の間は公的に朝鮮の開発や漁業活動は無い。
※朝鮮は1882年(高宗19年)、
460年以上 も無人島にしていた鬱陵島を百名ほどで本格的に調査、検察使は李奎遠。(『啓草 本』)
→鬱陵島より遥か先には→島は全く無く、現地 に渡った住民も近くの小島に松竹島や于山島等の名を適当に当てているだけで、 于山が欝陵島を指しているのは、耽羅が済 州島を指しているようなものだと結論付けている。
大韓地誌。(1899年 玄采、著)
※大韓帝国の領域は 北緯33度15分から北緯42度15分、 東経124度35分から東経130度35分まで、
竹島の位置は 北緯37度14分、東経131度52分で、大韓帝国の領域に入っていない。
大韓地誌では日本海と書かれている。 韓国で地理教科書として使用されていた。
『大韓地誌』は、韓国政府の学部編輯局長・李圭桓の序文が付いた学部推薦図書であった。
『大韓地誌』の巻頭には学部編輯局が刊行した『大韓全図』(1899年)が収録されている。
※『大韓全図』(1899年)には、韓国側が 独島と主張する「于山島」が鬱陵島の東側に記されている。
その位置は鬱陵島に近接していることから、鬱陵島の東2kmに位置する竹嶼 (jukudo)であることが証明されている。
(経緯度の入った地図で鬱陵島の東に竹嶼 (jukudo)の位置に「于山島」と記述されている)
※地球の丸みのみを考慮した場合、鬱稜島の海抜120m以上のところからは見える計算になるようである。
しかし、これは空気に埃、塵、水蒸気等の光に影響を与えるものがなく、肉眼の解像度が∞とした場合のこと。
2008年7月21日に、中央日報及びハンギョレ新聞に掲載された写真である。
記事によれば崔書勉国際韓国研究院長が専門カメラマンに依頼して
2007年の下半期から6ヶ月の作業期間を要して撮影されたものである。
朝焼けでオレンジ色が強い写真は、
2008年1月15日午前7時20分の日の出頃に鬱陵島の海抜440mにある内需前見晴らし台(機械翻訳ママ)で撮影されたものである。
使用機材は200mmレンズと感度100のスライドフィルムとされていた。
しかしながら、2007年11月2日撮影の写真データにexif情報が残っており、以下のとおりであった。
※2007年11月2日撮影写真のexif項目名 情報
ソフトウェア Adobe Photoshop CS Windows
露出時間 2.50秒
ISO感度 100
シャッタースピード 2.59秒
露光補正量 EV0.3
レンズの焦点距離 400.00(mm)
中央日報(2008年7月21日:日本語版)
※独島研究者たちはこうした論争に終止符を打とうとずいぶん前から鬱陵島で独島写真撮影を試みてきた。
チェ院長は「専門カメラマンが昨年4回にわたり数十日ずつ現地に泊まって撮影を試みたが、独島が姿を現わす日が1年に数日もなく、
それさえももちょっと見えては消えてしまうことが多く、撮影に成功したのは3日しかなかった」と話した。
竹島と鬱陵島の間には常に海霧が発生しており、韓国の研究者が古くから撮影を試みているが失敗している。
※竹島が姿を見せるのは年に数日。
500mmレンズを使用しても撮影に40日を要する。
400mmの焦点距離(400mmレンズ使用の嫌疑)でも半年で3日しか撮影のチャンスがない。
※観測者から水平線までの距離をx、観測者の海面からの目の高さをh(単位はm)とすると、x(m)=3570×√h(m)で算出できる。
海面からの距離20mの船の上にいる目の高さが1.6mの観測者から水平線までの距離は、3570×√21.6≒16591mとなり、約16.6km。