かつては遼東半島→北朝鮮周りの陸路ルートが考えられていたが、遼東半島及び北朝鮮が今でも稲作に適さないこと、稲作が伝播した年代が今より寒気(弥生時代は今より1-2℃気温が低いとされる)だったことから今は支持されていない。(古墳時代は今と同じ程度、飛鳥・奈良時代の5-7世紀は今より1-2℃気 温が低く、750年頃を境に温暖に転じ、今より1-2℃気温が高かったとされ、920年頃を境に寒冷に転じ、今と同じ気温、江戸時代の17-19世紀は小 氷期で、今より2-3℃低かったとしている。)
2005年、岡山県彦崎貝塚の縄文時代前期(約6000年前)の地層から稲のプラント・オパールが見つかっており、縄文中期には稲作(陸稲)をしていたとする学説が多数出た。
近年、長江文明の全貌が明らかにされるにつれ、稲作は長江下流域の水稲耕作を発祥とする説が有力視されている。
縄文時代の遺跡から出土する、稲のプラントオパールが熱帯ジャポニカであること。また、佐藤洋一郎(静岡大学助教授)が、長江下流域のいくつかの遺跡から 出土した炭化米20粒から、DNAを取り出して調べた結果、河姆渡遺跡から出土した炭化米2粒が、熱帯ジャポニカであることが判明した。
稲のDNAや年代測定により、現在は、江南→日本→朝鮮(南部)ルートが支持されている(朝鮮の稲と日本の稲のDNAに共通性が無い事が原因)。
遼東半島や朝鮮北部での水耕田跡が近代まで見つからないこと、朝鮮半島で確認された炭化米が紀元前2000年が最古であり、畑作米の確認しか取れず、日本 より遡れないこと、極東アジアにおけるジャポニカ種の稲の遺伝分析において、朝鮮半島を含む中国東北部からジャポニカ種の遺伝子の一部が確認されないこと などの複数の証拠から、水稲は大陸からの直接伝来ルート(対馬暖流ルート・東南アジアから南方伝来ルート)による伝来である学説が見直され、日本から朝鮮半島へ伝わった可能性を指摘する。
中国江南地方から、長江文明(含む熱帯ジャポニカ種のイネ)が、セットとなってこの列島に流入していた。
遺伝子工学の分野からの研究の結果でも、中国南部から日本へ直接伝来した説が有力であり、ほぼすべての学界で定説になっている。これは中国政府機関が20年以上かけて満州で行った品種の調査によるもの。この調査により朝鮮半島経由で日本に稲作が伝来した可能性がなくなった。
また中国の稲作研究界では水稲種は日本から朝鮮半島に伝播したという説が有力になっている。

米には品種特性を決定づける遺伝子が7種類ある。中国の遺伝子をA-Gとし、このうち古代から現代に至るまで日本で発見された米の遺伝子は2つしかない。日本に存在する遺伝子をAとBとする。
AとBの遺伝子はそれぞれ温帯ジャポニカと熱帯ジャポニカという品種の特有遺伝子だ。
中国はもちろんインディカ種、熱帯ジャポニカ、温帯ジャポニカなど、AからGまですべて揃っている。
朝鮮半島の米はBからGまでの6種類が揃っているが、Aだけは存在しない。これは気温が低いと存在できない遺伝子のため中国北部より北では存在できないためだ。「栽培稲に関する種生態学的研究」(松尾孝嶺著)
往来が盛んになればなるほど、多くの種類の遺伝子を持つ米が入る確率が高まるが、日本には2種類しかないのが確認されていて、これが稲作開始の初期から広く分布していることから、米の伝来はごく限られた回数で特定の地域から伝来したのが分かる。
近年、炭素14年代測定法という最新の年代測定法の成果で朝鮮半島の稲作より日本の方がかなり古いことが分かってきている。日本の稲作開始は陸稲栽培で6700年程度前まで、水稲栽培で3200年程度前まで遡ることが判明している。
これに対し朝鮮半島では水稲栽培は1500年程度前までしか遡れない点、九州北部と栽培法が酷似していることや遺伝子学的に日本の古代米に満州から入った米の遺伝子が交雑した米が多いことなどから、水稲は日本から朝鮮半島へ、陸稲は満州経由で朝鮮半島へ伝わったことが判明した。中国政府の研究機関でも調査が進み間違いないという結論が出ている。
また、中国南部の日本の米の起源と推定される地域は熱帯ジャポニカも温帯ジャポニカも同時に存在しているので、両者を1品種ずつ持ってきたと考えられる。
また朝鮮半島の米はBの遺伝子が70%を占めるので、米が朝鮮半島に導入された初期段階でBの遺伝子が多く伝わっていなければならない。日本から2種類の 遺伝子を持った米が朝鮮半島に渡ったものの、Aの温帯ジャポニカ種は朝鮮半島に根付かずBの遺伝子のみが広まり、そこに満州から米が入ってきて、Bの遺伝 子を持つ米と交雑したと考えると朝鮮半島の米に遺伝子的な説明が付く。
中国にはすべての遺伝子が満遍なくあるので、特定の種類の遺伝子を持つ米だけを朝鮮半島に伝えるのは不可能だ。
なお、日本の品種改良技術は奈良〜鎌倉時代に飛躍的に伸びたが、飛鳥時代にも籾の選別技術等が確立しており、5世紀頃には単位収量がアジアでトップクラスになっている。
日本が朝鮮を併合した時に朝鮮に日本の耕作技術が移出され、単位収量が併合前に比べて2.2倍という爆発的増加をみたが、これは灌漑設備の他、植物防疫、 施肥法の伝授によるものだ。単位収量の増加は挑戦における生活の安定をもたらし、食料計画の研究資料によると摂取カロリーが一日あたり併合前に比べて一人 あたり400カロリー、摂取タンパク質量が一人あたり7グラムも増えた。栄養状態の大きな改善などにより併合後の朝鮮の人口は2倍以上に増加した。
中国も朝鮮と同程度の収量であったことなどをみると日本の稲作技術は20世紀初頭のアジアでは飛び抜けてトップであったことが伺える。
20世紀初期の忠清北道の稲作 種選別 しない 種まき 蒔くだけ 苗代 苗取り後放置し、翌年の種まきの2-3日前に青草を乾かしたものを肥料として混ぜる 田植 乱雑に植える 肥料 隔年で堆肥を施す