或る陸軍航空部隊兵士の回顧録から『 ビルマへの海路にて 』
パレンバンからシンガポールへ寄港した軍用船に、早川兵団と名乗る兵団が乗り込む事になった。
どんな部隊が乗り込むか興味があった。
女だけの60人程度の団体が、同じ船室の向こう側に乗り込んだのには驚いた。
甲高い女の声が船室に響く、戦争に行く軍用船が男女乗り合わせになって興奮した。
20才から25才迄の血気盛りの兵隊たちは、何時も向こうに居る女達に関心があった。
船内では朝晩の点呼以外には食事当番だけが忙しく、他の者は特に仕事はない。
船内に二段に作られた寝台兼居間は正座すれば頭が天井に当たる。
横になっているのが一番楽な姿勢である。
空からのビルマ進攻に比べて、船でのマラッカ海峡はのんびりした旅行気分である。
ペナン島の赤や青の屋根が見える。
マレー半島から3キロしか離れていないエメラルド色の島は、ピーチ、リゾート(休養地)として外人が贅沢に遊んだ所だ。
左舷近くに見えるのは、船がマレー半島沖2~3キロを北上していたのだ。
潜水艦の攻撃や敵機の襲撃を避けるためであろう、幸いに風も波も静かで滑る様に進む。
夕食が済んで消灯までの暫くの時間は、甲板での夕涼みが楽しい、早川兵団の女達も涼を求めて甲板へ出てくるので、何時しか話相手が出来た。
お互いの身の上話を話し合う事で充分心が和み、ほのかな親近感と愛情すら感じたのである。
その中の若い一人の女からこんな哀れな話を聞く機会があった。
「前線の兵隊さんへ酒保(軍事施設内の売店)で奉仕する仕事です、期間は2年間で前渡金は200円です」。
開戦して間もなく、東北の貧農たちの家を陸軍の特務を帯びたと言って訪ねて廻る怪しげな人がいた。 (陸軍の特務と言っても軍人では無く、業者でしょう)
彼の誘いに乗って集まった人たちが早川兵団の主力要員であったが、その他に年増で事情の分かった都会の女もいたので、農村出身の17才の彼女はこれからの仕事がどんなことかを聞かされて驚いたが、もう、どうすることも出来ないと言って咽び泣くのだった。*貧しい田舎(地方)から連れてこられた娘と、都会の娼婦達の混成
月明かりの甲板で、こんな話を聞かされても私にもどうする事も出来ない。
船はマラッカ海峡から印度洋へ出た。
海の色も緑が濃くなりうねりも出たが、水平線に沈む夕日が赤く美しかった。
結局、日本国内でも親が理解していたかいないかは不明だが、金銭的に困窮していた場合、娘が斡旋業者により連れ出されたことが判明しているんだよ、韓国だけが特別では無いことを理解するべきだ、自分たちだけが差別されていたと歪曲してはいけない・・・
そして、日本国内でも戦争末期には皆が飢えて、雑草のお粥、良くてじゃが芋という状況だったらしい、また、鍋などの金属類の供出等があり困窮していった、同様に韓国も飢えて困窮したのは特別ではないのだ。
軍に同行する以上、軍が輸送と保護を担当するのは当然、逆に業者単独では強力な武装と輸送能力は望めず、無事に目的地に着くのは不可能。
現在においても、事故で下半身不随になり車椅子の生活を送る人はいる、何故自分がそうなったのかと理不尽に思うことだろう、しかしそれが人生とも言えるのではないか、本人の意思に反して慰安婦となった者も理不尽と思うだろうが、それも人生と潔く諦めることも必要なのだ・・・