http://article.joinsmsn.com/news/article/article.asp?total_id=6858128
中央日報(韓国語) 2011.12.12
清渓川の忠州リンゴの木の通りが無くなることになった。
ソウル市説公団(理事長イ・ヨンソン)は清渓川古山子橋〜新踏鉄橋堤防両側400mに造成されたリンゴの木の並木道が忠州市の要請により閉鎖されると11日明らかにした。
リンゴの木道はイ・ミョンバク大統領がソウル市長だった2005年造成された。 忠州市はその年清渓川復元を記念するために4〜5年生まれリンゴの木120株をソウル市に寄贈した。
期待とは違って清渓川が林檎の栽培に適さないことが判明して、リンゴの木道をなくすことに決めた。忠州市関係者と市議会、農業技術センター専門家たちは去る10月清渓川を訪れて“これ以上リンゴの木栽培が難しい”と結論付けた。
リンゴの木は秋収穫鉄には一部市民が熟す前に林檎を取ることも多くて啓蒙案内板と垣根を設置して監視員まで配置しなければならず、当初趣旨を傷つけたことで忠州市側は判断した。
ソウル市説公団清渓川監視関係者は"その間忠州市とともにリンゴの木興しにあらゆる努力をつくした"として"こういう努力にもこれ以上リンゴの木栽培をできないという忠州市の判断により今回閉鎖の決定を下した"と明らかにした。

清渓川の林檎を24時間必死に守るが今年も駄目…
http://news.sbs.co.kr/section_news/news_read.jsp?news_id=N1001004337
SBSニュース(韓国語) 2011.10.11
街路樹果物守れ"非常…住民たち夜通し監視
このように街路樹に見事に開かれたリンゴを見れば私も事実盗みたくて苦しい気持ちになります。 ところでこれを何の悩みもしなくて、むやみに取っていく人が絶えません。集めて生活困難者らに贈り物する予定なのに、少し自制しなければならないですね。 忠北、忠州と報恩の事例を見ます。
林檎並木の清渓川、忠州市内進入路です。
街路樹ごとにふさふさぶらさがった真っ赤なリンゴが見事です。
リンゴの木街路樹道は何と5km,全850株のリンゴの木が良く熟れた果実をぶら下げて壮観を演出します。
リンゴの木街路樹道はこちら自治団体が地域特産品の謝罪を広報するために1997年に作りました。
ところで謝罪が熟し始めながら取っていく人が多くて住民たちが頭を痛めています。
見知らぬ人がリンゴの木に接近するとすぐに警備に立つ住民がすぐに制止します。
[取らないで下さい、取ってはいけません。]
走った車両がしばらく止まれば直ちに監視のまなざしが集中します。
[キムさん/林檎を守る会:車で堂々と盗んで、警備が来たら合図で笛を吹いてすばやく逃げて行きます。]
街路樹に開いた林檎の実は概略3t程度、住民たちは5ヶ所に警戒所まで設置して24時間警備に立つが明け方でも霧立ち込めた日には守るのが容易でありません。
[イさん/林檎を守る会:ここに約40〜50個かかっていなくてはなりませんが、みな盗まれてもう数個しかありません。]
忠北のナツメ街路樹道も同じ様子です。
有刺鉄線を打って垂れ幕を20枚も掲げたが効果がないです。
[リさん/ナツメ守る会:昨日も追っかけっこだけで大騒ぎだけして一日過ぎたが。]
街路樹謝罪とナツメは刈り取って生活困難者と福祉施設に送る予定なのに盗難事件は減らなくて実は大きくならなくて住民たちの怒りだけ大きくなっています。
日本

飯田のりんご並木
http://www.city.iida.nagano.jp/namiki/about/index.html
飯田のりんご並木は戦後の復興過程で起きた火事をきっかけに当時の飯田市立飯田東中学校の生徒達の提案により生まれ、今日まで営々と町のシンボルとして、中学校生徒達の手で守られ、育てられてきました。また並木通りは、大火の教訓から町の防火帯としても機能するように考慮されています。昭和27年(1952年)から植樹が始まりましたが、この計画が、市民に 知れると、「街の真ん中にりんごの木を植えたって、たちまちその実を盗まれるに決まっているじゃないか」と笑う人もいた。
当時はまだ、戦後復興で国民全体が飢えて貧しい時期であったし無謀な計画だとも言われた。
3年目の昭和30年の初収穫の時期になり、6月に確認されていた47個の実のうち、結局は根付かなかったり、落果したり、盗まれたりで4個が収穫出来ただけだった。生徒たちは寂しく収穫し祝った。4つのりんごは、朝日新聞社、高馬進教授、飯田市長、飯田市助役に贈呈した。学友会は総会を開き、全体の意志統一を図り、困難に負けず、夢が実るまで頑張り抜くことを誓った。
学校にも数百通の激励の手紙が相次いで届いた。生徒たちは全国の心ある人々に支えられていることに心を強くし作業に取り組んだ。
4年目を迎えた昭和31年は、開花、摘花、炎天下の除草など作業が進められ、林檎の木には約400個の見事なりんごが実った。枯れた木は1本もなく、獲られた林檎は一個も無かった。同
年秋の第三校舎増築記念祝賀会の展覧会には、りんごを山と積んで展示した。収穫したりんごは協力や激励して下さった方々に贈り、大部分は恵まれない施設の人々に贈った。全国に広がる並木の心
昭和60年7月、学校長のもとへ札幌市から一通の手紙が届いた。「札幌にりんご並木が生まれて10周年を迎えたので記念碑を建てることになった。その除幕式に、飯田東中の生徒の皆さんにぜひ出席していただきたい」という招待状であった。
その後更に、大分県久見市からもりんご並木資料を送ってほしいという依頼があった。飯田市のりんご並木精神をバックボーンにして、単なる商業主義的な市の宣伝ではない、蜜柑並木を作ろうという構想が生まれたのだという。


