
大阪には、豪農(富裕農民)の家が多く存在している。江戸時代建立の家も非常に多いが、その大半が現在も人が住んでいて、内部を見ることが極めて難しい。また、近代や現代に大きく改造された家も多く(栄養市民の家もそうである)、江戸時代の状態を保つ家も少なくなってきた。
さて、そんな中でも、いくつかの家を訪ねたが、今回は東大阪市にある「旧河澄家住宅」を中心に取り上げてみる。
その家は立派な塀に囲まれていた。河澄家は、かつて庄屋を務めていた上層農民の家柄であり、典型的な富裕農民の家である。
旧河澄家住宅に入ろう。現在は立派な門が存在しないが、庄屋の家柄なので、かつて長屋門のような立派な門が存在しただろう。正面に大きな茅葺の「主屋」が見える。

「主屋」
主屋は江戸時代初期の建立。しかし、改造がかなり多く、現在の形になったのは江戸時代後期頃だと思われる。茅葺屋根はトタンに覆われ(ただし、茅は入っていない可能性が高い)、表裏に瓦庇を付けている。
主屋には式台玄関が付き、左側には「奥座敷」が連結されている。現在の奥座敷は1835年建立である。
旧河澄家住宅の全体図を見よう。上が北方向。主屋が中央にあり、棲鶴楼と呼ばれる奥座敷が主屋の西側に接続している。南西側に庭園が、北西側には倉がある。典型的な大阪の富裕農民の家だと言える。
ところで、主屋は当初、この部分だけだったと思われる。建物の右側に作業空間の土間を、左側に居住空間の4つの部屋を「田」の字型に置く。この間取りは「整形4間取り」と言われるが、大阪は全国的に見てもかなり早くから4間取りが登場していた。近畿地方の場合、この間取りの原形は箱木家住宅の「前座敷3間取り」だと考えられるが、ちょうど座敷(ザシキ・zashiki)が左右に分割されてクチノマ(kuchinoma)が誕生し、4つの部屋になったのだろう。
因みに、栄養市民の家(江戸時代末期建立)も整形4間取りである。違いは、ナンド(nando)とzashikiの位置が逆になっている事、そしてその境が完全に開放されている事。これらは、19世紀以降に登場した4間取りの1つの様式といえる。
この家でまず目に付くのが、樹齢500年という大きなカヤの木だろう。富裕農民の家には庭園や、立派な木が存在していることもある。
自分の家にも立派な木がある。この大きなモチノキが、栄養市民の家のシンボルである。皆さん「凄く立派なモチノキですね」と必ず言ってくれる。樹齢は分からないけど、主屋より古いのは間違いない。
さて、この家の「式台玄関」について先に述べておく。この式台玄関は何時から存在するのだろうか?係りの人は「江戸時代から存在しました」と説明するが、江戸時代初期にあったのだろうか?もしかすると、左手にある奥座敷の完成が1835年なので、それと前後してここに式台玄関が付けられたのかもしれない。
民家のzashikiは当初、縁側から直接出入りする事が多かった(前の箱木家住宅の主屋もそうである)。この部分も、当初は式台玄関ではなく、ただ単に縁側だった可能性もある。
イメージ的には、このような感じかな。富裕農民の家と言えど、立派な玄関が備わってくるのは江戸時代でも時代が下ってからだろう。因みに自分の家の場合、立派な玄関が備わったのは約40年前。それ以前は式台玄関も存在せず、客が来れば土間の左下部分で応対していた。まあ、自分の家は庄屋ではなく、ただの富裕農民なので当然だけど。
ただし、zashiki前には縁側があり、大きな石を置いて直接zashikiに出入り出来るようにしている。写真のガラス障子は約50年前に設置したものである。
次は、旧河澄家の主屋に入ってみる。つづく。