慰安婦が大金を稼いでいた職業売春婦だと証明する米軍の文書
http://www.exordio.com/1939-1945/codex/Documentos/report-49-USA-orig.html
米国戦争情報局心理作戦班報告書とは、1944年9月にアメリカ合衆国の諜報機関・合衆国戦争情報局(United States Office of War Information)の心理作戦班がインドアッサム州のレドで作成した旧日本軍慰安所・慰安婦に関する報告書で、文書名は「日本人捕虜尋問報告 第49号」。日本による朝鮮人慰安婦の募集の方法や、生活状況、日本軍人との関係について報告されている。
米国立公文書館に所蔵され1973年に公開された。原文のコピーは日本政府による1992年から93年までの調査結果として「アジア女性基金」で公開されている。
概要
インド・ビルマ戦域(en:China Burma India Theater)のアメリカ陸軍所属のアメリカ合衆国戦争情報局(en:United States Office of War Information,略称OWI)の心理作戦班(Psychological Warfare Team)は、1944年10月1日付けでJapanese Prisoner of War Interrogation Report No. 49.(日本人捕虜尋問報告第49号)を作成した。
1944年8月10日に、ビルマの戦いのミイトキーナ(現在のミッチーナー)陥落後の掃討作戦において朝鮮人慰安婦20名と慰安所経営者であった日本人夫婦2名の捕虜が捕獲され、レド捕虜収容所には1944年8月15日に到着した。
尋問場所はレド捕虜収容所で、尋問期間は1944年8月20日から9月10日で、報告者はアレックス・ヨリチ。
内容
朝鮮人慰安婦(comfort girls)を徴集するために日本軍が用いた方法、慰安婦の生活および労働の条件、日本軍兵士に対する慰安婦の関係と反応、軍事情勢についての慰安婦の理解程度についての報告とされている。
慰安婦について「A "comfort girl" is nothing more than a prostitute or "professional camp follower" attached to the Japanese Army for the benefit of the soldiers. 」とあり、この用語は日本軍特有のものと説明されている。ここで慰安婦(原文では "comfort girl"となっており直訳すれば「慰安 少女」)とは、売春婦以外のなにものでもなく、日本軍に附属(attached)するプロフェッショナル・キャンプ・フォロワー(職業的な野営随行者)であり、日本軍にとって戦闘の必要のある場所ではどこにでも「慰安婦」が存在してきたことを示す報告がある。日本は、1942年にビルマにて、これらの女性およそ703名を海上輸送したと報告されている。
斡旋業者による募集方法
1942年5月上旬、日本の斡旋業者(エージェント)たちが、「慰安役務・慰安奉仕(comfort service)」をさせる朝鮮人女性を募集した。仕事の内容は、病院で負傷兵の世話をしたり、兵士を喜ばせるような仕事であると説明し、報酬の高さ、家族の負債返済の好機、楽な仕事、シンガポールにおける新生活が待っていると勧誘した。多くの朝鮮人女性が海外任務(duty)を希望(enlist)し、数百円の前借金を受け取った。応募した女性の多くは無知で教育の程度も低く、売春婦も居た。
契約
署名による契約によって女性は、慰安所の雇い主(house master)に拘束されることとなり、前金の額に応じて契約期間は6ヵ月から1年間であった。
慰安婦・斡旋業者の年齢・出身地・人柄
平均的な朝鮮人慰安婦は、25歳くらいで、無教育で幼稚で身勝手である。ブスで醜く、自己中心的で、自分のことばかり話す。手練手管を心得ている。自分の「職業」が嫌いだといっており、仕事や家族について話したがらない。アメリカ兵は日本兵よりも人情深いとみなし、中国兵とインド兵を怖れ嫌っている。
報告書付録によれば、慰安婦の年齢分布は、21歳が7名と最も多く、20歳が3名、25歳・26歳・27歳が2名、19歳・22歳・28歳・31歳が各1名であった。
日本人斡旋業者は夫婦で京城で食堂を経営していたが不振であったため、この斡旋業に就いた。夫は41歳、妻は38歳だった。
生活と労働環境
ミッチーナでは、彼女らは通常2階建ての大きな建物(学校の校舎)に住んでおり、個室で生活し、仕事をした。食事は、日本軍は関与しておらず、慰安所経営者が準備した。慰安婦の暮らしぶりは、贅沢ともいえるほどであった。
彼女らは食料物資の配給は少なかったが、ほしいものを買えるだけの多くのお金を持っており、暮らしぶりは良好であった。彼女らは、服、靴、タバコ、化粧品を買えた。また、実家から「慰問袋(comfort bags)」を受け取った日本軍人から多くのプレゼントをもらっていた。将兵と共に、スポーツ、ピクニック、娯楽、夕食会等を楽しんだ。蓄音機も持っており、街へも自由に買い物に行くことも許された。
料金体系
兵士が午前10〜午後5時までで1円50銭、利用時間は20〜30分。下士官は午後5時〜午後9時で3円、利用時間は30〜40分。将校は午後9時〜午前0時で料金は5円、利用時間は30〜40分で、将校は20円で宿泊も可能だった。丸山大佐は料金を半分近くまで引き下げた。
慰安婦は、接客を断る権利を認められていた。接客拒否は、客が泥酔している場合にしばしば起こることであった。接客を断る自由もあり、断ることもしばしばあった。
報酬および生活状態
慰安所の楼主(House master)は、契約時の債務額に応じて慰安婦らの総収入の50 - 60%を受け取っていた。慰安婦は月平均で1500円の総収益を上げ、750円を経営者に返済した。
帰省許可
1943年後半、軍は借金を返済した女性には帰省を認めた。一部の女性は朝鮮への帰省を許可された。
健康状態
慰安婦の健康状態は良く、各種の避妊用具を十分に支給されていた。兵士も支給された避妊具をもって来た。慰安婦は衛生に関して十分な訓練を受けていた。軍医が慰安所を週1回訪れ、病気が見つかった場合は治療を受けた。
兵士たち
慰安婦の一人によると、平均的な日本軍人は慰安所で並んでいるときは恥ずかしがっていた。日本の軍人からの求婚も多く、実際に結婚した者もいた。
退却と捕獲
退却を開始してから捕虜になるまでの経緯は、彼女たちの記憶は曖昧で混乱していた。
1944年7月31日夜、3つの慰安所(バクシンロウはキンスイに合併)の慰安婦、家族や従業員を含む63名が小型船でイラワジ川を渡り始めた。ワインマウ近くに上陸し8月4日までそこにいた。兵士一団のあとについて行ったが8月7日、小規模な戦闘が起こり一行とはぐれた。川岸付近の民家にいたところ、8月10日、イギリス軍カチン族兵によって捕えられた。
慰安婦たちは反日宣伝のビラや放送のことは知らなかったし、ビラは日本語で書かれていたため兵士が読んでも理解できなかった。

兵士に付いて回った慰安婦達
http://www.7tharmddiv.org/docrep/Location%20of%20APOs%201942-1947.pdf
ワシントンDC郊外にある「国立公文書館」に保管されている。







