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もはや妄想癖~キム・ディル慰安婦の場合

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◆◆◆ 金大日(キム・デイル) ◆◆◆


【生い立ち・慰安婦になった経緯等】

1916年11月5日、黄海道の沙里院で生まれる。家は非常に貧しく、12歳(数え年)の時、わずかな米と引き換えにお手伝いさんとして売られ、その後、日本人の経営する紡績工場に売られる。

1932年、「福田」という日本人に「食べ物に困らない所に連れて行ってあげる」と言われ、大阪の病院で雑用をさせられる。

18歳の時、そこの院長に強かんされ、1934年、院長に見知らぬ日本人に引渡され、以降、12年間、上海等で慰安婦を強いられる。


【慰安所までの移動時の公権力・軍の関与等】

病院の院長に売られた後、東京から釜山へ渡り、汽車で新京、ハルピン、チチハル、牡丹江等を経由して上海の慰安所に行く。


【考察】

全体的にウソ臭い内容です。

最初、日本人の男に「食べ物に困らない所に連れて行ってあげる」と言われ、通常なら、その後、慰安所に入れられるパターンなのですが、何故か、一旦、大阪の病院で働いています。そして2年後、院長に慰安婦にさせられているのですが、理由は記載されていません。訳が分かりません。強かんした時、拒んだからでしょうか。

また、上海の慰安所に移動するのに、朝鮮半島を縦断して満州の新京を通り、中国の東北部のハルピン等を経由して到着しています。異常に遠回りです。日本から上海に行くなら、長崎か下関から船で行くのが通常でしょう。

おそらく、大阪の病院で2年間雑用をしていたというのは全くのウソ。最初、男に騙されて満州で売春婦をしていたのでしょう。その事実を隠す為に、大阪の病院のエピソードを挿入したわけです。そして、日本から直接、上海に行ったことにすれば良かったものを、なまじ滞在していた経験があったものだから、ご丁寧に満州を経由したことにしてしまったのではないでしょうか。


また、同女は、「転戦する軍隊に従って中国各地を連れ回された」(「朝鮮じん『慰安婦』)と証言していますが、「金学順さんの証言」ではシンガポールにも行ったことになっています。もう無茶苦茶です。

さらに、「朝鮮じん『慰安婦』」で同女は、「現在では『従軍慰安婦』と言っているが、私が当時、言われたのは『挺身隊』とはっきり記憶している。」と証言しています。
「従軍慰安婦」=「挺身隊」は韓国で一般に広がっている誤認識であり、韓国政府の公式見解「日帝下軍隊慰安婦実態調査」では明確に無関係なものであると結論づけています。明らかに「従軍慰安婦」=「挺身隊」としたい政治的意図を持った発言です。


なお、北朝鮮の元・従軍慰安婦お約束の日本兵の残虐行為は以下の通りです。

○火のついた煙草を鼻や子宮に入れる
○将校が「おれは、飽きたからお前がやれ」と言ってシェパードをけしかける
○戦闘で負けた腹いせに慰安婦に銃を乱射してコロ

したり、穴を掘って入れ、手榴弾を投げ込む
○妊婦の腹を裂き胎児を刺しコロした後、妊婦もコロす
○慰安婦150人を並ばせて斬首


【信憑性】

信憑性なし。せいぜい、男に騙されて売春婦、もしくは慰安婦になっただけでしょう。


【資料等】

年月資料名等著者出版社内 容 等1992.10朝鮮じん「慰安婦」在日本朝鮮民主女性同盟中央常任委員会 編**** 私の実家は余りにも貧しかった。数え12歳のときに、わずかな米と引きかえに金持ちの家に下女として連れて行かれた。そこから日本人の経営する紡績工場に売られた。1932年、数え16歳のある日、今度はフクダという日本人がやってきて、「食べ物に困らないところに連れて行く」と言った。私は、またもや売られてたのである。

 私は、フクダと一緒に汽車に乗って釜山港に連れて行かれた。そこには朝鮮 女性が20人くらい、あちこちから連れてこられていた。自分がどこへ連れて行かれるのか理解できないままに船に乗せられ、下船したのは下関であった。下関に上陸すると同時に、フクダという男は、「これからは朝鮮語を使ってはいけない。もし使ったらころす」と脅し、そして「これからお前の名前はシズエだ」と行った。そこから連れて行かれたのが大阪の病院であった。

 病院では雑用をさせられた。地で汚れた包帯やガーゼ、患者の大小便で汚れた衣類の洗濯など、日本人が嫌ってしない汚い仕事は全部させられた。

 来る日も来る日もべっ視と屈辱的な扱いの中で、長時間の労働を強いられ、外出する機会も与えられず、病院の雑用を押し付けられていた。

 数え18歳になったお正月の夜、病院の院長だと名乗った男が、私の部屋に入ってきてナイフを突きつけ、「私の言いなりにならなければコロす」と脅して、叫び声をあげた私の口を手で押さえて暴行した。その日まで、私は院長の顔も知らなければ会ったこともない。院長は「お前は美しいので、前から目をつけていた」と言った。

 それから、しばらく経ったある日、院長が「お前のこの病院で2年も奉公したから、今度はもっと良いところに行かせてあげよう」と言って、見知らぬ日本人の男に私を引き渡した。

 その男は、私を東京に連れて行った。そして、日本の軍隊に「挺身隊」として送り込んだ。そこには朝鮮 女性が30人くらいいた。1934年のことである。現在では「従軍慰安婦」と言っているが、私が当時、言われたのは「挺身隊」とはっきり記憶している。

 そこで、軍隊と一緒に連れて行かれたのが旧満州である。まず、東京から船で釜山へ行き、釜山から汽車で新京、それからハルピン、チチハル、牡丹江であった。そこで私のほかに数人の女性が選ばれて、船に乗せられて連れて行かれたのが上海であった。

 上海には既に朝鮮 女性が大勢いた。その女性たちは、「あなたはどうしてこんな所にきたの」と言いながら私を哀れんだ。私は、「お姉さんたちと同じように無理やり連れてこられました」と答えるしかなかった。

 上海では中国人の民家の2畳くらいの部屋に入れられた。部屋の前には番号が40くらいふってあって、私は12番に入れられた。その夜、将校たちが私を暴行した。それからは1日4、50名もの日本兵が私の部屋の前に列をなし、「早く早く」とせかして先を争い、入れかわるとすぐにのしかかってきた。私は起き上がる暇もなかった。

 私が最初に従わせられた軍隊は12師団で、その師団の移動に伴って私たちは引きずり回された。上海の次にはハンカオへ連れて行かれた。そこから南京、トウヨウ、キショウと、転戦する軍隊に従って中国各地を連れ回された。

 日本の軍隊のなかでも九州6師団が一番悪かった。他の日本軍は胸に標識をつけていたが、九州6師団はそでに標識をつけていた。

 私はこうして12年間も慰安婦生活を強いられたが、中でも6師団に加えられた数々の暴行は、決して忘れられない。彼らは酒に酔ってやってきて短刀を突きつけて、「おれの言うことを聞かないところす」と身体を傷つけたりした。「この朝鮮ピ~」とさげすみながら私たちを威嚇した。彼らはまた、ほかの兵士が先に入っていても、「早く出てこい」と言って脅し、先の者がまだいるのに押し入ってきて性行為を強要した。

 私は、こんな「慰安婦」生活がのろわしくなって自さつを2度も図った。2度ともすぐに発見され、生き返らされてしまった。生かしたのはアキカワという大隊長で、「この女は見ごろしにするのは惜しい、使い道があるから生かせ」と言った。私にはシを選ぶ自由もなかった。

 私は、何か言うと「ころす」と言って脅していた6師団の兵士に、ある日、覚悟を固めて「私も朝鮮じんだ。朝鮮じんの女の心意気を見せてやる。ころすならコロせ」と反抗したために縛られて、ひどい拷問を加えられた。それを見ていたアキカワ大隊長が、「それ見ろ。この女は度胸がある。使い物になるから、コロすな」と言って止めた。そのために、私は地獄のような「慰安婦」生活を続けなければならなかった。

 ある時、私は50人もの兵士を相手にして気絶してしまった。その私に彼らは「ノ~シン」という薬を飲ませて意識を回復させて行為を継続させようとした。しかし、私がもうろうとして使い物にならないとわかると、たばこに火をつけて鼻や口に押し付けるなどの屈辱を加えた。

 めったなことではたじろがない私が、恐怖に震えたことがある。それは6師団の兵士の蛮行であった。6師団の一将校が、「おれは、飽きたからお前がやれ」と連れてきたセパード犬を私にけしかけたのである。その時はあまりにもの恐怖で、さすがの私も「助けて」と大声で叫び、周囲の部屋から「慰安婦」たちが飛び出してきたほどである。

 こうした屈辱は、私BAKARIでなく他の朝鮮じん「慰安婦」たちも同じくあじ合わされたBAKARIか、短刀で傷つけられたり、中にはころされた者もいる。

 こんなことがあった。私の隣の部屋にいた全羅道出身の知らぬ間に妊娠した。彼らは妊娠しているのもかまわず性行為を強要し、ついには性行為の最中に流産した彼女のおなかを日本刀で切り裂き、出てきた胎児をごぼう剣で刺しころし、妊婦までもころしたのである。

 日本の敗戦も濃厚になってきたころ、軍人たちは、私たちが朝鮮語で話したりすると神経質になって、「日本が負けると言っただろう」と執拗に迫り、日本が負けることになったら「お前ら皆ごろしにする」と言って脅した。

 日本の敗戦が決定的になったころ、血迷った彼らは、朝鮮じんと中国人の慰安婦ら150名くらいを2列に並ばせて、「かかれ」と小隊長が号令をかけた。両端から日本刀を振りかざした兵士らが襲いかかり、皆ごろしを始めた。飛び散る血の雨に私は意識を無くして倒れた。私には3、4日くらい時間が過ぎたように思う。意識を取り戻してみたら、その血の海の中で、私のほかに2名が生き残っていた。

 はうようにして近くの中国人の家に助けを求めに行った。「私は朝鮮じんです。助けてください」と必シに叫んだ。

 中国人は数日間かくまってくれて、中国服を一着くれた。それを着て朝鮮じんの家を探して行き、そこでしばらく世話になった。8月15日の解放は、その朝鮮じんに教えられた。

 9月になってどうしても故郷の両親に会いたくて、世話になった朝鮮じんの家族に旅費を借りてやっとの思いで故郷に帰ってきた。しかし、両親は既にシ亡していた。

 私が日本人からもらったものは病気だけ。子宮はメチャメチャにされ、心臓は悪くなり、腸も悪くて下痢BAKARIして、今でも病院に通っている。

 日本軍の通った中国大陸の隅々には、犠牲になった朝鮮 女性の血がしみこんでいる。このことを知ってもらいたい。

 日本人に問いたい。立場を変えて、あなた方の娘も姉妹、妻や母が私のような体験をさせられたとしたらどう思いますか。

(キム・デイル 1916年11月5日生 黄海道沙里院市出身) 1993.2金学順さんの証言
「従軍慰安婦問題」を問う解放出版社 編解放出版社 金大日さんは故郷がピョンヤンの「花子」と呼ばれる女性が産気付くと、残忍な田中という者が、酒を多量にくらって、彼女に襲いかかった。彼は臨月間近の彼女を押し倒し、腹部を切り裂き、胎児を刀の先に刺すという悪魔のような蛮行を敢行したと証言した。(P.148)

 上海、シンガポールなどに連行され、「従軍慰安婦」生活を強要された金大日さんは、彼女が上海の「慰安所」にいた時、「そこには伝性病が流行し、数多くの朝鮮 女性が一度に命を落とす惨事が発生した。日本軍は患者たちがいる場所に火を放ち、シ体をそのまま山中に捨て、シンガポール戦闘で敗戦した残虐無道な日本軍たちは、そのはらいせに従軍慰安婦たちに銃を乱射したり、穴を掘ってその中に入れ、手榴弾でコロした」と証言した。(P.148)

(管理人注:上記内容は「朝鮮民主主義人民共和国「『従軍慰安婦』及び太平洋戦争被害者補償対策委員会」が作成した日本政府宛の告訴状(1992.9)を掲載したもの)1993.7写真記録 破られた沈黙 -アジアの「従軍慰安婦」たち伊藤孝司風媒社1916年11月5日生まれ
朝鮮民主主義人民共和国開城市在住

 私の故郷は黄海道の沙里院です。家はあまりにも貧しく、私は数え年で12歳の時、わずかな米と引き換えに、お手伝いさんとして金持ちの家に連れて行かれました。その後、日本人の経営する紡績工場に売られたのです。
 1932年のある日、「福田」という日本人に「食べ物に困らないところに連れて行ってあげる」と言われました。私は、どこに行くかもしらずに船に乗せられたのです。
 下関で船から降りると「お前は今から朝鮮じんではないし朝鮮語を使ってはいけない。名前はシズエにする」と「福田」は私に言いました。そして、連れて行かれたところは大阪の病院でした。
 私は、ここで雑役をしました。血で汚れた包帯・ガーゼや大小便で汚れた患者の衣類の洗濯など、人の嫌がる仕事BAKARIをやらされたのです。
 そして、18歳になった正月のことです。それまで、会ったことすらなかった院長が私の部屋に突然入って来て、ナイフを突きつけたのです。そして、「シズエ、俺の言うことを聞かないとシぬぞ」と言いながら、私の口をふさいで襲いかかってきました。
 そのことからしばらくたったある日、院長は「お前はこの病院に2年間も奉公したから、もっと良いところに連れて行ってあげよう」と言い、見知らぬ日本人に私を引渡したのです。1934年のことでした。その男は東京に私を連れて行き、軍隊に「従軍慰安婦」として送り込んだのです。30人くらいの朝鮮じん女性は軍隊と一緒に「満州」(中国東北地方)に連れて行かれました。東京から釜山へ渡り、汽車で新京・ハルピン・チチハル・牡丹江を転々としました。兵隊は、途中で動けなくなってしまった女性を「え~い朝鮮じんだ」とその場で刺しころしたのです。こうして数え切れないくらいの朝鮮の女性が犠牲になりました。
 そして、私と数人の女性が選ばれて、船で連れて行かれたのが上海でした。そこには朝鮮じん女性が数多くいました。彼女たちは「なぜこんなところに来たのか」と言って私を哀れんでくれました。
 軍隊が接収した中国人の民家の中は1畳くらいの広さに部屋が仕切られていて、ここに閉じ込められました。この部屋の前には1~40番までの番号が付けれていました。つまり40人の女性がいたのです。私の番号は12番でした。兵隊は1人ずつコンドームを持って来ましたが、性病にかかった女性もたくさんいました。~(中略)~
 最初の頃は、第12師団に連れ回されて上海・漢口・南京などを転々としました。私は12年間も「慰安婦」生活を強要されたのですが、その中でも九州の第6師団から受けた数々の暴行は決して忘れられません。~(中略)~
 ある時、私は50人もの相手をさせられたので、疲れ果てて倒れてしまいました。「ノーシン」という薬を飲まされたものの、意識はもうろうとしたままでした。そしたら兵隊は、火の付いた煙草を私の鼻や子宮に入れたのです。
 しかも、次の日にはまた私に襲いかかってきました。それでも満足しない将校は「もう俺はあきたので今度はお前の番だ」と、シェパード犬に私を襲うようにけしかけたのです。さすがの私も恐ろしくて「助けてくれ」と悲鳴を上げました。
 そしてこんなこともありました。私の隣の部屋にいた女性が妊娠してしまいました。それにもかかわらず、兵隊たちは性行為を強要した上に、胎児を無理やりだしてごぼう剣で刺しころし、その女性もコロしてしまったのです。兵隊は皆を集め「ほら見てみろ。朝鮮じんはシんだぞ」と言ったのです。~(中略)~
 日本の敗戦が決定的になった時、兵隊たちは私たち朝鮮と中国の女性150人ほどを2列に並ばせました。そして、小隊長が号令をかけて首切りを始めたのです。飛び散った血の雨で、私は意識を失って倒れてしまいました。気が付くと血みどろになって、私はシ体の中に埋まっていました。その血の海の中で助かったのは、私の他には2人だけでした。
 やっと起き上がって、そこから2キロくらい離れた中国人の家に辿り着きました。そこの中国人に「私は朝鮮じんです。助けてください」と必シに頼みました。家の主人は「お前を助けると私がコロされると言ったものの、家の奥の部屋で5~6日間かくまってくれました。それだけでなく、お風呂にも入れてくれて中国人の服までくれたのです。(P.96~102)

1937年から12年間も慰安婦をさせられた・・・1949年まで?

1945年に日本軍の慰安所はなくなっていますよ!

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이미 망상버릇~김·디르 위안부의 경우

◆◆◆ 금 다이니치(킴·데일) ◆◆◆


【자라난 내력·위안부가 된 경위등】

1916년 11월 5일, 황해도의 사리원에서 태어난다.집은 매우 궁핍하고, 12세(달력 나이)때, 몇 안 되는 미와 교환에 가정부로서 팔려 그 후, 일본인의 경영하는 방적 공장에 팔린다.

1932년, 「후쿠다」라고 하는 일본인에 「음식이 곤란하지 않는 토코로에 데려 가 준다」라고 말해져 오사카의 병원에서 잡무를 하게 한다.

18세 때, 거기의 원장에게 강간 되어 1934년, 원장에게 낯선 일본인에 인도된 이후, 12년간, 샹하이등에서 위안부를 강요당한다.


【위안소까지의 이동시의 공권력·군의 관여등】

병원의 원장에게 팔린 후, 도쿄에서 부산에 건너, 기차에서 신쿄, 하얼삔, 치치할, 모란강등을 경유해 샹하이의 위안소에 간다.


【고찰】

전체적으로 거짓말 수상한 내용입니다.

최초, 일본인의 남자에게 「음식이 곤란하지 않는 토코로에 데려 가 준다」라고 말해져 통상이라면, 그 후, 위안소에 넣어지는 패턴입니다만,왜일까, 일단, 오사카의 병원에서 일하고 있습니다.그리고 2년 후, 원장에게 위안부로 몰리고 있습니다만, 이유는 기재되어 있지 않습니다.(뜻)이유를 모릅니다.강간 했을 때, 거절했기 때문에입니까.

또, 샹하이의 위안소로 이동하는데, 한반도를 종단 해 만주의 신쿄를 대로,중국의 토호쿠부의 하얼삔등을 경유해 도착하고 있습니다.비정상으로 우회입니다.일본으로부터 샹하이로 간다면, 나가사키나 시모노세키로부터 배로 가는 것이 통상이지요.

아마, 오사카의 병원에서 2년간 잡무를 하고 있었다는 것은 완전한 거짓말.최초, 남자에게 속아 만주에서 매춘부를 하고 있었겠지요.그 사실을 숨기기 위해, 오사카의 병원의 에피소드를 삽입한 것입니다.그리고, 일본으로부터 직접, 샹하이에 갔던 것에 하면 좋았던 것을, 섣불리 체재하고 있던 경험이 있던 것이니까, 정중하게 만주를 경유했던 것에 해 버린 것은 아닐까요.


또, 동녀는,「전전 하는 군대에 따라서 중국 각지를 데리고 돌아다녀졌다」( 「조선 인 「위안부」)이라고 증언하고 있습니다만, 「김 마나부 순서씨의 증언」에서는싱가폴에도 간 것이 되어 있습니다.이제(벌써) 터무니없습니다.

게다가 「조선 인 「위안부」」로 동녀는,「현재는 「종군위안부」라고 말하지만 , 내가 당시 , 말해진 것은 「정신대」와 분명히 기억하고 있다.」(이)라고 증언하고 있습니다.
「종군위안부」= 「정신대」는 한국에서 일반적으로 퍼지고 있는 오인식이며,한국 정부의 공식 견해 「일제하 군대 위안부 실태 조사」에서는 명확하게 무관계한 것이다고 결론 짓고 있습니다.분명하게 「종군위안부」= 「정신대」라고 하고 싶은 정치적 의도를 가진 발언입니다.


덧붙여 북한의 원·종군위안부약속의 일본병의 잔학행위는 이하와 같습니다.

○불이 붙은 담배를 코나 자궁에 넣는다
○장교가 「나는, 질렸기 때문에 너가 할 수 있다」라고 하고 shepherd를 부추긴다
○전투로 진 울분에 위안부에게 총을 난사해 코로

하거나 구멍을 파 넣고 수류탄을 던진다
○임산부의 배를 찢어 태아를 찔러 코로 한 후, 임산부도 코로
○위안부 150명을 줄서게 해 참수


【신빙성】

신빙성 없음.겨우, 남자에게 속아 매춘부, 혹은 위안부가 된 것만으로 짊어진다.


【자료등】

년월자료명등저자출판사내용등1992.10조선 인 「위안부」재일본조선 민주 여성 동맹 중앙 상임위원회편**** 나의 친가는 너무도 궁핍했다.셈 12세 때에, 몇 안 되는 미와 교환에 부자의 집에 하녀로서 데리고 가졌다.거기로부터 일본인의 경영하는 방적 공장에 팔렸다.1932년, 셈16세인 어느 날, 이번은후크다라고 하는 일본인이 오고,「음식이 곤란하지 않는 곳에 데리고 간다」라고 말했다.나는, 또다시 팔렸기 때문에 있다.

 나는, 후크다와 함께 기차를 타고 부산항에 데리고 가졌다.거기에는 조선 여성이 20명 정도, 여기저기로부터 데려 올 수 있고 있었다.자신이 어디에 데리고 가지는지 이해할 수 없는 채로 배에 실려 하선한 것은 시모노세키에서 만났다.시모노세키에 상륙하는 것과 동시에, 후크다라고 하는 남자는, 「지금부터는 조선어를 이용해서는 안된다.만약 사용하면 죽인다」라고 위협해, 그리고 「지금부터 너의 이름은 시즈에다」라고 갔다.거기로부터 데리고 가졌던 것이오사카의 병원에서 만났다.

 병원에서는 잡무를 하게 했다.땅에서 더러워진 붕대나 가제, 환자의 대소변으로 더러워진 의류의 세탁 등, 일본인이 싫어 해 하지 않는 더러운 일은 전부 당했다.

 오는 날도 오는 날 시와 굴욕적인 취급 중(안)에서, 장시간의 노동을 강요당해 외출할 기회도 주어지지 않고, 병원의 잡무를 강요 당하고 있었다.

 셈 18세가 된 설날의 밤,병원의 원장이라고 자칭한 남자가, 나의 방에 들어 오고 나이프를 들이대어 「 나의 하라는 대로 안 되면 코로」(이)라고 위협하고, 큰 소리로 외치는 소리를 준 나의 입을 손으로 눌러 폭행했다.그 날까지, 나는 원장의 얼굴도 모르면 만난 적도 없다.원장은 「너는 아름답기 때문에, 전부터 주목하고 있었다」라고 했다.

 그리고, 당분간 지난 어느 날,원장이「너의 이 병원에서 2년이나 봉공했기 때문에,이번은 더 좋은 곳에 가게 해 주자」라고 말하고, 낯선 일본인의 남자에게 나를 인도했다.

 그 남자는, 나를 도쿄에 데려 갔다.그리고, 일본의 군대에 「정신대」로서 보냈다.거기에는 조선 여성이 30명 정도 있었다.1934년의 일로이다.현재는 「종군위안부」라고 하지만,내가 당시 , 말해진 것은 「정신대」라고 분명히 기억하고 있다.

 거기서, 군대와 함께 데리고 가졌던 것이 구만주이다.우선,도쿄로부터 배로 부산에 가, 부산에서 기차에서 신쿄, 그리고 하얼삔, 치치할, 모란강에서 만났다.거기서 나 외에 몇사람의 여성이 선택되고, 배에 실려 데리고 가졌던 것이샹하이에서 만났다.

 샹하이에는 이미 조선 여성이 여럿 있었다.그 여성들은, 「당신은 어째서 이런 곳에 온 것」이라고 하면서 나를 불쌍히 여겼다.나는, 「언니(누나)들과 같이 억지로 데려 올 수 있었습니다」라고 대답할 수 밖에 없었다.

 샹하이에서는 중국인의 민가의 2다다미만한 방에 넣어졌다.방의 앞에는 번호가 40 정도 거절해 있고, 나는 12번에 넣어졌다.그밤, 장교들이 나를 폭행했다.그리고는 1일 4, 50명의 일본병이 나의 방의 앞에 열을 이루어, 「빨리 빨리」라고 재촉해 선두를 다투어, 서로 넣자마자 덮쳐 왔다.나는 일어날 틈도 없었다.

 내가 최초로 종원 다투어진 군대는 12 사단에서, 그 사단의 이동에 수반하고 우리는 질질 끌어 돌려졌다.샹하이의 다음에는 한 얼굴에 데리고 가졌다.거기에서 난징, 트우요우, 키쇼우와 전전 하는 군대에 따라서 중국 각지를 데리고 돌아다녀졌다.

 일본의 군대중에서도 큐슈 6 사단이 제일 나빴다.다른 일본군은 가슴에 표지를 붙이고 있었지만, 큐슈 6 사단은 소매에 표지를 붙이고 있었다.

 나는 이렇게 해12년간이나 위안부 생활을 강요당했지만, 안에서도 6 사단에 더해진 수많은 폭행은, 결코 잊을 수 없다.그들은 술에 취해 오고 단도를 들이대고, 「내가 말하는 것을 (들)물어실 죽인다」라고 신체를 손상시키거나 했다.「이 조선피~」라고 업신여기면서 우리를 위협했다.그들은 또, 다른 병사가 먼저 들어가 있어도, 「빨리 나와라」라고 해 위협해, 앞의 사람이 아직 있는데 침입해 와 성행위를 강요했다.

 나는, 이런 「위안부」생활나구 되어 자권을 2도나 도모했다.두번다시도 곧바로 발견되어 살아 반등 되어 버렸다.살린 것은 아키카와라고 하는 대대장으로, 「이 여자는 제철 해로 하는 것은 아까운, 용도가 있으니까 살릴 수 있다」라고 했다.나에게는 시를 선택하는 자유도 없었다.

 나는, 무엇인가 말하면 「죽인다」라고 해 위협하고 있던 6 사단의 병사에, 어느 날, 각오를 굳혀 「 나도 조선 인이다.조선 인의 여자의 기상을 보여 준다.죽인다면 코로키」라고 반항했기 때문에 속박되고, 심한 고문을 더해졌다.그것을 보고 있던 아키카와대대장이, 「그것 봐라.이 여자는 담력이 있다.쓸모가 있기 때문에, 코로 모래」라고 해 멈추었다.그 때문에(위해), 나는 지옥과 같은 「위안부」생활을 계속하지 않으면 안 되었다.

 어느 때, 나는 50명의 병사를 상대로 해 기절해 버렸다.그 나에게 그들은 「노~신」이라고 하는 약을 먹여 의식을 회복시켜 행위를 계속 시키려고 했다.그러나, 내가 더이상 깔때기 해 쓸모가 있지 않다고 알면,담배에 불붙여 코나 입에 꽉 누르는등의 굴욕을 더했다.

 왠만한 일로는 뒷걸음질치지 않는 내가, 공포에 떨렸던 적이 있다.그것은 6 사단의 병사의 만행이었다.6 사단의 한 명의 장군교가,「나는, 질렸기 때문에 너가 할 수 있다」라고 데려 온 셰퍼드개를 나에게 부추긴 것인다.그 때는 너무의 공포로, 과연 나도 「도와」라고 큰 소리로 외쳐, 주위의 방으로부터 「위안부」들이 튀어 나왔을 정도이다.

 이러한 굴욕은, 나BAKARI가 아니고 다른 조선 인 「위안부」들도 같이 맛 합쳐진 BAKARI인가, 단도로 손상시킬 수 있거나 안에는 죽여진 사람도 있다.

 이런 일이 있었다.나의 옆의 방에 있던 전라도 출신이 알지 않는 동안에 임신했다.그들은 임신하고 있는 것도 상관하지 않고 성행위를 강요해, 마침내 성행위의 한중간에유산한 그녀의 배를 일본도로 찢어져, 나온 태아를 우엉검으로 찔러 죽여, 임산부까지도 죽인 것인다.

 일본의 패전도 농후하게 되었을 무렵, 군인들은, 우리가 조선어로 하거나 하면 신경질적이 되고, 「일본이 진다고 했을 것이다」라고 집요하게 강요해,일본이 지게 되면 「너희들모두경 해로 한다」라고 해 위협했다.

 일본의 패전이 결정적으로 되었을 무렵, 눈이 뒤집힌 그들은,조선 뭉클함 중국인의 위안부등 150명 정도를 2열에 줄서게 해, 「쓰여되어」라고 소대장이 호령을 걸쳤다.양단으로부터 일본도를 내세운 병사등이 습 있어 걸려, 모두경 해를 시작했다.흩날리는 혈우에 나는 의식을 없게 해 넘어졌다.나에게는 3, 4일 정도 시간이 지난 것처럼 생각한다.의식을 되찾아 보면, 그 피바다안에서, 나 외에 2명이 살아 남고 있었다.

 같게 해 가까이의 중국인의 집에 도움을 요구하러 갔다.「 나는 조선 인입니다.도와 주세요」라고 필시에 외쳤다.

 중국인은 몇일간이나 기미는 주고, 중국옷을 일착 주었다.그것을 입어 조선 인의 집을 찾아 가, 거기서 당분간 신세를 졌다.8월 15일의 해방은, 그 조선 인에 배웠다.

 9월이 되어 아무래도 고향의 부모님을 만나고 싶어서, 신세를 진 조선 인의 가족에게 여비를 빌려 간신히 고향에 돌아왔다.그러나, 부모님은 이미 시망 하고 있었다.

 내가 일본인으로부터 받은 것은 병만.자궁은 엉망진창으로 되어 심장은 나빠져, 장도 나빠서 설사 BAKARI 하고, 지금도 병원에 다니고 있다.

 일본군이 다닌 중국 대륙의 구석구석에는, 희생이 된 조선 여성의 피가 스며들고 있다.이것을 알아 주었으면 한다.

 일본인에 묻고 싶다.입장을 바꾸고, 여러분의 딸(아가씨)도 자매, 아내나 어머니가 나와 같은 체험을 하게 했다고 하면 어떻게 생각합니까.

(킴·데일 1916년 11월 5일생 황해도사리원시 출신) 1993.2김 마나부 순서씨의 증언
「종군위안부 문제」를 묻는해방 출판사편해방 출판사 금 다이니치씨는 고향이 평양의 「하나꼬」라고 불리는 여성이 해산기 붙으면, 잔인한 타나카라고 하는 사람이, 술을 다량으로 창고는, 그녀에게 습 있어 걸렸다.그는 임월 직전의 그녀를 밀어 넘어뜨려, 복부를 찢어져, 태아를 칼의 끝에 찌른다라고 하는 악마와 같은 만행을 감행 했다고 증언했다.(P.148)

 샹하이, 싱가폴 등에 연행되어, 「종군위안부」생활을 강요받은 금 다이니치씨는, 그녀가 샹하이의 「위안소」에 있었을 때, 「거기에는 전성병이 유행해, 수많은 조선 여성이 한 번에 목숨을 잃는 참사가 발생했다.일본군은 환자들이 있는 장소에 불을 질러, 시체를 그대로 산중에 버려 싱가폴 전투로 패전한 잔학 무도인 일본군들은, 그 화풀이에종군위안부 끊어에 총을 난사하거나 구멍을 파고 그 중에 들어갈 수 있어 수류탄으로 코로 했다」라고 증언했다.(P.148)

(관리인주:상기 내용은 「조선민주주의 인민공화국 「 「종군위안부」및 태평양전쟁 피해자 보상 대책 위원회」가 작성한 일본 정부앞의 고소장(1992.9)을 게재한 것)1993.7사진 기록 찢어진 침묵 

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