ギリシア, B.C. 6世紀, 高さ 23cm, 宝物 904号.孫基禎がオリンピックマラソン優勝負傷で受けたこのかぶとは古代ギリシアオリンピア祭殿競技(景気)の時の勝利を祈って神さまに対する感謝の意味で捧げるためにギリシアコリントで製作されたことに推定されます.
孫基禎がオリンピック優勝当時メダルとともに負傷で受けて
がかぶとは孫基禎先生が 1936年第11回ベルリンオリンピックマラソンで優勝してメダルとともに負傷で受けるようになっていたが, 当時手選手に伝達することができなかったままベルリン博物館に 50余年間保管されていました. オリンピックマラソン優勝者にギリシアが遺物を与える慣行は第2回パリオリンピック(1900年)から実施されたことでB.C. 490年アテネマラソン平原で開いたペルシアとの戦争でギリシアが勝利した後その消息を知らせるために約 4kmを駆けて来た兵士ペイデ−ピデス(Pheidippides)を称えるためのことでした. マラソン優勝者に授与された遺物は ‘ヘルメス’の胸像のような実際遺物だったし, このような遺物授与は古代遺物の流出防止領が下ろされた 2次世界大戦まで続きました. 1936年にベルリンオリンピック当時にはギリシアのブラデ−だから(Vradyni) 新聞社がかぶとをマラソン優勝者に贈り物で出したことだが, 当時アイオーシーでは ‘アマチュア選手にはメダル以外にどんな贈り物も公式的に授与することができない’と言う規定を根拠で孫基禎にこのかぶとを授与しなかったのです. しかも孫基禎はマラソン優勝者にメダル以外に授与される負傷があるという事実が全然分からなかったまま帰国しました. 当時日本は植民地出身優勝者の権利を代弁する意志が全然なかったから孫基禎先生にこの事実を知らせてくれるとかアイオーシーに建議しなかったし, 結局この事実は歴史の中につけてしまいました.

50余年が経った後取り戻したかぶと, 西欧遺物では初めて宝物と指定
それから 40余年が経った 1975年孫基禎先生は偶然にアルバムを整理している途中 1936年ベルリンオリンピック直後に日本役員からもらった写真の中に自分がいただかなければならない負傷でギリシアかぶとがあったことを分かるようになりました. その後先生はこのかぶとの行方をうわさをたよりに捜したあげくベルリンシャロテンブルグ(Charlottenburg) 博物館に展示されていることを確認して返還を推進するようになりました. 当時ベルリンシャロテンブルグ博物館に展示されたこのかぶとの説明版には ‘ギリシアコリント時代のかぶと / マラソン勝者のためにアテネのブラデ−だから新聞社が提供した記念像 / 第11回ベルリンオリンピック 1936年 / ソンギテイ(孫基禎の日本語表記) / 日本 / 2時間 29分 19秒’とドイツ語に明示されていたと言います.
かぶとを返還受けるための努力はその後 10余年間続きました. 返還のための努力には国内言論社と大韓オリンピック委員会はもちろんかぶとを負傷で出したギリシアのブラデ−だから新聞社とギリシアオリンピック委員会が先に立ちました. ドイツオリンピック委員会はこの期間の間絶対返すことができないという立場を取ったし, 代わりに複製品をくれるという提案をしたりしたが孫基禎先生はこれを拒否しました. そうして 1986年ベルリンオリンピック開催 50周年を記念してドイツオリンピック委員会で用意した記念行事でかぶとを孫基禎先生に憲政する事にしながら返還受けるようになりました.
50年ぶりに主人の手に帰って来たギリシアかぶとはたとえ外国の遺物ではあるが 2千 6百年の前に作られたことで, 日帝強点期の暗鬱な時期に我が民族の矜持を高めてくれたベルリンオリンピックマラソン優勝者の負傷品という歴史的価値を高く評価して 1987年西欧遺物では初めて宝物(904号)に指定されました. 以後孫基禎先生は ‘このかぶとは私の物ではなく, 我が民族の物’という意思を表明して 1994年国立中央博物観に展示されることができるように国家にこのかぶとを寄贈しました.
ギリシアが用意した負傷でギリシアがドルリョズだというのにドイツがどうして与えないとしたことか..