■第50回鎮海軍港祭【2012年】
50回目を迎える韓国最大の桜祭りが4/1から開催
http://www.pusannavi.com/special/5039863
韓国でも春になると日本と同じように
桜の花が咲き乱れます!
釜山市内でもあちこちで桜が咲き、
釜山の春を感じることができますが、韓国最大の桜の名所はなんといっても釜山から車で約1時間ほど西に行ったところにある近郊の町・鎮海(チネ)!
ここでは毎年4月に国内最大の桜のお祭り「鎮海軍港祭」が開催され、
釜山旅行とあわせて鎮海の桜を見に行かれる方も多いはず!
街全体がピンク色に染まるこの時期はシーズン通して
鎮海観光に最適!
(引用終わり)
常日頃、
「日本に植民地にされたnida!」
「日本に搾取され続けてきたnida!」
「日帝の残骸は、全て壊すnida!」
と、火病を起こして喚き続ける南朝鮮の皆さま、
その軍港は、誰が造ったのかな?
その桜の木は、誰が植えたのかな?
■鎮海軍港の建設
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8E%AE%E6%B5%B7%E5%8C%BA_(%E6%98%8C%E5%8E%9F%E5%B8%82)#.E9.8E.AE.E6.B5.B7.E8.BB.8D.E6.B8.AF.E3.81.AE.E5.BB.BA.E8.A8.AD
1904年2月、日露戦争開戦に際して日本海軍は
鎮海湾一帯を掌握、巨済島で海軍根拠地の建設が
行われた。
鎮海湾は日本海海戦に際して連合艦隊の集結地となった。
日露戦争後、鎮海湾に軍港を建設する計画が進められた際、
現在の鎮海軍港の場所が選定された。
1910年から鎮海軍港と都市の建設が開始された。
この地域は行政的には1908年以降昌原府の管轄下となっていたが、
1911年に軍港一帯は馬山府に属する「鎮海面」として
編成され、1914年に昌原郡鎮海面となった。
当初は鎮守府を設置する計画で軍港と市街地の建設が進められ、
1916年に鎮海要港部が設置された。
以後、鎮海は日本海軍の軍港都市として発展し、1931年には
鎮海邑に昇格した。
市の中心部にあるロータリーをはじめ、随所に
往時の日本の都市計画の姿を偲ぶことができる。
・韓国海軍の軍港都市として
日本の敗戦後、鎮海の海軍施設は、大韓民国海軍の
前身である朝鮮海岸警備隊によって利用された。
1946年には海軍士官学校、1949年には大韓民国海兵隊が
設立されている。
(中略)
・鎮海の桜
日本海軍は鎮海の都市建設に際して、
景観や土地保全のために梅や桃・松など各種の樹木を
大規模に植えた。桜もそのひとつである。
桜は海軍のシンボルとしてその後も植樹が進められ、
1920年代半ばまでに鎮海は
桜の名所として知られるようになった。
1926年の鎮海線開通後は花見の季節に
臨時列車が運行された。
日本の敗戦後(朝鮮の解放後)、桜は日本の国花であるとして、
大半が伐採された。
しかし1962年、桜(ソメイヨシノ)の原産地が韓国(済州島)だ
とする説が紹介され、
「桜は日本から入ってきた樹木ではなく、
元来わが国の土壌で自生したもの」
とするイメージが広められたこと、1974年4月の朴正熙大統領
命令によって桜の大植樹運動が展開されたことで、
現在の鎮海の桜が復活した。
(引用終わり)
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日本海軍は、建設当初2万本の桜を植樹した。
1910~16年に、合計10万本の桜の苗木が植樹された
ことが記録されている。
1926年末に、朝鮮総督府が完工した鎮海線開通後、
花見の季節には鋲海行きの臨時列車が運行され、
京城・大邱・釜山方面からも団体観光客が訪れるように
なったという。
当時、鎮海には「桜祭り」と呼ぶような特別の行事は
無かったが、4月初旬の桜の開花期には朝鮮各地からの
花見の客で街中にぎわったという。
戦後、「桜=日本を象徴する花」という見方から、
神社をはじめ官庁・兵営・学校・公園、桜並木の多くは
次々と伐採された。
日帝の残骸として桜の木を伐採してナショナリズムを
煽ったのだが・・・
解放後の経済的な混乱にともない、燃料不足も深刻化し、
実は、桜の木は格好の生活用燃料となったのですよ。
そりゃ、日本は半島に数多くの植林をしましたから
それを「日帝の残骸」の樹木は切ってヨシなんてしたら・・・
北朝鮮の民衆ように生活燃料として野放図に切りまくり

あっという間に元の朝鮮に戻ってしまう・・・

この現象を裏付ける記録が、
http://blog.goo.ne.jp/think_pod/e/e42c929ee3045200bc321c3bd32e9f8b
韓国政府の機関がまとめた『韓国林業50年史』
という本には、次のような記述があります。
植民地統治方法の一つとして
山林警察制度を導入して取り締まり、
規制主義で実施された他律的な山林保護政策は
日帝に対する我が民族の反感を刺激することで
抵抗表現としての山林破壊行為が正当化された。
長期間このような意識が韓国民に存在することで
自然に罪の意識なく利己的に山林を利用する行動が
固着化されてしまった。
つまり、
「日帝が森林保護のために
山林を厳しく取り締まったせいで、
『森林を荒廃させる行為=日帝への抵抗表現』
となってしまったニダ!」
と、韓国人が主張している、というわけです。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
そして、突然・・・
1962年に「王桜=ソメイヨシノ」説を発表
(韓国の学界は済州島の王桜は、漢拏山中に自生する山桜や
ミヤマザクラの自然交配によってできた雑種であると
確定しているのだが・・・)
1974年4月に
朴正熙大統領命令によって
桜の大植樹運動
この時、日本から大量に桜が輸入されて植樹した。
1966~81年に、多くの在日韓国人や日本人の寄付で、
59,300本もの桜の苗木が植樹されている。
■汝矣島派手な桜植栽には...
日本 "黒い下心 "があったか
http://www.segye.com/Articles/News/Article.asp?aid=20060403000571&cid=0101090200000&dataid=200604031553000162
1960年代半ば以降、国内各地で大々的に行われた
【桜の植栽】に、在日同胞と日本人が組織的に介入した
事実が明らかになった。
以下、要約すると
朴正熙大統領政権下で行われた桜の植樹運動に関して
在日韓国人のほかに日本人が組織的に介入したのは
「日本の腹黒い野心があるのでは?」
と資料を探し、当時を知る人の証言を検証したら
見つかったのがコチラの寄付者名簿

1966年から1980年代半ばに至るまで、在日同胞と日本人が
桜の苗木約6万本を鎮海市寄贈した。
ここには在日同胞10人と、日本の中堅ジャーナリスト、
植物学者、旅行会社幹部など日本人15人、電子会社富士通、
東京航空など9つの日本企業が協賛したと記録されている。
寄贈を主導したのは、在日同胞ムン・テイル(日本埼玉県在住)
名簿の下段に書かれた【文泰一 NHK】です。
彼は当時、NHKでニュース番組の進行を務めていた。
ムン(文)さんは日本人と日本企業の協賛について、
「親しいジャーナリストと企業の協力を要請し、
名前だけ貸してもらっただけで、
実際にお金を出した人ではない」と話した。
これに対して
ファン・ピョンオ韓国文化遺産政策研究所長は
「日本の不純な意図が介入した"文化的侵略 "」とし
「"存在が意識を規定する "という話のように、
日本が韓半島内で自分たちの過去(侵略者としての)
文化的郷愁を実装するための欲が隠されている」
と主張した。
さてさて、長くなりますが
ここからが本題です!
朴正熙政権は、韓国の経済発展の為に
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%B4%E6%AD%A3%E7%85%95

「日本と手を結ぶ以外に道はない」として
反日活動を締めつけ、日本と国交樹立、条約締結を
推し進めた大統領です。
日韓基本条約で、日本からせしめた巨額資金を元手に
工業化や農村部でのセマウル運動など次々と強権で
政治を推進しました。
その一環となったのが、桜の植樹運動です。
★韓国民団の歩み
http://www.mindan.org/shokai/ayumi.html
祖国発展のために

韓国政府の公認団体として、民団は本国と
在日同胞との架け橋の役割を果たしてきました。
36年間にわたる日本帝国主義の植民地支配と
同族相殺の韓国戦争で荒廃した祖国の発展に
尽くそうと、祖国のセマウル運動に歩調をあわせた
73年の「60万人のセマウムシムキ運動」では、
祖国の山々への苗木植樹や150カ所の郷土集落との間で
セマウル姉妹結縁を結びました。
(記事は前後しますが)

75年からは「総連系同胞の母国訪問事業」を
実現させました。
「朝鮮籍」のまま臨時パスポートで韓国の故郷を
訪問するもので、これまで約5万人の総連系同胞が
韓国を訪問し、肉親との再会を果たしています。
★「セマウム(新しい心)運動」について
http://worldwideweb01.blogspot.jp/2009/09/7.html
不思議なことに、植樹ボランティアを端緒に、
お墓参りなどの母国訪問事業を充実発展させた結果、
民団と総連の人口比率が
見事に逆転しているんですね。
不法入国して永住許可を得た在日韓国人たちが、
セマウム運動という植樹ボランティアで
里帰りして家族に会い、日本に堂々と連れてくる。
そのうち省墓団事業なども認められ、
その枠が拡大して行く・・・
もしかしたら、実際は家族でない者を入国させる事例も
あるのかも知れませんね。(略)
ちなみに、この「セマウム運動」で里帰りに使われたのは、
下関-釜山を結ぶ「関釜フェリー」です。
こんなものを参考に紹介してみます。
第080回国会 法務委員会 第7号
昭和五十二年四月一日(金曜日)より一部抜粋
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/080/0080/08004010080007a.html
本年の集団不法入国事犯のうち、特異なものとしては、
関釜フェリーを利用(通関済みのコンテナー搬送用車両
の車軸の上に潜伏)した事案が、昭和四十五年回フェリー
就航以来初めて検挙されたほか、日韓双方の密航ブローカー
が緊密な連絡をとり、密航者を洋上で日本船に積みかえた上、
自動車を利用して搬入した大がかりな組織的事案が二件
検挙されている。
すなわち、十月十日福岡県博多港において、対馬から
入航した定期フェリーに積込まれたトラックに潜伏中の
密航者三十三人が、また十一月十一日大阪市内において、
福岡県苅田港から大型保冷車で搬入された密航者四十人が
それぞれ検挙されている。
となっております
この「関釜フェリー」の社長は、瀬戸弘幸さんの大恩師
である児玉誉士夫氏の側近中の側近、町井久之氏です。
本名は鄭建永(チョン・ゴニョン)、
「銀座の虎」「雄牛」という通り名で呼ばれた人です。

民団の中央本部顧問であり、東声会(東亜会の前身)
という反共団体(実質的に暴力団)の組長という
人物でもあります。
(因みに、ロッテの重光会長は町井の子分)
朴政権が「セマウル運動」を開始する少し前
「関釜フェリー」の事業認可を受けて社長に就任、
「セマウル運動」開始直後には、民団の中央本部顧問に就任。
ほどなく、「セマウル運動」と連携する形の「セマウム運動」
が始まります。非常に良く出来たお話ですね。
(引用ここまで)
一連の流れを、おさらいすると
・戦後、日帝の残骸の桜の伐採運動が盛り上がる
・李承晩ラインによって日本人漁民が拉致される
・1961年 軍事クーデター
・1962年 突然ソメイヨシノは済州島王桜原種説発表
・1963年 朴正熙が大統領就任
・1966年~
民団が多額の寄付を集め植樹ボランティア開始
寄付集めには、NHKの報道部の在日韓国人が
知り合いのジャーナリスト達に協力を要請する
・1973年 民団「60万人のセマウムシムキ運動」
・1974年 朴正熙政権の命令で桜の大植樹運動が展開
・1975年 総連系同胞の母国訪問事業開始
「関釜フェリー」で里帰り→家族を日本に呼び寄せる
ついでに日韓双方の密航ブローカーが緊密な連絡をとり、
大量の韓国人密航者を日本に搬入
時は流れ・・・
DNA解析でも別種と解明されている王桜原種説を
毎年毎年、持ち出してきては
「ワシントンの桜祭りが苦々しい!」
「50周年をむかえた国内最大桜の花祭りの鎮海軍港祭」
日本の真似をして、桜祭りやお花見、桜の開花予想をし
鎮海の桜は、日本の吉野の山の10倍もあって
凄いだろう!日本に勝っているnida!
と、自画自賛しているのである・・・
おまけ
【日本が鎮海に軍港を作った理由】
日韓併合前の朝鮮半島
★朝鮮の租界
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Lake/2917/sokai/korea.html