こういうニュースがいま流れてますね.
米ニューヨークタイムズ(電子版)は8日、韓国の元慰安婦のグループが、1960年代から80年代にわたって米兵との性的行為を強制されたとして、当時の政府指導者に謝罪と賠償を求めて告発したと報じた。このグループは組織的な慰安施設の設置に直接的に関与したとして、米軍と韓国政府をあわせて告発した。
記事本文の続き 同紙によると、元慰安婦のグループは朝鮮戦争後、韓国に駐留していた米軍の基地近くにあった慰安施設で米兵を相手にした売春を強要されたと証言。一帯では、米軍の憲兵隊と韓国当局者が施設を見回り、番号札を使って性病に感染したとみられる慰安婦を排除しており、性病が疑われた女性は警察当局が、窓に鉄格子がはまった「モンキーハウス」と呼ばれる施設に収容し、快復するまで治療が施された、と証言している。
同紙は、韓国の専門家が、当時の韓国政府は米軍の撤退を恐れており、それを防ぐために手段を選ばなかったと指摘しているとし「慰安施設には韓国政府と米軍の積極的な関与があった」とする別の専門家の談話を伝えた。
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/world/korea/210785/
韓国の連合ニュースでも報道されているようです.
これの参考資料として,一年ほど前のハンギョレの関連記事を下に上げておきます.ちょっと長くて誤訳も多いですが参考になると思います.これを見た限りでは国による売春の強制性を主張するのは難しそうですね.米軍の関与もどこまで積極的にあったかかなりあやしい印象を受けます.ハンギョレですら
”どんなお婆さんたちは自発的にこの事を選択したし、またどんなお婆さんたちはフィブスルリョがギ(訳注:ちょっと意味わからず)もした。 抜ける機会があったにも慣れるによってそのまま残ったお婆さんたちもいる。”
と後ろのほうで書いてます.また,
”国家の代わりをして現場監督役目を一人々は米軍の営業停止命令を受けないように心を労し気を碎いたクラブ事業主たちだった。”
と,韓国人の事業主が自ら監督をしていたことが書かれています.上の記事に書かれている
”一帯では、米軍の憲兵隊と韓国当局者が施設を見回り、番号札を使って性病に感染したとみられる慰安婦を排除しており...”
とは,だいぶ様子が異なりますね.まあ,ハンギョレの下記の記事が正しいか正しくないかはわかりませんが,複数の資料を検討して考えることは意義あることだと思います.
以下ハンギョレの記事より
http://www.hani.co.kr/arti/society/society_general/265605.html
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軍隊と国家が巨大な抱主(訳注:女郎屋の主人)だった
“忘れることができなくて私を軽蔑したママの目つきを”
ハンギョレ21
基地村お婆さん 51人アンケート調査…国家は米軍要求どおり女性たち管理した ‘巨大な抱主’
2008年平沢は搖れている。 在韓米軍基地の 2012‾2013年平沢以前計画が出た後、 あらゆるバラ色構¥想たちが零れ落ちた。 開発地区の地価は聳えたし、 市内あちこちには ‘スーパー平沢’ ‘国際都市平沢’ などのピョルチムマックがはためく。
米軍部隊キャンプハンプリー(K-6)がある平沢安定里にも再開発願うことが迫った。こちらで数十¥年の間米軍を相対した ‘基地村お婆さん’ 59人は路地奥深い所で息を殺してこの望むことを見守っている。 一生 ‘出口ない生’を買った人々は生存の最後の堡塁である一部屋でさえ押し寄せるか心配している。 <ハンギョレ21> が平沢安定里に住んでいる ‘基地村お婆さん’ 51人の話を聞いた。 編集者
1月8日寒い夜だった。 京畿道平沢市安定里 10余個のクラブが火を灯した表¥通りで 5分頃歩いて行った。安物な 2階位のセメント建物 1階. 青色ペイントがぽつりぽつりとはげた引き戸木大門を押した。力を込めてもよく開かれないでぎしぎし距離(通り)期だけした。 辛うじて門を開いて立ち入ると前がまっ暗だった。 0.5坪(1.6平米) 台所だった。 壁を手探りしてスィッチを捜したが火はともらなかった。 “お婆さん”を呼ぶと内側また他の障子がゆっくり開かれた。やっと明りが映った。
家賃部屋でも追い出される状況
訪問前赤黒い煉炭ボイラー横に煉炭 20余職人積もっているのが目に入って来た。 金貴子(78・仮名) お婆さんは喘息がひどくなってもヶ月目病院にある途中この日退院した道だった。 お婆さんの一部屋化粧台鏡には 60‾70年代ハリウッド女俳優のように頭を脹らましてあげた若い時代の白黒写真が置かれている。 写真の中の ‘彼女’はたおやかな表¥情でほほ笑みを含んでいる。 金お婆さんは喘息のため一言して一度に呼吸して、 また一言して一度に呼吸した。
“1963 年だったろう。 ユンボックフィがミニスカート着る前に私が先にミニスカート着てブーツ申¥告平沢劇場を歩き回ったの。あの時パラダイスクラブ寄主(門番)した人が今もここに住むのに、 私を見れば冷やかす。エイ(A)級花嫁だったその金マダムがおいぼれがすべてなったと….” 1951年 21歳に結婚した金お婆さんは子が立ち入らなかったと言う。 “代を切るつもりなら私の発露ナがダルだと”は姑の聖火に 1年ぶりに家で追い出されて、 釜山米軍部隊中クラブのウエートレスに就職しながら ‘基地村生活’を始めた。
‘子が生む事ができない’と言った彼は何年後嘘のように妊娠した。 米軍の児だった。 金お婆さんは “子の立ち入らなかったことが私のせいではないのに追い出されたのが悔しくて”と言った。 生まれた子を “持って” 前夫と姑を尋ねて計算したりした。 クラブウエートレス生活、 マダム生活、 米軍との同居など 40余年の基地村生活が金お婆さんに残したのは月 8万ウォンの一部屋と喘息・骨粗鬆症・胆石症と、 6歳になった息子を入養送って食べた睡眠薬 28錠の記憶と、 2年前 32年ぶりにまた会った息子ジェイムズだけだ。
金お婆さんのように ‘基地村生活’を一お婆さん 59人が相変らず米軍基地キャンプハンプリー(K-6)がある平沢市安定里に住んでいる。 毎週火曜日午後 2時なら、お婆さんたちは安定里ペンソ¥ン邑にある日ざし社会福祉回で集まる。 安定里に住んでいる基地村女性年寄りの面倒を見る活動をする団体だ。 8日にも間違いなく集まったお婆さんたちは “など付けるに値する、去らなければならない不安感なしに住むことができる家一軒だけあったら良いだろう”と言った。
<ハンギョレ21> は 1月4日から 11日まで日ざし社会福祉回とともに安定里に住んでいる基地村女性年寄り実態調査をした。 59人の中 51人のお婆さんがアンケートに応じた。文を読むことができない人々が大部分なので、 いちいち質問項目を読んでくれて返事を聞いた。 3人は頑として拒否したし、 5人は避けるとか連絡にならなかった。
回答した人々の 96%である 49人のお婆さんが安定里で独身生活をしている。 我が国の 65歳以上年寄りの中で独居年寄りの割合は 18.1%(2005年統計庁総調査人口)であるところギョンズォ五つ倍程高い。他の年寄りたちよりずっと ‘疏外’になった与件で暮していることを見せてくれる。 独身生活をするお婆さんたちは大部分宿借り世話だ。 90%である 44人のお婆さんたちは借り家・ワルセサルイをしていると回答した。 家賃部屋に住むお婆さんたちの平均貸し賃は 13万2200ウォンだ。
お婆さんたちはこの家賃部屋でさえ押し寄せる危機にある。 平沢米軍基地以前事業が 2012‾2013年完了を目標に進行されるによって米軍基地予¥定地周辺人安定里地価がしきりに上がっているからだ。 10万ウォンの家賃部屋に住むチョーン・ミョンオク(69・仮名) お婆さんは “この家も売れて 1‾2年の内に出なければならない”と言った。 7世帯が住んだスレート屋根建物にはこれからお婆さんを含んで 3世帯だけ残った。
米軍要求で人種差別禁止
新しく来る米軍に家の跡地を渡さなければならないかも知れないお婆さんたちは、若い時代にはその米軍たちにより良い ‘サービス’を提供するように管理されて規制された。 代表¥的なことが 1971年始まった性病検診だ。朴正煕政権が 1971‾76年 ‘基地村浄化事業’の一環でした事業で、 当時 ‘基地村女性たち’は一週間に二度ずつ出勤道場押すように性病有無を確認受けて ‘保健証’にはんこを押さなければならなかった。
黄貞淑(63・仮名) お婆さんは検事受けた記憶を思い浮かびながら眉をひそめて肩をすくめた。 “今 ○○薬局院長があの時保健所長だったの。女が検査する時もあったがそのお爺さんが検査する時なら耳掻きで子宮をどんなにぎゅっと押すのか、 とても痛くて恥かしかったの。そのお爺さんは私たちを ‘汚い両色の時’と考えたようで。 それで軽く押しても良いことをブロぎゅっと押すようだったの。” 検事で不合格判定を受けたお婆さんたちは ‘収容所’と呼ばれる所に引かれて行った。 ‘性病管理所’をお婆さんたちは ‘監獄’ ‘収容所’だとブロッダ. “パンティーチォがリいくつ安くて行ったの。 三日で四日でそこで仕方がなく与える薬飲んでいることなの。サンゴ−ルチァックにあることに、 そこ閉じこめられているのがなんか好き。 逃亡もたくさん出て、 早く出ようと守る人にお金もくれてそうだった。”
米軍の性病予¥防などを目的に韓米軍政府の要求で出発した基地村浄化対策で恩恵を受けた人々は米軍だった。性病を移す ‘主犯’で管理・規制された対象は基地村女性だった。国家の代わりをして現場監督役目を一人々は米軍の営業停止命令を受けないように心を労し気を碎いたクラブ事業主たちだった。 軍隊と国家が ‘巨大な抱主’だった。
安定里で抱主たちの規制はもっと荒かった。 1971年 7月黒人たちがクラブ内黒人差別を問題視してクラブを歩き回って韓国人を殴って器物を壊した事件が起こった。 住民 80余人が負傷された ‘安定里事件’だ。 当時黒人たちの暖冬は ‘領内’の黒白葛藤を ‘営外’でひいて出た側面が大きかった。 ‘甘い’ クラブと韓国人たちを相手で腹いせをしたわけだ。 実際当時クラブたちの中には黒人米軍が行く所と白人米軍の行く所が仕分けされたし、色によって出入りが統制されたりした。 どんな色の米軍を相対するのかによって女性たちの間でも ‘階級’歯軋りされた。
この事件で米軍政府は十¥日間軍人たちの外出を禁止した。 ソ¥ンヤングスン(65・仮名) お婆さんは “花嫁生活しながら一番大変だった時があの時だって。 抜く主に一日儲けて一日暮らしたの。 ところで米軍たちが出ないからどうする。暮らす道が漠漠だったか”と言った。 この事件後に米軍はクラブの人種差別を強く規制したし、 米軍政府の ‘営業停止’ 命令の威力が分かる抱主たちはここに充実に従った。 キャサリン門アメリカウェスルリデハック教授は彼の本 <?? ?? ??> (麻である発行し)で “在韓米軍司令部代表¥たちがクラブ事業主、 従業員、軍人そしてそのほか基地村住民に人種差別と係わった教育の必要性を申¥し立てる会合を定期的に持った”と書いている。米軍は人種差別禁止命令を下したし、 外務省はこれを指針と発表¥したし、 事業主たちはこれを充実に従った。
数字だけ分かってもハロ、 ハロしたか
ユンボックリェ(51・仮名)さんは黒人軍人との性関係を強要受けた記憶を思い浮かんだ。 “頭からツマ先までいちめん真っ黒じゃないの。 身にカムザングが埋めようかベッドの上を上がった下がったと言ってから、戸外に飛び出したらそうね抱主が待っているの。 打たれてまた入って行って。”
米軍と韓国政府間の決定が基地村女性ひとりひとりの生に及んだ影響はこれだけがない。女性たちは事業主たちの多様な要求を受け出さなければならなかった。 ユンボックリェシは事業主たちが渡したコデインシロップをたくさん食べた。ユンさんは “米軍たちと関係をする時痛ければお酒に入れて飲みなさいと抱主たちが与えたの。 他の薬たちも与えたの。すべて風邪薬なのに飲めばピョングがで不真面目に笑うようになって自信感も生じて痛いことも忘れて”と言った。 ユンさんは “そうして中毒されて私たちが直接薬局行って買って食ってそうだった”と付け加えた。風邪薬で使われるコデインシロップはモルヒネ成分が入っている一種の痲酔剤だ。
ユンさんは三十¥歳に ‘両色の時’ 日を辞めた。 子供を十¥一番目知遇古書だった。 “子供ができたと言えば抱主がその道で私を連れて病院へ行って子を消してくれたの。 それでは何をして。そうしてからまたその晩私の部屋に米軍を押し入れたが。” ユンさんはそのように熱した番(回)の手術をしたら、男手が身に触れることだけでも身震いをされると言った。 ユンさんがその後にした事は工事現場荒仕事だ。 “かえって荒仕事が気楽だったの。人々が言うよ。 ‘両色の時’ している途中工事現場で働く人は初めに見ると。 それとともに私が好きに見てくれたの。”
ユンさんは今腎不全症、 喘息、 高地血症などでどんな事もできない。 体重が 2年前より 15kgが吹いている。 息切れがして外に出て歩くこともできなくて、 一日中部屋に座っているとか横になっている。 意思は ‘鬱病’ 診断も下った。
ユンさんがそれさえも荒仕事ができたことは肉体的条件になってからだった。多くのお婆さんたちはかつて健康を失った。 基地村で発ちたくても、 他の事をして見たくてもそれさえ易しくなかった。 1999年まで ‘ヒパリ’(クラブに属しないで米軍を相手で一人きり性売買をする年を取った女性を意味する隠語)をして儲けが良かったという姜令嬢(73・仮名) お婆さんがしたかった事は旅館計算台で計算する事だった。 あまり難しくないようなその事がお婆さんには ‘はるか遠い夢’だった。 “それなら身大変ではないようにできるようだったの。 ところでそれは一つする時も ‘1、 2、 3、 4’ 数字も読むことができなければならないし、 字もちょっと分からなければならないんじゃないの。 私が数字学んで時計を読めるようになったのが 3‾4年前なの。 教会通い始めながら十¥一租を出さなければならないのに、 どの封筒が私の封筒なのか分からないから教会人々が教えてくれていたって。以前には誰も教えてくれなかったの。 教えてくれと言って言葉も言えなくて。 私が ‘1、 2、 3、 4’だけ分かってもそのように ‘ハロ、ハロ’ 叫ばなかったのか分からない。” お婆さんはしきりにタバコを吸いながら言った。
違う ‘できる仕事’がなかった時代にはそれで米軍と結婚するのが夢だった。 金貴子お婆さんは “米軍と結婚することができなくて自殺するお嬢さんたちも多くの人見た”と言った。 “今は文房具に変わった道の向こう側家に暮した女は顔が本当にハンサムだよ。 結婚しようという米軍がいたの。 ところでなぜか。ある日からこの米軍が給料日にも出なくて、 連絡もならないの。 結局女が壁に自分の頭をどんどんついて脳震蕩で死んだの。 自殺したのよ。”
子供を送って薬を飲む
米軍と結婚してもアメリカ生活が易しくさえなかった。米軍と結婚して一緒にアメリカへ行って子供二人を生んだチョーン・ミョンオクお婆さんは結局子二人を置いて帰って来た。 “ご主人がお酒をあまりにも飲んで別居するようになったし、以後市民権を得なければならないのに保証をしてくれるという詩集家族たちがすべて断ったの。結局保証人を求めることができなくて市民権得るのをあきらめたし、 不法でずっとアメリカにあることができないから韓国に来たの。赤ん坊アドルタルは彼らお婆さんに置いて来たの。 帰ったところで内のできる仕事は ‘両色の時’ ことなのに子たちをよく育てることができなさそうだったの。” 前お婆さんは韓国に来て、以前に生活したこちら安定里にまたわウエートレス仕事をした。 帰って来たその日から子供達が目の前にゆらめいた。 “子たち考えに堪えることができなくて夜に眠られなかったの。 あの時から麻薬をしたの。 私もして、 密かに売ったり。 ” 麻薬販売をして摘発された前お婆さんは檻生活をしたりした。
多くのお婆さんたちの大きい傷の中で一つは ‘子供’だ。子供を送って睡眠薬数十¥錠を飲んで自殺を試みたという人々が多かった。 <ハンギョレ21> の調査でアンケートに回答した 51人のお婆さんの中で 17人が “米軍の子供を生んだ事がある”と返事した。
子供を生んだお婆さんたちの中で 14人は子供を入養送った。 黄貞淑お婆さんは “うちの子供は黒人混血だったの。紆余曲折あげく生んだが育てる道が漠漠なの。 子をねんねこに包んで実家ママに行ったの。ところでその時私を軽蔑したママの目つきを忘れることができなくて”と言った。 “私のママからそのように私たちをアップスイボヌンデ世の中はいかばらりである? 勇気がなくて入養送ったの。 どこかでよく暮らしていることだ。” 丁銀様(69) お婆さんは子供が大きくなった中学校の時には入養送った。 “私が立ち込めて暮したかったの。 我を張って育てたの。ところで学校生活が問題だったの。 子供達がトイレ行く度に冷やかすから子がトイレが行けなくて机にだけ座っていたことだ。 真冬だった。学校トイレが行けなくてズボンにゆばりを垂らしたようで。 家へ来たがその寒い冬に、 そうね、 ズボンがかちかちに凍っていてからは…. どうする。 (入養) 送らなくてはならない。” 周辺でもすべて入養を勧めた。 子供を生めばパール・バック財団や大韓社会福祉回みたいな所から尋ねて来て “韓国で混血児をよく育てるのは大変だ”と言いながら入養を勧めたりした。
お婆さんたちは傷が多い。 それで人々とグァンギェメッギを苦しがる。 最近 4年の内に引っ越しをおおよそ 17人のお婆さんたちの中で 6人が “住民との不和”に引っ越したと打ち明けた。 ちょっとしたものなどがお婆さんたちにはすべて言い争いになる。オダルフィ(70・仮名) お婆さんは “キムチを与えるのにちょうど盛ったキムチを与えなくてすべてスィオパジンガールチゲこしらえて食べなさいと与えることだ。 私を無視するの、何か?”と言いながらモンゾッボン家主に対してハンソ¥リした。 ‘ボロックゼングが’であるイチァンナム(70・仮名) お婆さんは隣りと言う時は神経を逆立てるせいに眉間がしかめられる。 “今は減るが、 何年前だけでも人々に両色の時のことティー出さないように、口から流れ出る英語単語を書かないように物凄く労力したの。”
国家が責任を負わない間…
1月8日昼食席でも食事を準備中のボランティアたちにお婆さんたちの ‘小言’が零れ落ちた。一ボランティアが大根を切ると言うがつまみ食いをするのを見てからはイチァンナムお婆さんがいきなり大声を出した。 “切ったことを汚なくズウォモックウなら私たちがどうやって食べる?” 結局このお婆さんはこの日結局食事をしなかった。パンを誰がもっとたくさん食べたのか、 洗剤・靴下みたいな記念品が誰にもっとたくさん行ったのかなども主要関心対象と同時に紛争の種子だ。 5年目日ざし社会福祉回でボランティアをしているユンアムゲボランティアは “お婆さんたちが傷が多くて自分がこれ以上けがをしないために先に怒るようだ”と言った。 ユンさんは “それでもマウムギョルは細かくてとても純純だ”と付け加えた。
お婆さんたちを被害者にだけ眺めることは基地村女性を呼ぶ単語の前に ‘羊’首をする付けて彼らを周辺化したことと違わない。 どんなお婆さんたちは自発的にこの事を選択したし、またどんなお婆さんたちはフィブスルリョがギもした。 抜ける機会があったにも慣れるによってそのまま残ったお婆さんたちもいる。しかしどんな理由に入って来たなら終りは似ていた。 お婆さんたちには ‘出口’がなかった。 これらの本当に名前は “貧しくて力無い女性”だった。国家は、 共同体はこれらにどんな意味だろう。
今お婆さんたちの席はフィリピン女性たちが満たしている。 アンゾングエ(49) 真実仲直りのためのすぎ去った事整理委員会調査官は “国家が謝罪しないで責任を負わない間、米軍基地近くで国家と軍隊と家父長の三角同盟による女性搾取は続いている”と言った。 昨日のお婆さんたちの話はそれで今日も現在進行形だ。
あの時レインボー77を食べなかったら
ソ¥ウルで金儲けしに来て行って基地村に立ち入ったツェスックフィお婆さん事情
ツェスックフィ(66・仮名) お婆さんは歌を歌った。 “ユスラウメ木井戸の周りに町内娘浮気をしたな….” お婆さんが安定里へ来たことは 18歳の時だ。 忠清道水徳で耕作して暮していた。 ある日ソ¥ウル住む甥が下って “おばさん、何をしにこんなにコングバッ、 麦畑売高田舍で苦労する? ソ¥ウル行くと良い職場多い。 ソ¥ウル行って金儲けして”と言った。その言葉に耳が気が向いてソ¥ウルに上って来た。 永登浦、 鐘路などのタオル工場、 服工場も通って見て赤んぼう見る事、他人の家掃除もしたがするはかばかしくなかった。
ある週末友達が平沢に分かるお姉さんがいると遊びに行こうとするまでお婆さんはソ¥ウルでお金ボルロオン ‘孤児家庭’だった。 初めて間安定里でお婆さんの生は道を振った。 “1960年だったの。 あの時安定里は果てしない大平原だったの。市内に七集だけあると住所も ‘安定里イルゴブジブメ’だった。 今家ある席もあの時はすべてソ¥ルバッだったの。 ところで六時になるから、この狭い安定里フックギルが米軍で一杯になるの。 おおよそ 200人はなるようなの。 シンギハデ. 顔が白くて、 目は青青しくて、鼻はまたどんなに大きいのか。 ここが何の別世界みたいだったの。”
クラブに座ってお婆さんはジュースみたいなお酒レインボー77をさせた。 あの時急に顔白い緒戦(副詞官)がお婆さんにドルを手に握ってくれた。 “ジュースを飲めば私がお金を出さなければならないのに返って私にお金をくれることだ。 そう、 お姉さんに問ったの。 これ受けても良いかと。ところでお姉さんが良いと言う。 安定里では元々そうする取り引き。 それで思ったの。 ‘あ、 ここはじっといてもお金が開けることに。こんなに易しい方法もあるね’と。”
そうして催お婆さんは仁川、 富平など当時米軍基地を歩き回った。 仁川で会った米軍との間で哀悼生んだ。子パパは自分の国でふらりと帰った。 子が三歳になったやって、 起きたら富平にあった米軍基地もすっきり消えた。 “本当にあっという間にに部隊が引越ししてしまったの。 どうして、 子をドルチョアップゴ東豆川、 議政府、 松炭をすべて通ったの。ところで部屋代も高くて米軍もこれからは付かなく。 そう繰り返えして回る初めて来た安定里に来たことだ。”
安定里にまた全時三十¥するか。 お婆さんはもう旬間 ‘年を取った花嫁’がなった。 “子供たち遊ぶことに年を取ったら立ち込めることができない。 昼には食堂で働いたの。夕方に家へ来て風呂に入って化粧すっきりして金儲けしに部隊に行ったの。 夕方 6時30分‾7時に部隊の前へ行けばバス三人の大家立っていて。将校クラブ、 緒戦クラブ、 卒兵クラブそれぞれ 25人ずつ切って、 部隊中に入って行って米軍と遊ぶことができたの。お金多い所帯持ちの男がいる将校クラブは子供たち分け前で、 お酒飲んで踊って遊びやすい卒兵クラブが私たちの分け前だ。 それでもどこか? 部隊中で遊べばちょっと大様に遊ぶことができたの。 そのように四十¥になってはクラブ厭うことをして、 そうしている途中今になったな。”
お婆さんは緑内障のため手ぬぐいでずっと涙を刷り出しながら話した。 インタビュー最後の頃にお婆さんは <ユスラウメ木娘>をまた吟じた。 “ソ¥ウルと言う(のは)手品屋尋ねる所ならなかったよ‾ 真っ赤なその唇に笑みをたたえるエレナだ。むなしい苦労を巻いて故郷へ行こう。” あの時そのレインボー77を食べなかったらお婆さんの生はどんなに変わっただろうか。あの時米軍がいなかったら….
記事登録 : 2008-01-25 午後 02:45:02 記事修正 : 2008-01-25 午後 03:27:29
http://www.hani.co.kr/arti/society/society_general/265605.html