“私の人生と清渓川は一つですよ. テリョははなすことができません. その所でキリスト様にお会いしました. 貧しい人々の素朴な生の中で一緒に涙流す神様を見たんです.”
8日午前ソウル鍾路区栗谷路不変都会官で会った野村モットーYuki(86・野村基之) 牧師は 1968年清渓川を初めて訪問した所感を問う質問にこのように返事しながら死んだ. しばらく後野村牧師は当時自分が撮った写真を一枚ずつ越して思い出を取り出し始めた.
“この子供額に大きいカマキリがいたの. ママがいくら切ながったのか分からないです. 私も都合が苦しかったが 10万円を手術費で伝達しました. この子供が育ってタクシー運転手になったと言うのに, 一度会ってみたいですね.”
野村牧師の目つきはいつのまにかバラックが一杯だったその時代清渓川を眺めるようだった. すぐ九十になる櫓(老)牧師が一生の間集中した主題は清渓川と韓・日関係の回復だった. 清渓川に代弁された貧乏の問題は韓国の経済が成長しながら相当部分解消された. もちろん貧富格差が深くなっているが野村牧師が掛け声基金を用意するために日本東京とソウル, ドイツフランクフルトを行き交った時とは比べることができない. 野村牧師はドイツの救護団体である KNH(Kindernothilfe)からプログラム基金を受けて韓国に何回伝達した.
相変らず残っている問題はますます狂って行く韓・日関係だ. 複雑な韓・日関係を解くために両国がすべきことが何やら問うと “日本は違う言葉以外に謝りばかりしなさい”と声を高めた. 清渓川の聖者で暮しながらも彼は機会ある度に日帝強点期, 日製の蛮行に対して韓国人たちに謝って来た. 2012年 2月在韓日本大使館の前にある平和費に献花して祈ったことから日本で苦楚を経験したりした.
それにもかかわらず彼は日本が謝らなければならないという原則を曲げなかった. 野村牧師は “Abe信條総理が日本国民を代表して韓国へ来て日製の蛮行に対して心より謝って頭を下げなければならない”と “西ドイツの祈るわけブラント総理はワルシャワでひざまずいて本気を見せたが日本政府は 70年が経つように何もしていない”と批判した. 彼は “元々加害者が記憶を早く忘れる方法”と言いながら “リーダーの微温的な態度の仕事をした国民が謝ることができる機会さえ奪っている”と日本リーダーたちの無責任さをつねた.
彼は韓国人たちの努力も必要だと言った. “大変な事だがこれ以上憎しみだけ憶えないでください. 話し合って疏通しなければなりません. 対話を通じて過去日本が何が間違ったのか思い起さなければならないし韓国人たちの腹中深く残っている傷を治癒することができる道を捜さなければなりません. 日本が謝る位関係を進もうという ‘条件付き疎通’は限界が明らかです.”
彼が 60回越すように韓国を訪問して物心両面の愛を伝えている理由はなにか. 彼は “お父さんが残した遺産のため”と言った. 父親野村ジイチ(野村治一) 京都ドシシャデ教授は日本ミリタリズムと国家権力を批判した ‘要注意人物’だった.
野村牧師は “お父さんのお亡くなりになった後暮らし向きが難しくなって貧民村に引っ越したがその所で差別受ける朝鮮人友達に会った”と “人間が人間を軽蔑して無視することに強く反撥した記憶が今も鮮やかだ”と言った. 野村牧師と韓国の関係が始まったことは結局幼い時代の経験が強く作用したからだった.
しかしこのすべてのものがキリスチャンだったから可能な事だと言った. “キリスト様は一生ローマや紐帯, どんな世の中権力と妥協しなかったアナーキストだ”と “ギリシア道人ならこんなキリスト様の生を憶えながら疏外されて涙流す隣りとともにしなければならない”と明らかにした. 野村牧師はインタビューを終わらせて “キリスチャンはいつも ‘キリスト様ならどのようにしただろうか’ 悩まなければならない”と “私が今度訪韓が終わりではないのを祈ってドル”と明るく笑った
[出処] - 国民日報
[原本リンク] - http://news.kmib.co.kr/article/view.asp?arcid=0923795853&code=23111111&cp=nv