李栄薫 元ソウル大教授(李承晩(イ・スンマン)学堂校長)・’反日種族主義’代表著者兼編集者
この文はホンソングン北東アジア歴史財団研究委員が、前の10月14日付の週刊朝鮮に実は’、李栄薫の独島を反論する’に対する筆者の反論だ。
洪委員は、于山国に対する朝鮮王朝の領有認識を証明する資料として1694年、鬱陵島ストグヮン(搜討官)成長上の次のような報告を聞いている。
“西には曲がりくねった大関嶺(テグァンリョン)の姿が見えて東に海を見渡すと、東南側に一つの島がかすかにあるが、大きさは鬱陵島の3分の1にならず、距離は300余り里に過ぎませんでした。”
成長相がソンインボンに登って四方を観察した記録だ。
筆者はこの記録を内容そのまま信頼しない。 推するに彼がソンインボンに上がったことは、太陽が中天にいる時間だ。
独島を見るためにソンインボンに登った人は誰でも経験する仕事だが、中天に独島を観測することはほとんど不可能だ。
茂った木と周辺の峰に滞り、空と通じている沖をかすかに見られるだけだ。
鬱陵島(ウルルンド)から独島の観測はたいてい海抜200mの高さから朝陽と夕陽の澄んだ日差しを背景にしてのみ可能だ。
それも海霧が完全に消えて水平線が鮮明に明らかになった特別な気象条件に限ってでだ。
2008~2009年、東北アジア歴史財団が現地観測した547日のうち、独島が水平線に爪の大きさに姿を現したのは56日に過ぎなかった。
そんな幸運を中天にソンインボンに上がった成長相が享受したとは思えない。
鬱陵島(ウルルンド)から江原道陸地を観測することにも同様であり、たまにきれいな夕日にぼんやりとその輪郭が見られるだけだ。
彼は西の陸地の方向に山形(山形)と低く垂れこめた雲を見て大関嶺と錯覚した。 同様に東南海上に形成されたヘムを見ての傘図を連想した。
実際に見たら、爪の大きさの、独島を鬱陵島のおよそ3分の1としたのもそのためだった。
洪委員は成長相と同行した人が多くて彼の傘も観測が広く知られて行ったものと推測しながら、その後展開された歴史は彼と違っていた。
16年後1710年、鬱陵島を数土したパクソクチャンは鬱陵島(ウルルンド)地図を描いた最初の人だ。
パクソクチャンは鬱陵島の東側に近接したある島を指して”海辺に長く竹田(竹田)があるが、いわゆる于山国という”と書いた。
そのように彼は今日の竹島を于山島と比定した。 竹島という島の名前は事実上パクソクチャンから始まった。
以降19世紀中葉まで様々な鬱陵島ストグヮンが描いた地図も共通に竹島を于山島と名指しした。<地図1参照>
▲<地図1>八度あまり地図の鬱陵島と于山島。(18世紀中葉)
’于山島はない島’認識拡散
以上が、一つの流れなら、もう一つの流れは傘道と実際にはない島という認識が広がったのだ。
池内智士(池內敏)教授の指導分析によると、于山国の位置は1694年以降、鬱陵島(ウルルンド)西から東に進み、北東へ移していく傾向を見せた。
そんな中、傘図を描いていない地図の数も増加した。
例えば、全国も(全國圖)や江原道(カンウォンド)も(江原道圖)で傘もがない地図は17世紀までは20枚のうち、2枚(10%)に過ぎなかった。
そうだったことが18世紀の指導42枚のうちは6枚(14%)、19世紀の指導46枚のうちは18枚(39%)もあった。
19世紀の有名な地理学者の金正浩(キム・ジョンホ)がそのいい例だ。 1834年、彼が描いた請求も(靑丘圖)で傘もは鬱陵島に付いた竹島を指した。
しかし、金氏が1861年に完成した大東輿地図の)で傘もはその姿を消した。
洪委員が1694年以後の朝鮮王朝の傘も領有認識が高まったとし、持っている史料は1770年の’東国文献備考’と1808年の’満期要覧’だ。
二歴史本は”鬱陵島と于山島は、ともに于山国の領土”とし、”于山国は日本でいう松島()”とした。
この言葉が果たしてホン委員の主張通りに解釈されことができるだろうか疑問だが、かりにそうだとしても以上のように18~19世紀かけていくつかに展開された傘も認識のうちの一系統に過ぎないということを指摘しておきたい。
そして、1882年、再び鬱陵島を開拓した時に朝鮮王朝の鬱陵島と于山国に関する認識は大きな混乱を免れなかった。
国王高宗は鬱陵島検察会社李キュウォンを派遣する際、”松島、竹島、于山島が鬱陵島近くにあるが、その距離がいくらか調べよ”と命じた。
彼について李ギュウォンは”于山国はつまり、鬱陵島であり、傘は、旧国道(國都)の名前です”としながらの傘図とは、元々ない島だと主張した。
すると、高宗は’ヨジスンラム’という地理書に触れ、”あるいは松島、竹島、傘も三島を通称し、鬱陵島というから、その状況を検察しなさい”と指示した。
以降、鬱陵島検察を終えて帰ってきた李ギュウォンは鬱陵島(ウルルンド)浮気(鬱陵島外圖)という地図を描いて捧げた。
李キュウォンは歴代ストグヮンが”いわゆる傘も”としたその島を最初から’竹島()’と名づけた。 今日の竹島の名称がこんなに確立した。
描いて、付近にある、一つの島を指して’渡航(島項)’とした。
実はその前から続いてきた認識だが、これで、鬱陵島周辺に二つの島があるという事実が明確になった。
ところが1899年、大韓帝国の学部で製作した大韓伝道(大韓全圖)は鬱陵島北東に付いた竹島を指して傘とした。
李ギュウォンによって死んだの傘が再び蘇ったのだ。
このように朝鮮王朝の鬱陵島と付属島嶼に対する認識は1899年までも大きな混乱を免れなかった。
その時までの長い歳月に鬱陵島(ウルルンド)東南87キロの海上の岩の島、すなわち今日の独島を傘道路特定した地図はたった1枚も描かれなかった。
洪委員は、多くの地図で鬱陵島の東側に付いた傘もがまさにそれだと強弁するが、、鬱陵島(ウルルンド)ストグヮンが残した様々な指導でそれは今日の竹島であることが明確化する。
洪委員の主張は、このような地図の歴史を無視している。
’石濤→の石の島→ドクソム’は根拠がなく、
続いては石島(石島)をめぐる論争だ。
1900年、大韓帝国は、鬱陵島を鬱島郡に昇格し、竹島と石島を付属図書に指定した。 筆者は石島を今日の観音道(觀音島)に比定している。
洪委員は筆者の石濤=観音図説を批判し、昔からよく知られてきた学界の主張を繰り返している。 要約すると、次のようだ。
一定期に鬱陵島(ウルルンド)の韓国人は独島を指して’ドクソム’というヒャンミョン(鄕名)、すぐ音の名称と呼んだ。
1880年代以来、鬱陵島に入国した人たちも同じだった。 彼らは全羅道(チョ.ルラド)の人が多数を占めた。
チョ.ンラドの方言で’石’は’毒’で発音される。
したがって、’ドクソム’を意味で表現すれば’石島(石島)’となって、陰に表示すると、’独島(日本名:竹島)’になる。
これに1900年、鬱陵島の付属図書に指定された石島は今日の独島という論理だ。
筆者は、韓国政府と学界が独島とユヨントソルの最も有力な根拠としているこのような論理を納得できない。 すでに’反日種族主義’でその一端の理由を表明したが、ここでは相違した実証資料を提示する。
この文を書くために、筆者は1916年、朝鮮総督府・陸地測量部が製作した五万分の1全国地図で現れたすべての島の名前を調査した。
当時、陸地測量部は全国のすべての種類の地名を漢字で表記された文字名称とともに、日本の仮名で表記された声の名称の二つに書いた。
もちろん、音の名称は、測量に動員された現地の韓国人から聴取したのだ。
1916年の全国地図ほど伝統的音の名称の実態をよく表している資料はないはずだ。
調査結果は以下の通りである。
1910年代全国海上に分布した’石島(石濤)’はすべて8個だ。 全羅道に3個、忠清道に1つ、京畿道に2個、黄海道に1つ、平安道に1つである。
全羅道3つの石濤の声の名称は’石島’が2個、’ソクソム’が1つである。 ほかの道5つの石濤の声の名称は’石島’が3個、’石濤’が2つだ。
このように、全国に分布した8つの石濤の声の名称は’石島’‘ソクソム’‘石濤’の三つですが、その中’石島’が最も一般的だった。
全羅道ましょう群島には、さじ(國字)で表記された’乭島(石も)’という島があり、音の名称が’石島’だった。
つまり、ホン委員の主張どおり石濤の声の名称を’ドクソム’と呼んだ所は全羅道ではもちろん、全国どこへでもなかった。
全国海上に分布した’日本名:竹島(独島)’はすべて2つだ。
全羅道(チョ.ンラド)高興郡錦山面に1つ、全羅道の海南郡山二面に1つである。 電子の声の名称は’独島’で後者の声の名称は’ドクソム’だ。
大変興味深いことに海南郡山二面、独島の北東4キロの海上に霊岩郡ゴンイジョン面に属した石島がある。<地図2参照>
▲<地図2>、全羅道の海南郡の独島と霊岩郡の石濤。(1916年)
この事実は、独島と石島は異なった意味の二文字名称であることを確実にしてくれている。
意味が異なるだけに、音の名称も違った。 電子は’ドクソム’で後者は’石島’だ。
つまり、文字名称でも音の名称で独島は厳然として’一人でいる島’であり、石濤はあくまでも’石でできた島’だった。
筆者はこれまで数多くの独島研究者たちがこのような常識を無視して、全羅道方言や国語学者の漠然とした解釈に藉口して’ドクソム’は’石島’だから、その文字名称は’石濤’です、その音の名称は’独島’という流の論理を開発、教育してきたことに嘆きを禁じえない。
独島という島の名が初めて確認されるのは1904年9月25日、日本軍艦ニダカ(新高)の’行動か’からだ。
東日誌は”リアンコルドゥ岩を実際に見た日本人から趣した情報”としながら”韓国人はこれを独島と書く”とした。
引き続いては周知のとおり、1905年2月、日本が独島を自国領に編入した後、これを認知した蔚島郡守沈興澤が1906年4月、江原道(カンウォンド)の觀察使に掲載した報告文の中で出てくる”本軍所属の独島”という一節だ。
要するに、ホン委員が筆者を批判するために提示した事実、すぐに鬱陵島住民が独島を’ドクソム’という声の名称で呼んだという事実は1904年頃に独島という文字名称が成立した後のそれを指したもので、大韓帝国が鬱陵島(ウルルンド)の付属図書に指定した石島を対象としたものではなかった。
1880~1890年代、鬱陵島住民が独島をなんと呼んだのかは分からなくなっており、、彼に関する日本側の史料によると彼らも日本人と同様の独島を’リヤンコ’または’ヤンコ’と呼んだだけだ。
石濤はどうして名前が消えたのか
それなら1900年の大韓帝国が鬱陵島の付属図書に指定した石島はその後なぜその名前が消えたのか。
歴代の鬱陵島ストグヮンと検察会社は鬱陵島に付属した島で二つの島を指摘して来た。
19世紀中葉のどの地図は二つの島を指して待遇も(大于島)とそうも(小于島)とした。 傘図を連想した名前だった。
1882年検察会社李キュウォンは、彼らを’竹島’と’渡航’に明記した。
筆者はこのような地図の伝統によって1900年の大韓帝国が名指しした石島はそうも来て渡航の系統を受け継ぐ今日の観音度と比定する。
違って、あぶりだすことが他の島がないからだ。 李キュウォンがつけた渡航(島項)は音の名称が’ソムモク’として実は鬱陵島に移るナルの名前だった。
1916年の五万分の1地図でその点を確認することができる。
言い換えれば、1900年までその島には人が住んでいない中、めぼしい名前がなかったわけだ。
石濤は1900年、中央から来た大韓帝国の管理が任意で命名したものとみられる。
ところが現地で自然発生したこともないし、また、広く流布されていない状態で1910年代の総督府の地方行政制度改編と陸地測量を迎え、観音道と改名されたと推測される。
筆者はこの9月24日付週間朝鮮の文で、1905年に日本が独島を自国の領土に編入する時までも大韓帝国の独島認識は不透明だったと指摘した。
筆者の指摘にブルグェガムを感じる方が多いが、歴史の法廷で関連証拠を解釈、採択、却下させたことに感情が込められては困る。
理性に基づいた冷酷な推理と討論だけが許容されるだけだ。
そうだと筆者が独島は日本の領土と主張するものではない。
1952年、李承晩(イ・スンマン)大統領の独島編入をおいて歴史的文献でその根拠を求めるのは一種のナンセンスだ。
李大統領の決断に関する筆者の立場はすでに李承晩(イ・スンマン)TVや週刊朝鮮で十分に表明した。 読者の皆様の不要な誤解がないことをお願いする。
1903年以来、日本の漁民は独島に日章旗を立てた。
自国領に編入した1905年2月以降は日本島根県が日の丸を挿したのだ。
それでも1906年4月に通報を受けるまでに蔚島郡守はその事実を認知できなかった。
独島に対する定期的巡視を含めた領有体制が成立していなかったためだ。 通報を受けた後も、蔚島郡守は、独島を訪れなかった。
ただ聞いた通りに上部に報告しただけだ。
1906年5月、日本の独島編入を報告を受けた議政府参政大臣の朴斉純の対応でも彼がその時まで独島の存在とその実態を知らなかったことが読み取れる。
以降大韓帝国の抗議を受けた統監府が大韓帝国内部に鬱島郡の淵源について質問した。
彼に関する内部の答弁が1906年7月13日付の皇城新聞に掲載された。
要約すれば、1900年鬱島郡に昇格したこの島が管轄する島は竹島と石島であり、東西が60里(24キロ)、南北が40里(16キロ)ということである。
1900年の勅令41号そのままだ。 独島の帰属をめぐって紛争が起こっているが、”石島とは、すなわち独島です”式の一言釈明や主張がない。
提示された鬱陵島の全駅は東南海上87キロに所在した独島と無関係である。
すでに指摘した通り、鬱陵島についての朝鮮王朝の関心は農業国家のそれを超えなかった。
筆者は様々な研究者がこの新聞記事で、大韓帝国の独島守護の意志を読み取ることにもひどい無理を感じる。
最後に洪委員が筆者が発掘した1911年ごろの鬱陵島の地図で筆者が’石も’で読んだことを’蔚島’でなおして読まなければならないと主張したことについて言及する。
この地図を過ぎていない数年間、筆者は関連二文字を疑問の余地なく’石も’で読んできたが、今回のホン委員の指摘を受けて見直すため、彼の主張に一理があることを分かるようになった。
依然として’石も’ある可能性がなくはないが、’蔚島’ある可能性が高いと思う。
その点を指摘してくださったことについて、ホン委員に感謝する。 すでに印刷された本をどうすることはできないが、追って修正する機会があるはずだ。
しかし、その指導一つに筆者の独島理解に損傷がするわけではない。
その点については前後した筆者の書き込みを細密に読んだ読者なら、誰でも簡単に同感するつもりだ。
http://weekly.chosun.com/client/news/viw.asp?ctcd=C02&nNewsNumb=002582100014
独島反論に対する李栄薫の再反論
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독도 반론에 대한 이 사카에훈의 재반론
이 사카에훈원서울대교수(이승만(이·슨만) 학당 교장)·반일 종족 주의대표 저자겸편집자
이 문장은 혼송 북동 아시아 역사 재단 연구 위원이, 전의 10월 14 일자의 주간 조선에 실은, 이 사카에훈의 독도를 반론하는에 대한 필자의 반론이다.
코 위원은, 우산간 지방에 대한 조선 왕조의 영유 인식을 증명하는 자료로서1694년, 울릉도 스트그(수토관) 성장상의 다음과 같은 보고를 (듣)묻고 있다.
“서쪽에는 구부러진 대관령(테그롤)의 모습이 보여 동쪽으로 바다를 바라보면, 동남 측에 하나의 섬이 희미하게 있다가, 크기는 울릉도의 3분의 1이 되지 않고, 거리는 300남짓 마을에 지나지 않았습니다.”
성장상이 손 인 본에 올라 사방을 관찰한 기록이다.
필자는 이 기록을 내용 그대로 신뢰하지 않는다. 추 하는에 그가 손 인 본에 오른 것은, 태양이 중천에 있는 시간이다.
독도를 보기 위해서 손 인 본에 오른 사람은 누구라도 경험하는 일이지만,중천에 독도를 관측하는 것은 거의 불가능하다.
우거진 나무와 주변의 봉우리에 막혀, 하늘과 통하고 있는 바다를 희미하게 볼 수 있을 뿐이다.
울릉도(우르룬드)로부터 독도의 관측은 대부분 해발 200 m의 높이로부터 자오양과 석양이 맑은 햇볕을 배경으로 해서만 가능하다.
그것도 해 무가 완전하게 사라져 수평선이 선명히 밝혀진 특별한 기상 조건에 한해서로다.
2008~2009해, 토호쿠 아시아 역사 재단이 현지 관측한 547일 가운데, 독도가 수평선에 조의 크기에 모습을 나타낸 것은 56일에 지나지 않았다.
그런 행운을 중천에 손 인 본에 오른 성장상이 향수했다고는 생각되지 않는다.
울릉도(우르룬드)로부터 강원도 육지를 관측하게도 같이여, 이따금 깨끗한 석양에 멍하니 그 윤곽을 볼 수 있을 뿐이다.
그는 서쪽의 육지의 방향으로 야마가타(야마가타)와 낮게 낮게 드리운 구름을 보고 대관령과 착각했다. 이와 같이 동남 해상에 형성된 헴을 본 산도를 연상했다.
실제로 보면, 조의 크기의, 독도를 울릉도의 대략 3분의 1으로 했던 것도 그 때문이었다.
코 위원은 성장상과 동행한 사람이 많아서 그의 우산도 관측이 널리 알려져서 간 것이라고 추측하면서, 그 후 전개된 역사는 그와 달리 있었다.
16년 후 1710년, 울릉도를 수토 한 파크소크체는 울릉도(우르룬드) 지도를 그린 최초의 사람이다.
파크소크체는 울릉도의 동쪽으로 근접한 있다 섬을 가리켜”해변에 길게 타케다(타케다)가 있다가, 이른바 우산간 지방이라고 한다”라고 썼다.
그처럼 그는 오늘의 타케시마를 우야마시마와 비정 했다. 타케시마라고 하는 섬의 이름은 사실상 파크소크체로부터 시작되었다.
이후 19 세기 중엽까지 님 들인 울릉도 스트그가 그린 지도도 공통에 타케시마를 우야마시마와 지명했다.<지도 1 참조>
▲<지도 1>8번 남짓 지도의 울릉도와 우야마시마.(18 세기 중엽)
우야마시마는 없는 섬인식 확산
이상이, 하나의 흐름이라면, 또 하나의 흐름은산도와 실제로는 없는 섬이라고 하는 인식이 퍼졌다것이다.
이케우치 사토시사(연못?사토시) 교수의 지도 분석에 의하면, 우산간 지방의 위치는 1694년 이후, 울릉도(우르룬드) 서쪽에서 동쪽으로 나아&, 북동에 옮겨 가는 경향을 보였다.
그런 가운데, 산도를 그리지 않은 지도의 수도 증가했다.
예를 들면, 전국도(전국도)나 강원도(칸워드)도(강원도도)로 우산이라도 없는 지도는 17 세기까지는 20매 가운데, 2매(10%)에 지나지 않았다.
그랬던 일이 18 세기의 지도 42매 중은 6매(14%), 19 세기의 지도 46매 중은 18매(39%)나 있었다.
19 세기의 유명한 지리학자의 김정호(김·존 호)가 그 좋은 예다. 1834년, 그가 그린 청구도(?구도)로 우산도는 울릉도를 뒤따른 타케시마를 가리켰다.
그러나, 김씨가 1861년에 완성한 다이토가마 지도의 것)으로 우산도는 그 자취을 감추었다.
코 위원이 1694년 이후의 조선 왕조의 우산도 영유 인식이 높아졌다고 해, 가지고 있는 사료는 1770년의동국 문헌 비고와 1808년의만기 요람이다.
2 역사책은”울릉도와 우야마시마는 ,함께 우산간 지방의 영토”로 해, ”우산간 지방은 일본에서 말하는 마츠시마()”로 했다.
이 말이 과연 폰 위원의 주장대로로 해석되어 일이 생길까 의문이지만, 만일 그렇다고 해도이상과 같이18~19세기 걸쳐 몇개인가에 전개된 우산도 인식 중 일계통에 지나지 않는이라고 하는 것을 지적해 두고 싶다.
그리고,1882년, 다시 울릉도를 개척했을 때에 조선 왕조의 울릉도와 우산간 지방에 관한 인식은 큰 혼란을 면할 수 없었다.
국왕 고종은 울릉도 검찰 회사이 큐워를 파견할 때, ”송도, 타케시마, 우야마시마가 울릉도 근처에 있지만, 그 거리가 얼마인가 조사해서”라고 명했다.
그에 대해 이 규워는”우산간 지방은 즉, 울릉도이며, 우산은, 구국도(국도)의 이름입니다”로 하면서의 산도란, 원래 없는 섬이라고 주장했다.
그러자(면), 고종은요지슨람이라고 하는 지리서에 접해”있다 있어는 송도, 타케시마, 우산도 미시마를 통칭 해, 울릉도라고 하기 때문에, 그 상황을 검찰 해 주세요”라고 지시했다.
이후, 울릉도 검찰을 끝내 돌아온 이 규워는 울릉도(우르룬드) 바람기(울릉도외도)라고 하는 지도를 그려 바쳤다.
이 큐워는 역대 스트그가”이른바 우산도”로 한 그 섬을 최초부터타케시마()라고 명명했다. 오늘의 타케시마의 명칭이 이렇게 확립했다.
그리고, 부근에 있는, 하나의 섬을 가리키고도항(도항)으로 했다.
실은 그 전부터 계속 되어 온 인식이지만, 이것으로, 울릉도 주변에 두 개의 섬이 있다라고 하는 사실이 명확하게 되었다.
그런데 1899년, 대한제국의 학부로 제작한 대한 전도(대한전도)는 울릉도 북동을 뒤따른 타케시마를 가리키고 우산으로 했다.
이 규워에 의해서 죽은 것 우산이 다시 소생했던 것이다.
이와 같이조선 왕조의 울릉도와 부속 크고 작은 섬들에 대한 인식은 1899년까지도 큰 혼란을 면할 수 없었다.
그 때까지의 긴 세월에 울릉도(우르룬드) 동남 87킬로의 해상의 바위의 섬, 즉 오늘의 독도를 우산 도로 특정한 지도는 단 1매도 그려지지 않았다.
코 위원은, 많은 지도에서 울릉도의 동쪽을 뒤따른 우산이라도 확실히 그것이라고 강변 하지만, , 울릉도(우르룬드) 스트그가 남긴 님 들인 지도로 그것은 오늘의 타케시마인 것이 명확화한다.
코 위원의 주장은, 이러한 지도의 역사를 무시하고 있다.
석도→의 돌의 섬→드크솜은 근거가 없고,
계속 되고는 이시마(이시지마)를 둘러싼 논쟁이다.
1900년, 대한제국은, 울릉도를 울도군에 승격해, 타케시마와 이시지마를 부속 도서로 지정했다. 필자는 이시지마를 오늘의 관음도(관음도)에 비정 하고 있다.
코 위원은 필자의 석도=관음 그림 해설을 비판해, 옛부터 잘 알려져 온 학계의 주장을 반복하고 있다. 요약하면, 다음과 같다.
일정기에 울릉도(우르룬드)의 한국인은 독도를 가리켜드크솜라고 하는 할몰(?이름), 곧 소리의 명칭이라고 불렀다.
1880년대 이래, 울릉도에 입국한 사람들도 같았다. 그들은 전라도(조.르라드)의 사람이 다수를 차지했다.
조.라드의 방언으로돌은독으로 발음된다.
따라서,드크솜를 의미로 표현하면이시지마(이시지마)가 되고, 그늘에 표시하면,독도(일본명:타케시마)가 된다.
이것에 1900년, 울릉도의 부속 도서로 지정된 이시지마는 오늘의 독도라고 하는 논리다.
필자는, 한국 정부와 학계가 독도와 유욘트솔의 가장 유력한 근거로 하고 있는 이러한 논리를 납득할 수 없다. 벌써반일 종족 주의로 그 어엿한 이유를 표명했지만, 여기에서는 상위한 실증 자료를 제시한다.
이 문장을 쓰기 위해서, 필자는 1916년, 조선 총독부·육지 측량부가 제작한 5만 분의 1 전국 지도에서 나타난 모든 섬의 이름을 조사했다.
당시 , 육지 측량부는 전국의 모든 종류의 지명을 한자로 표기된 문자 명칭과 함께, 일본의 가명으로 표기된 소리의 명칭의 두 개에 썼다.
물론, 소리의 명칭은, 측량에 동원된 현지의 한국인으로부터 청취했던 것이다.
1916년의 전국 지도만큼 전통적음의 명칭의 실태를 잘 나타내고 있는 자료는 없을 것이다.
조사 결과는 이하와 같다.
1910년대 전국 해상에 분포한이시지마(석도)는 모두 8개다. 전라도에 3개, 충청도에 1개, 경기도에 2개, 황해도에 1개, 평안도에 1개이다.
전라도 3개의 석도의 소리의 명칭은이시지마가 2개,소크솜이 1개이다. 다른 길 5개의 석도의 소리의 명칭은이시지마가 3개,석도가 2개다.
이와 같이, 전국에 분포한 8개의 석도의 소리의 명칭은이시지마소크솜석 도의 세 개입니다만, 그 중이시지마가 가장 일반적이었다.
전라도짊어지는 군도에는, 숟가락(국자)으로 표기되었어?섬(돌도)이라고 하는 섬이 있어, 소리의 명칭이이시지마였다.
즉, 폰 위원의 주장 대로석도의 소리의 명칭을드크솜이라고 부른 곳은 전라도에서는 물론, 전국 어디든지 없었던.
전국 해상에 분포한일본명:타케시마(독도)는 모두 2다.
전라도(조.라드) 고흥군금산면에 1개, 전라도의 해남군산이면에 1개이다. 전자의 소리의 명칭은독도에서 후자의 소리의 명칭은드크솜이다.
몹시 흥미로운 것에 해남군산후타오모테, 독도의 북동 4킬로의 해상에 령암군 곤이젼면에 속한 이시지마가 있다.<지도 2 참조>
▲<지도 2>, 전라도의 해남군의 독도와 령암군의 석도.(1916년)
이 사실은, 독도와 이시지마는 다른 의미의 2 문자 명칭인 것을 확실히 해 주고 있다.
의미가 다른 만큼, 소리의 명칭도 달랐다. 전자는드크솜으로 후자는이시지마다.
즉, 문자 명칭에서도 소리의 명칭으로 독도는 엄연히 해혼자서 있는 섬이며, 석도는 어디까지나돌에서 가능한 섬이었다.
필자는 지금까지 수많은 독도 연구자들이 이러한 상식을 무시하고, 전라도 방언이나 국어학자의 막연히 한 해석에 자구 해드크솜는이시지마이니까, 그 문자 명칭은석도입니다, 그 소리의 명칭은독도라고 하는 류의 논리를 개발, 교육해 왔던 것에 한탄을 금할 수 없다.
독도라고 하는 섬의 이름이 처음으로 확인되는 것은 1904년 9월 25일, 일본 군함 니다카(신고)의행동이나부터다.
동쪽 일지는”리안코르두바위를 실제로 본 일본인으로부터 정취 한 정보”로 하면서”한국인은 이것을 독도라고 쓴다”로 했다.
계속하고는 주지대로, 1905년 2월, 일본이 독도를 자국령에 편입한 후, 이것을 인지한 울도군수심흥택이 1906년 4월, 강원도(칸워드)의 관찰사에 게재한 보고문 중(안)에서 나온다”본군소속의 독도”라고 하는 일절이다.
요컨데, 폰 위원이 필자를 비판하기 위해서 제시한 사실, 곧바로 울릉도 주민이 독도를드크솜이라고 하는 소리의 명칭으로 불렀다고 하는 사실은 1904년경에 독도라고 하는 문자 명칭이 성립한 후의 그것을 가리킨 것으로, 대한제국이 울릉도(우르룬드)의 부속 도서로 지정한 이시지마를 대상으로 한 것은 아니었다.
1880~1890넨다이, 울릉도 주민이 독도를 무려 불렀는지는 모르게 되고 있어, 그에 관한 일본측의 사료에 의하면 그들도 일본인과 같은 독도를리얀코또는얀코라고 불렀을 뿐이다.
석도는 어째서 이름이 사라졌는가
그렇다면 1900년의 대한제국이 울릉도의 부속 도서로 지정한 이시지마는 그 후 왜 그 이름이 사라졌는가.
역대의 울릉도 스트그와 검찰 회사는 울릉도에 부속된 섬에서 두 개의 섬을 지적해 왔다.
19 세기 중엽의 어느 지도는 두 개의 섬을 가리켜 대우도(대우도)와 그렇게도(소우도)로 했다. 산도를 연상한 이름이었다.
1882년 검찰 회사이 큐워는, 그들을타케시마와도항에 명기했다.
필자는 이러한 지도의 전통에 의해서 1900년의 대한제국이 지명한 이시지마는 그렇게도 와 도항의 계통을 계승하는 오늘의 관음도와 비정 한다.
다르고, 아상 내는 것이 다른 섬이 없기 때문이다. 이 큐워가 붙인 도항(도항)은 소리의 명칭이솜모크로서 실은 울릉도로 옮기는 널의 이름이었다.
1916년의 5만 분의 1 지도에서 그 점을 확인할 수 있다.
바꾸어 말하면, 1900년까지 그 섬에는 사람이 살지 않은 가운데, 두드러 이름이 없었던 것이다.
석도는 1900년, 중앙으로부터 온 대한제국의 관리가 임의로 명명한 것으로 보여진다.
그런데 현지에서 자연발생한 적도 없고, 또, 넓게 유포되어 있지 않은 상태로 1910년대의 총독부의 지방 행정 제도 개편과 육지 측량을 맞이해 관음도와 개명되었다고 추측된다.
필자는 이 9월 24 일자주간 조선의 문장으로,1905년에 일본이 독도를 자국의 영토에 편입할 때까지도 대한제국의 독도 인식은 불투명했던이라고 지적했다.
필자의 지적에 브르그감을 느끼는 것이 많지만, 역사의 법정에서 관련 증거를 해석, 채택, 각하 시켰던 것에 감정이 담겨져서는 곤란하다.
이성에 근거한 냉혹한 추리와 토론만이 허용 될 뿐이다.
그렇다면 필자가 독도는 일본의 영토라고 주장하는 것은 아니다.
1952년, 이승만(이·슨만) 대통령의 독도 편입을 두어 역사적 문헌으로 그 근거를 요구하는 것은 일종의 넌센스다.
이 대통령의 결단에 관한 필자의 입장은 벌써 이승만(이·슨만) TV나 주간 조선에서 충분히 표명했다. 독자의 여러분의 불필요한 오해가 없는 것을 부탁한다.
1903년 이래, 일본의 어민은 독도에 일장기를 세웠다.
자국령에 편입한 1905년 2월 이후는 일본 시마네현이 일장기를 꽂았던 것이다.
그런데도 1906년 4월에 통보를 받기까지 울도군수는 그 사실을 인지할 수 없었다.
독도에 대한 정기적 순시를 포함한 영유 체제가 성립하지 않았기 때문에다. 통보를 받은 후도, 울도군수는, 독도를 방문하지 않았다.
단지 (들)물은 대로 상부에 보고했을 뿐이다.
1906년 5월, 일본의 독도 편입을 보고를 받은 의정부 참정 대신 박제순의 대응에서도 그가 그 때까지 독도의 존재와 그실태를 몰랐던 것을 읽어낼 수 있다.
이후 대한제국의 항의를 받은 통감부가 대한제국 내부에 울도군의 기원에 대해 질문했다.
그에 관한 내부의 답변이 1906년 7월 13 일자의 황성신문에 게재되었다.
요약하면, 1900년울도군에 승격한 이 섬이 관할하는 섬은 타케시마와 이시지마이며, 동서가 60리(24킬로), 남북이 40리(16킬로)라고 하는 것이다.
1900년의 칙령 41호 그대로다. 독도의 귀속을 둘러싸고 분쟁이 일어나고 있지만,”이시지마란, 즉 독도입니다”식의 한마디 해명이나 주장이 없다.
제시된 울릉도의 전역은 동남 해상 87킬로에 소재한 독도와 무관계하다.
벌써 지적한 대로, 울릉도에 대한 조선 왕조의 관심은 농업 국가의 그것을 넘지 않았다.
필자는 님 들인 연구자가 이 신문 기사로, 대한제국의 독도 수호의 의지를 읽어내게도 심한 무리를 느낀다.
마지막에 코 위원이 필자가 발굴한 1911년즈음의 울릉도의 지도에서 필자가돌도로 읽은 것을울도다시 나와 읽지 않으면 안 된다고 주장했던 것에 대해 언급한다.
이 지도를 지나지 않은 몇 년간, 필자는 관련2 문자를 의문의 여지 없게돌도로 읽어 왔지만, 이번 폰 위원의 지적을 받아서 재검토하기 위해, 그의 주장에 일리가 있다 일을 알 수 있게 되었다.
여전히돌도있다 가능성이 없지는 않지만,울도있다 가능성이 높다고 생각한다.
그 점을 지적해 주셨던 것에 대해서, 폰 위원에게 감사한다. 벌써 인쇄된 책을 어떻게 할 수 없지만, 추후 수정할 기회가 있다는 두다.
그러나, 그 지도 한 살에 필자의 독도 이해에 손상이 하는 것은 아니다.
그 점에 대해서는 전후 한 필자의 기입을 세밀하게 읽은 독자라면, 누구라도 간단하게 동감할 생각이다.
http://weekly.chosun.com/client/news/viw.asp?ctcd=C02&nNewsNumb=002582100014
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