ood君が建てていた歴史スレに回答します。
赤字が私の回答。灰色はood君の考え
比べるといいよ。
なお、本文で「和」というのは人偏に委ねるの漢字「亻委」を意味します。
http://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_9/view/id/3281235/page/1
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質問 1. 日本書紀によれば, 神工皇后が
200年に新羅を征伐して, 249年に全羅道 諸国を征伐して皆百済に割譲したと記録する.
ところでこの時登場する百済王近肖古王は A.D.324年に生まれた人で
新羅王 婆娑尼師今は A.D.112年にもう死亡した人だ.
どうして全然違った時代の人が 200年代神工皇后部分に登場することだろう?
そして三韓=馬韓,辰韓,弁韓ではなく 三韓=高句麗,百済,新羅と記録しているのに
200年代ならまだ 原の馬韓が滅亡しない時代なのにどうして馬韓は登場しないで
600年代以後に定立された三韓=高句麗,百済,新羅という概念がどうして日本書紀 200年代に登場することだろう?
まぁ日本書紀の年代の特定は困難。一節には120年のずれがあると言われている。
だから、西暦に換算して日本書紀を読むと難解。ここは記述された通り、「〇〇天皇〇〇年」という時間軸で素直に読むことが大事。そうなれば疑問も沸かない。
「日本書紀にはこう書かれている」とだけ読めばよい。
例えば、最近の事だが自衛隊機にFC照射した事件があっただろ。
後世の研究者が韓国の記録を見ると「自衛隊機が我が艦艇に接近して威嚇した」と書かれているわけだ。
まぁ事実(韓国の軍艦が日本のEEZ内で作戦行動をしていた。邪魔な自衛隊機にFC照射で排除した)なんて記録が無いわけよ。
だから、国の記録はそういうものだ、と思った方がよい。
返事 1 : 日本には元々文字と記録がなかったから日本書紀を記録する当時には昔のことを憶え出すことができなかった.
過去記録がなくて 百済三書のような外国歴史書を参考して, 創作しなければならなかったからこんな考証間違いが発生するしかないのだ.
質問 2. 日本書紀によれば, 任那は 507年に百済に割譲したと記録している.
ところでどうして韓半島にある 前方後円墳は 507年以後に建設されたことだろう?
任那日本府説と合わせようとすれば皆 507年以前に建設されなければならないことではないか?
そしてどうして任那(慶尚道西南部)ではなく全羅道でばかり発見されることおころうか?
■任那は 507年に百済に割譲したと記録している
本当かい?君の間違いでしょ。
百済に割譲したのは半島南西部(現全羅道)の4県だよ。
任那は釜山から奥に入った場所さ。慶州の山際辺りじゃないかな。
■前方後円墳は 507年以後に建設されたことだろう?
■全羅道でばかり発見されることおころうか?
ここがまさに百済に割譲した4県さ。
割譲したとしても、その地を治めているのは(縄文時代から何千年もそこに定住していた)弁韓人さ。
この弁韓人は和人と同じ習俗を持つ集団だったから、和から見ると外国扱いしてない国なのさ。そして弁韓人も和国を外国とみてなかったのさ。
割譲後の前方後円墳については、百済に割譲された弁韓人は和に捨てられた、と思い、和への郷愁感から和国に流行してた前方後円墳の型式を真似ることが流行したのではないかな。
返事 2 : 当然任那日本府説は作り出された嘘だから年代と位置が一致しないのだ.
それと全然関係がない墓だからだ.
質問 3. 日本書紀によれば, 神工皇后は高句麗も属国で作ったと記録している.
ところでどうして中国歴史書によると 478年に大和王は中国に朝貢を送りながら
高句麗は手におえることができない強敵なので中国が攻撃しなければならないと頼んでいるか?
当代中国の記録, 宮廷, 城 遺跡を見れば高句麗の国力は大和を圧倒しているという事実位は分かる.
■日本書紀によれば, 神工皇后は高句麗も属国で作ったと記録している
本当かい?
和は高句麗から朝貢を受けていたと記録しているのか。まぁ外交使を朝貢と言ったのかも知れないな。
高句麗と和は戦闘もあったが外交関係も続いていたから、土産を持ってきた外交使を「朝貢」と書いたのだろう。日本も中華思想を持っていたからな。
返事 3 : 当然日本書紀は自国をほめたたえるために嘘で創作した歴史書だから. そんな嘘を記録したのだ.
追加質問
質問 4. 日本書紀によれば百済は日本の属国だと記録している.
まぁ確かに百済は永続的な朝貢で王子を質としていたと記録されている。
でも外交と軍事は独自に持っていた事から百済は属国ではない。
属国というのは朝鮮王朝のように外交と軍事を持たず国内の統治だけを任じられた朝鮮王のような形態であり、百済は違う。
質問 5. 七支刀には百済王が大和王を粗末にあしらいながら 侯と呼んでいる.どうしてだろうか?
1 私が有力と考える解釈は、晋皇帝から百済王に贈った刀が七支刀であり、表文は晋皇帝から見た百済王。
【七支刀表面】(秦皇帝より百済王に贈った刀)
泰■四年十■月十六日丙午正陽造百錬■七支刀■辟百兵宜供供侯王■■■■作
2 私が有力と考える解釈は、晋皇帝から百済王が貰った大事な刀を複製(刀を鋳造)して、裏面にその主旨を彫ったもの。つまり裏面は百済王の書いた和王への献上文
【七支刀裏面】(百済王が和王に贈った刀)
先世以来未有此刀百濟■世■奇生聖音故為和王旨造■■■世
つまり、晋皇帝から戴いた大事な刀を和王に贈るために(戴いた刀で型をつくり百済領内の良質な鉄を用いて鋳造=日本書紀)造った
こういう事でいいでしょ。