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32代百済王 善光
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33代百済王 昌成
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34代百済王 郎虞
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35代百済王 敬福 ←天皇の家臣
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当社は奈良時代(8世紀後半)百済王氏の祖霊を祀る祠廟として、東隣にその跡を残す百済寺とともに創建されたと考えられています。
朝鮮半島の古代国家の一つ百済(くだら)は、斉明天皇6年(660)に唐・新羅の連合軍に滅ぼされました。その後、百済再興の戦が続きましたが、天智天皇2年(663)に白村江において敗れ、百済復興の夢は潰えました。資料によれば、その翌年には数千もの人々が我が国に逃れました。百濟國王第31代義慈王の子、善光(禅広)は当時日本にいましたが、百済を逃れて来朝した百済遺民らとともに朝廷に仕えました。朝廷は善光とその一族を重んじ、持統天皇7年(693)には「百済王(くだらのこにきし)」という氏族名を与えました。その後、聖武天皇の御代、東大寺大仏造立に際し、陸奥守であった百済王敬福(善光のひ孫)は大仏塗金のための黄金900両を献上し、天平21年(749)、敬福は従三位に叙せられ、宮内卿・河内守に任ぜられました。これを機に百済王氏一族は摂津国百済郡の居住地を離れ、ここ河内国交野郡中宮の地に住まいを移し、氏寺百済寺と神社(祠廟)を建立したと考えられています。
百済王氏一族は桓武天皇・嵯峨天皇らの時代、天皇家の外戚ともなり、隆盛を誇りますが、9世紀後半からは勢力を失ってゆき、9世紀末には史書から姿が消えます。そのため、その後の百済王氏の動向は詳らかではありませんが、長くこの地で禁野司として命脈を保ち続けます。しかし、大永元年(1521)の百済王遠倫の叙爵を最後に記録から消え去ります。また、当時の記録として、天文24年(1555)、牧郷の一宮(現 片埜神社)の御神田帳に百済寺の記載があります。
歴史の中に埋もれてしまったな(´;ω;`)ウッ…